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カズサン

【近江 越川城】滋賀県彦根市 肥田城の支城 (2024/06/24 訪問)

 肥田城探訪の折りグーグルマップで事前調査の中に、肥田城と宇曽川を挟んで東川沿いに越川城史跡マークが有り肥田城探訪中に寄ってみました。

 住所:滋賀県彦根市三津町、宇曽川の高橋渡北川沿い下約100mの小公園
 駐車場:肥田城跡小公園の駐車場利用。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 肥田城跡より西町大通りより宇曽川に架かる高橋を渡り宇曽川の北側沿いの下に民家と隣接した小公園が有り、縁をツツジ生垣で囲み砂利整地に石を三石置いて「越川城跡」石碑、平成22年3月記が立っている。案内板は無い。こじんまりとした奇麗に整備されています、石碑だけですが自己主張してる様です。

 後日、日本城郭全集8京都・滋賀・三重編、滋賀県の城編で越川城が記載されていましたのでそれに依ると。
 越川城は、肥田城と宇曽川を隔てた北岸にあり、肥田城の支城として、田野瀬氏の臣久木氏が拠っていた。越川の名は肥田川の一部が川を越して築かれたところから生まれた(『愛智郡誌』)。
 
 

 

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龍造寺

伊是名城 (2024/05/25 訪問)

フェリーは運天港-仲田港まで1日2便。1便目に乗れば約2時間後の帰路便に乗船可能。限られた時間の為、
仲田港付近のレンタル原付(約2時間)2,000円をお借りし、伊是名城をゆっくり観光。
本丸跡と思われる山頂まで行くも切りだった斜面で過酷だったが絶景がを一望出来た。

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龍造寺

伊是名城 (2024/05/25 訪問)

フェリーは運天港-仲田港まで1日2便。1便目に乗れば約2時間後の帰路便に乗船可能。限られた時間の為、
仲田港付近のレンタル原付(約2時間)2,000円をお借りし、伊是名城をゆっくり観光。
本丸跡と思われる山頂まで行くも切りだった斜面で過酷だったが絶景がを一望出来た。

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カズサン

水攻め合戦の肥田城 (2024/06/24 訪問)

 近江未踏城廻りで肥田城を初登城しました、水田の中に城址小公園が有り案内板、石碑、駐車場が揃っており大変ありがたい。

 駐車場:グーグルマップの肥田城跡マーク地(35°12'05"N 136°12'27"N h=100)、肥田城跡小公園約1反くらいの広さ余裕有り。
 参考資料:城郭放浪記さん城びと投稿の皆さんグーグルマップに依る。

 グーグルマップの肥田城跡目標に合わせて到着、新しく小公園として整備されたらしく駐車場がよく整備されている、北西奥に山王祠が祀られている。また大きな自然丸石に肥田城跡と刻んだ石碑(H22.11、記)、整備されて14年経っていたのですねでも真新しく感じます、肥田城跡の案内解説板、小解説板も有り分かり易くなっています。
 県道204号線から駐車場へ入る時にチラッと見た城名碑と小案内板の確認探訪から開始、ここは県道204号線北側沿道沿いに肥田城跡石碑と小立案内板がある、ここは城びとの肥田城指示マーク地となります。
 そこから県道を西に戻り南西に約150m進み、住吉神社の斜め南にグーグルマップ史跡マーク地肥田城土塁豪跡が在り、土塁と改修されていますが堀跡を確認できます、後で案内板の肥田城跡地図を確認したら南西角の土塁と濠らしく、ここ辺りを起点として南側に環濠土塁が約480m東に伸びて北にクランクして約280m環濠土塁が続き宇曽川に繋がっていた様です。
 そこから戻り県道204号線へ、東へ進み城郭放浪記さんの肥田城マーク地である肥田町公民館へ駐車場も有ります、月曜日で休館、案内板に解説シートを置いてありますと有りましたがゲットできず、公民館隣の歴史資料館・崇徳寺へ山門が茅葺で趣がある、中に入って肥田町歴史ロマンロードめぐりMapが張って有り撮影、崇徳寺は歴代城主菩提寺の様です。西町大通りに出て宇曽川に架かる高橋より上流下流を眺める、高橋の南に豊穣の石碑、城下町肥田の立小看板、肥田町歴史ロマンロードめぐりマップ大案内板が有り、西町大通り東町大通り登町大通りの通りと町屋往来は昔のままだそうです。
 駐車場に戻って車で、北西に在るグーグル史跡マーク「肥田城水攻堤」聖泉大学の北側に在ります、そこには立派な自然石「史跡肥田城水攻堤」碑と小立看板がり堤も確認。秀吉の水攻めより早い段階で堤を築いて水攻め合戦が有った様で新知識を得ました。
 
