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カズサン

舌状台地東に生駒氏八森城 (2024/05/23 訪問)

 東北城探訪3日目を終えて、北上駅前に宿泊、4日目は午前中を秋田県由利本荘市八島、と横手市の登城へ、昨年8月ぎりょうさんの投稿で生駒氏の八森城、陣屋が存続してる事を認知し行ってみたいと城びと登録、中々訪ねるには遠距離なので、今回の東北城探訪の三内丸山遺跡、福島城はじめ安倍・安藤氏の城郭主目的企画に加え、交通の便利な北上から秋田道を走り地道を越えて初探訪しました。念願が叶って大変満足です。

 駐車場:八島総合支所駐車場を利用、トイレは支所を利用させて頂きました。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 八島総合支所から八森城大手門、大手門橋へ松が植わって居り遠くからも位置が分かります、投稿写真で見ていた、水堀、大手橋、手前には八森城址碑、八森城址解説板、八森城家中絵図(明治4年)が設置されてる、前には藩学日新堂跡の標柱、八島高校跡の石碑も立っている、大手橋からは関係者以外立ち入り禁止看板と工事用安馬がガードしてるので覗くだけ、水堀の北端の石垣を確認して、八島歴史交流館へ、開いていない外部周辺を見学し、生駒家重臣佐徳家の住宅で明治に成って再建、江戸期の武家屋敷基準で建築されているとの事。武家屋敷跡の丸石石垣が雰囲気を醸してる、途中に佐藤政忠家住宅が移築されて支所近くに建っている、周辺立退きか再開発か?建物が無く空き地が広がっている、元小学校も建物は有るが空きなのか?グーグルマップで確認すると東の子吉川沿いに小学校中学校高校と纏まっています。
 
 八森城の資料の入手の為、交流館がダメでしたので総合支所に寄り資料、情報を頂く、往路の県道32号線は峠が狭くひやひやでしたので帰路の情報もゲット。支所の方々にお世話に成りありがとうございました。
 総合支所の紹介で日新館・資料館を訪ねる、玄関先から鳥海山を2度目仰ぎ見る事が出来ました、丁度鳥海山ろく線終点八島駅が近く水色の可愛い1両電車、気動車が動き出発本荘市へ。

 讃岐の高松城、丸亀城の石垣構築をした生駒氏が家中の騒動で家禄を没収されて、1万石の堪忍料を許されて出羽の八森城に入り陣屋として幕末明治まで継承された、生駒家が八森城八島で家名存続だけでもありがたい事です。感激の探訪でした。

 10番目の写真は県道32号線ひやひやして走行した後の八島側の棚田と雪を被った鳥海山の写真で細道峠を越えたご褒美かも知れません。

 この後は横手市の沼館城・沼の柵を探訪します。
 

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chiroru

なかなか良かったよ (2024/06/15 訪問)

博多方面からの九州新幹線で久留米駅到着手前、久留米城だぁと見つけて久留米駅から徒歩にて城跡まで向かいました。

ブリジストン通りでは三ノ丸跡、二ノ丸跡の石碑を見つけることができ本丸までの道のりを十分に楽しめました。
縄張りとか距離感が体現できますよ。

本丸の石垣は石垣の教科書みたいで石垣用語に出てくる言葉の実物がたくさん発見できます。

櫓跡の石碑がとても親切で「なるほどここね!」みたいに、現存していたらすごい迫力だろなと感心しきりの城巡りでした。
櫓の復元ができたら新幹線からも見えるであろうし、見学に訪れる方も増えたりしないのかなぁと願望も添えて。

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トク

105【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政の初陣(2/2)-高天神城攻め) (2024/02/16 訪問)

(26人目)「井伊直政」の続き⑦です。
直政の初陣で、水の手を断った事で有名な高天神城を訪れました。

さすがに人気の山城です、確かに遺構も多く見ごたえがありました。城の詳細については、カズサンなど地元の方々が過去に多数投稿されてますので、私からはあえて井伊直政にこだわった内容にしたいと思います。