 案内解説板によると
 肥田城は土着の豪族高野瀬隆重が六角氏の命により築いたと伝えられる平地城館です。以後長く六角氏の配下にあった高野瀬氏でしたが、秀隆の代に浅井長政と通じます。そのため、永禄2年(1556年)の「肥田城の水攻め」、翌年の「野良田表の合戦」と2度に渡り六角承禎の大規模な攻撃を受けましたが、浅井方の援軍により勝利。
 高野瀬秀隆亡き後、肥田城には織田信長・豊臣秀吉の下で蜂谷頼隆・長谷川秀一が城主となって活躍しますが、秀一の病死とともに廃城となる。
 江戸時代になり、肥田城の中心部は開墾されて「上新田」「下新田」の美田に生まれ変わります、その周辺の寺社、登町、西町、東町は城下町の町屋が整備された区域でした、今も名残があります。
  

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モト

秀吉が宿泊したんだそうです。 (2024/06/11 訪問)

黒田親子の城であり、秀吉の九州征伐の際には、秀吉が宿泊をしたんだそうです。
天下人が泊まった城と聞くと一気にすごい場所なんだと実感してしまうのは私だけでしょうか。
もちろん城跡としての遺構も土塁や横堀などを確認でき、見学しても満足を得られる城跡だと思います。
加えて秀吉が座った太閤岩、官兵衛岩と又兵衛岩もありました。
順に行くと二の丸に辿り着きそこからは素晴らしい眺望です。
二の丸より本丸へ向かいますが、その間にある水溜め跡は雰囲気があり、横堀跡は深い堀が続いているのが見れて素晴らしかったです。


駐車場から5分から10分ほど歩くと登城口です。
大河ドラマの影響でだいぶ整備されたという事で基本的には歩けるようになってます。

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にのまる

猪苗代城と鶴峰城 (2024/06/22 訪問)

新潟駅⇄新潟城往復のウォーミングアップののち、信越本線で新津へ。
新津から「SLばんえつ物語」で会津若松。
会津若松から郡山へ向かう途中、猪苗代駅で下車しました。

猪苗代城は、会津若松城訪問の際に毎度気になりながらも寄ることができずいたので、駅に降り立った時の嬉しさも一入でした。

この時期の訪問ですので草や葉に覆われていても当然のこととその点はあまり気にとめずにいたのですが、整備された散策路はとても歩きやすく、見どころやビューポイントは思わず感嘆の声をあげてしまうほどで、列車から見えたあの緑の山の中がこんなふうに造られていたのかと、感動とともに長年にわたる城の維持整備のありがたさを思いました。

この地から世界に羽ばたいた野口英世博士の胸像が見守る東側の近世の丘(猪苗代城)に残る石垣遺構。戊辰戦争から時が止まったままのようなその佇まいは城びとの心に刺さるものがありました。
西側の中世の丘の方は「鶴峰城」というのだそうです。こちらも散策路が続いており、標柱を頼りに現状から往時の姿を思い浮かべることができました。


朝田辰兵衛さん。
下関PRありがとうございます。
海の幸は新潟といい勝負ではないかと!
日頃からみなさまの投稿を拝見していて、地元のお城が登場するとドキドキします。
楽しんでもらえただろうか。あの石垣は見てもらえただろうか。どうかディスられませんように……と。逆に知らなかったことを教えていただけることもあり、たいへんありがたく思っています。
日本中どこでも、そこは誰かの大事なふるさとだということを心に留めて城めぐりを楽しんでいきたいと思います。

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城下町散歩 (2024/07/13 訪問)

 岐阜市へ行く機会がありましたので、市内を散策しました。このところ毎年続けて登城していることもあり山の上の城には今回は行っていません。

法華寺
 織田家ゆかりの寺で岐阜城の門が移築されています。

梶川堀
 斎藤道三や織田信長は城下町の整備を行いました。梶川堀は城下の堀で、この堀の東側に武家屋敷、西側に町屋が配されていたようです。現在は水路となっています。

立政寺
 東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えた寺で、織田信長が戦国最後の将軍となった足利義昭を迎えた場所として知られています。

崇福寺
 織田家の菩提寺で、織田信長信忠親子の廟所があります。その昔は快川紹喜が住職を務めたり、稲葉一鉄が若い頃小僧として修行していたりと興味深い歴史を持つ寺です。関ヶ原の戦いで当時岐阜城主であった織田秀信は西軍についたため岐阜城は攻められ落城します。家来たちは、討死にや割腹自殺をし、その際に床板に 血痕が付着したものを本堂前周辺部に天井として残っていて、崇福寺の地天井と呼ばれています。内部は有料で興味深い展示物があるようですが、今回は時間の都合もあり外だけさらりと見学しました。

円徳寺
 織田信秀、織田信長、織田信秀ゆかりの寺です。天文16年(1547年)、織田信秀が当時は井ノ口といっていた岐阜に攻め入った際、斎藤道三に大敗し5,000人ともいわれる戦死者が出ました。この戦死者を弔うための織田塚が円徳寺境内に安置されています。関ケ原の戦いの後、敗れた織田秀信はこの寺で剃髪したといわれています。

 以前に総構えの土塁や川原町付近を散策したことを投稿しました。今回は以前散策した場所以外の所を歩いていますが、まだまだ岐阜市内には興味深いポイントがありそうです。機会があればボチボチ散策してみます。


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鏡島城 (2024/07/13 訪問)

 岐阜市鏡島にあったという城です。城びとには未登録の城址です。遺構はありませんが、石碑と説明板が立っていました。近くには城主であった石川駿河守光清によって祀られたといわれる稲荷神社がありますが、この神社から南側一帯が城域であったようです。由来は室町末期に斉藤帯刀左衛門が築城し石川駿河守が長く居城したが、岐阜稲葉城落城の折廃城になったように説明板には書かれていますが、諸説あるようです。

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シェル

柳堤の材料になったお城 (2024/03/27 訪問)

 JR水戸駅北口から水戸城の南側を通る国道51号を進み、常磐線と桜川を渡り、川に沿って東に進んだ路地に入ったところにある水戸市竹隈市民センターの東側に城址碑があります。
 慶安4年(1651)に千波湖に築かれた柳堤(りょうじょう)の築造の際に、武熊城跡から採土が行われ、城跡は消滅してしまい、遺構は残っていません。
 城に関する地名については一部残っていて、石碑から北東に少し行ったところに「搦手橋」という桜川にかかる橋が現在も存在しています。
 また国道51号近くの柵町児童公園には、柳堤の石碑があります。武熊城の土で築造された柳堤も、大正から昭和初期にかけての千波湖の東側の埋め立てで失われてしまったようです。ですが柳堤の名前は、こちらも桜川にかかる橋の名前としては現在も残っています。

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零汰

閑話:霧多布岬とモンキーパンチ

北の大地の海岸線は岬の宝庫です。一番行きたかったのは宗谷岬でも納沙布岬でもなく霧多布岬でした。

霧多布岬は浜中町にあります。浜中町といえばモンキーパンチと峰不二子の出身地です。そこ目当てなのでアニメファンの言うところの聖地巡礼見たいなものです。多くの我々年代の憧れの女性像は小学生時代に刻まれた峰不二子によって造られたと言っても過言ではないのでは無いでしょうか?

浜中町総合文化センター内にモンキーパンチコレクションがあるのですが改修工事の為に休館中でした。霧多布温泉ゆうゆには浜中町限定グッズがあるので二人の孫にルパン土産を買い、勢いで自分用に不二子ちゃんバスタオルを購入しましたが帰宅後にこっぱずかしくなり娘に渡す羽目になりました。

町内にはルパン三世通りがあり仮想店舗がありましたので撮影する事が出来ます。ルパン三世好きや不二子ちゃん推しの方、近くに行かれたら立ち寄ってみたら如何でしょう、総合文化センターは秋には再開されるようです。

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朝田 辰兵衛

下関あるある「福岡バック」の途中下車で🚉 (2024/06/20 訪問)

東日本や北日本などから下関へ向かう時,ひとまず✈福岡空港へ飛び,地下鉄で博多駅へ。博多駅から下関駅(新下関駅)へ戻って向かうことを「福岡バック」や「北Qバック」などと呼称し,下関あるあるとなっているそうです。
新潟市内からは,新潟空港へ行き✈福岡空港へ。昼前には博多駅ホーム上に立つことができます。
1年前は土砂降りだったので,途中下車しませんでしたが,気になっていたのが若松城でした。にのまるさんの投稿で紹介されていた「戸畑図書館前の記念石」。これを確認して,いざ若戸大橋へ向かえば感慨もひとしおだろうと…。

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Ninja

100城達成 (2024/07/07 訪問)

相棒、忍者とともに。七夕の暑い日でした。城を攻めた後は、ビーナスラインを攻めました。

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ぐっちゃん

きれいな公園です (2023/06/25 訪問)

とてもきれいに整備された駐車場もあり、天気も良くてとてもいい写真が撮れました。もちろん車いすでも一周できますよ。

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カズサン

多武木神社 (2024/06/24 訪問)

 近江未踏の城廻り、浅小井城を目指して曳山とイ草の館を目指して、多武木神社を訪ねる。

 駐車場:曳山とイ草の館(35°08'36"N 136°06'51"E h=90m)
 参考資料:城びと皆さんの投稿

 月曜日で曳山とイ草の館は休館、広い駐車場です、駐車場から東に100m程進むと、小さな鳥居が見えてそこが目的の多武木神社・浅小井城跡、参拝して、皆さんの投稿にあった額入り由緒を撮影、遺構周辺良く分からず民家も有り、退散しました。
 集落の道は狭く交通には要注意です。
 

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カズサン

チョイ寄り天下布武活動中 (2024/06/24 訪問)

 今回の近江未踏の城廻りで後藤館から伊庭御殿の移動中、安土城前の県道2号線を通りましたので、寄らなくてはと大手門跡山麓周りを訪ねました。

 駐車場:安土城大手門前の無料駐車場。

 発掘復元された大手門周りの石垣、曲輪を再確認して、大手道手前の摠見寺受付・安土城登城ゲートまで行き、大手道の石段を遠目で確認して望遠で撮影。
 大手道手前の西側上段郭と下段郭で天下布武君が夫々芝刈り活動中、天下布武幟旗を立てて小型の自動草刈り機(家庭用ルンバの芝刈り版かな?)が活躍し奇麗に郭の芝を刈っていた、雄々しい姿にさらに感動。
 
 城なび館を覗いていたら、九州から日帰りで安土城は済ませ、観音寺城の登城と百名城スタンプを求めてる方が観音寺城への訪ね方を店の方に相談されて居り、私もチャッカリ輪に入り会話、結局はタクシーで登られることに、今日中に九州に帰ればいいとの事、新幹線で日帰りできる便利さを痛感。
 
 感動は芝を刈ってる天下布武君です❣
   

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ぎりょう

深い空堀に感動! (2024/06/30 訪問)

佐久・小諸の旅二日目。前夜は北国街道の宿場だった小諸の夜の街もちょいと気になっていたのですが、今回は家内が一緒の旅、小諸城址にほど近いホテルに宿泊し、信州の地酒を吞みすぎて早々とダウン(笑)
天気が気になり、先ずは小諸城に初登城。この城の起源は長享元年(1487)に大井氏が築いた鍋蓋城とのこと。その後天文23年(1554)に佐久を制圧した武田氏により拡張整備されます。天正19年(1591)に秀吉の寵臣千石秀久が小諸に配されると、城は石垣造り、金箔瓦の三層天守を置く織豊系城郭に大改造され、現在残る姿になったということです。
城址は現在「懐古園」として公園化されており、本丸跡に懐古神社、小諸城ゆかりの武具や古文書を展示する徴古館、藤村記念館、動物園や遊園地があり、この地を訪れる観光客のみならず、春夏秋冬、多くの市民が利用する場所となっています。
城地が城下町より低い位置にあることから「穴城」の異名を持つ小諸城、この城の顔ともいえる三の門から登城。二の丸、南丸、北丸を経て黒門橋、黒門跡へ。本丸、天守台から水の手展望台、富士見展望台と、城址をくまなく確認できました。特に秀久の時代に築かれた野面積の天守台石垣と自然地形を利用した紅葉谷と地獄谷の空堀には感動しました。
数年前に松本城や上田城を訪問していながら果たせなかった小諸攻城ですがやっと思いを遂げることができました。
残念だったことは攻城後ゆっくり旧街道沿いの街並み散策を考えていたのですが、小雨となり三の丸附近だけとなったこと。また城館訪問とは関係ないのですが、小諸は「寅さん」を演じた俳優、渥美清と関係深く「寅さん会館」があると聞いていたのですが、現在は閉館していたことでした。




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しんちゃん

城び斗の拳 (2024/02/23 訪問)

※ 今回の投稿は少々御見苦しい箇所が御座います。あらかじめご了承お願いします ❀❀❀

十市城は水田の中の約70m四方の微高地の畑地が中心とされ、外郭を含めた大きさは約430m×550mとされています。大和四家・十市氏によって築かれたとされ、居館が拡充して平城になったと想定されています。同じ大和四家で比較すると箸尾氏(箸尾城)とほぼ同じ規模で筒井氏(筒井城)より、やや大きかたったと想定されています。
今は城址碑しか残っておらず、往時の姿は想像に任せるしかありません。ちょこ城ですね。
私は「ちょこ城」の中でも城址碑や石碑しかない城を「あたた系」と呼んだりもします。何でって‥お墓みたいだから。
お前はすでに死んでいるってね(不謹慎!)‥‥おや?
十市城「あたたたた!」
しんしんちゃん「なにっ!?」
十市城「奥義 死んだふり狸拳!」
しんしんちゃん「ひっ ひでぶっ!」 どかーん

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大変です! しんしんちゃんが十市城に倒されてしまいました。  マジっすか?

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ぴーかる

西尾城 (2024/05/11 訪問)

【西尾城】
<駐車場他>西尾市歴史公園駐車場30台分程あり。
<交通手段>車

<見所>屏風折れ土塀・復元天守台・復元建造物・水堀
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅12城目。現地で貰えるリーフレットによると西尾城は承久の乱の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏(吉良氏)が築城した西条城が始まりと伝えられます。戦国時代末には酒井正親・重忠、田中吉政と城主が代わり、関ヶ原の戦いの後には本多康俊が2万石の西尾藩主として入ります。1638年に太田資宗が総構えの体制を企画し、井伊直之が工事を継いで完成します。1764年より大給松平氏が6万石で入城し明治まで存続します。
 現地は本丸跡と二の丸跡の一部が残されており二の丸跡に復元建造・構造物の鍮石門・丑寅櫓・屏風折れ土塀・天守台があり、移築した旧近衛邸があります。どれも見応えがあり、下見板張りがいい感じです。本丸⇔二の丸の間の水堀は遺構が良く残されています。復元の本丸丑寅櫓は16:30を過ぎていたため入城出来なく残念でした。無料資料館の展示物も充実していて、もっと時間を取ればよかったと後悔しました。

<満足度>◆◆◇

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零汰

桜丘チャシ (2024/05/09 訪問)

先日投稿した桂ヶ岡チャシと同じく砦用チャシです。
写真や説明版の配置図を見て頂くと分かると思いますが、チャシでありながら砦に特化した場合は普段目にしている周辺の城郭と同じです。風土や文化・歴史の違いはあれ守りに入る際の人間の思考は似通っているんですね。

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しんちゃん

桂浜ぜよ (2013/11/14 訪問)

高知県高知市浦戸の桂浜は高知県を代表する観光名所で坂本龍馬の像が有ることで有名です。海がキレイなんですね。
坂本龍馬好きなら一度は訪れたい場所で、近くには長宗我部元親が築いた浦戸城跡があり坂本龍馬記念館が建っています。時代によって評価が上がったり下がったりする人で、武田信玄と並んで歴史の教科書から消えそうになったりしてますが、龍馬がいなかったらどんな日本になっていたでしょうかね。

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