高天神城を武田から奪還すべく、家康は1579年に勝頼からの援軍が来ないと知ると、横須賀城を本陣とし、回りに六つの砦を築いて兵糧攻めにて落とそうと考えます。直政はその一環として、水の手を断つ策を発案して高天神城を陥落させ、この功績で大幅に加増されたというのが、訪問前の私の予備知識でしたが・・・

彼岸桜が咲く追手門(写真①②:訪れたのは2月です)から登り本丸に到着すると、なぜか(🤔?)飲み水用の水道がありました(写真③)。蛇口をひねってみると水が出ました。現在は水の手は断たれていないようです(笑:あたりまえ)。

どこかに穴を深く掘った形跡はないか探しました。すると大河内政局が幽閉されていたという牢(ほら穴)がありました。この奥ではないか?と思い中に入りたかったのですが、厳重で中へ入れそうにありません(写真④)。しかしよく考えると、ここは井戸の上なので、ここはありえない? 水を抜くためには、井戸の下から掘らなければ意味がないので、今度は井戸の下を探すことにします。

高天神城には井戸が二つあります。まずは「三日月井戸」の回りをぐるりと見渡しました。ここは今でも水が残っているので、水は断たれていないようです(写真⑤)。なぜだか考えました🤔。当時は井戸の回りに今のような杉の木はなく、するとここは下の搦手門から丸見えなので、ここで水を汲むは敵に姿をさらすようなもの。また小さな溜め井戸なので当時はもしかして枯渇していたかもしれません。よって籠城中に汲む井戸ならこの上の井戸曲輪にある「かな井戸」かなと思い今度はそちらに向かいました(写真⑥)。

この「かな井戸」を、まず上から恐る恐る覗いて見ました。とても大きくて深い井戸です(写真⑦)。そして何と水がありません(ここだ~😲!)。私は井戸曲輪の回りをぐるりと一周し、さらに曲輪の下を歩き、どこかに水抜き穴らしき跡がないか探しました。曲輪の下の崖を忍者のようにへばりついて探していると、「大丈夫? 何やってんの? 危ないよ!」と声をかけられました。大丈夫です、私は決して怪しい者ではありません(いやどう見ても怪しいと思うが・・🤔)。30分くらいへばりついて探したのですが、だんだんと体力に限界を感じ、滑り落ちそうになってきたので、そこで断念しました。よって結局はそれらしき穴を見つける事はできませんでした(残念です)。

よく考えたら、わずかな時間でそう簡単に見つかるわけないですよね。高天神城まで来て他には目もくれず、井戸曲輪の下の崖にへばりついて、水抜き穴を探していた怪しげな城びとは私だけでしょうか? 発案したのは直政ですが、実際に実行したのは伊賀衆だとか? その証拠に直政は家康の傍にずっといたのか敵首を上げた記録がありません。穴は埋められ今は残っていないのでしょうか? 疑問が残ったまま、ちょっとモヤモヤした気持ちで終わってしまいました(くやしいな~😩)。

最後に、高天神社の階段から西の丸に登り(写真⑧)、馬場平から見た景色は最高でした(写真⑨)。

「高天神を制する者は、遠江(とおとうみ)を制す」

この場所から遠州灘を眺めると、まさにこの意味が解かる気がしました。そしてここで、駅で買ってきたメロンパンを食べました(ああ~おいしい😊)(写真⑩)。

高天神城を落とした万千代は、どんな思いで家康とともにこの景色を眺めたのでしょうか? 初陣を無事果たし、そして自分の功績を喜んでくれた家康を見て、「家康様のために一生働こう」と固く心に誓ったのではないでしょうか?

この功績で万千代は3千石から井伊谷を含めた2万石へ加増されます。万千代この時20才。事実上の井伊家再興を果たした万千代の元へ、井伊谷に潜んでいた井伊家の旧臣達が、続々と集まってきたようです。

この後、武田滅亡を果たした家康をねぎらうため、信長は完成したばかりの安土城に家康を招待します。直政も家康とともに安土を訪れました。そこで直政は、いったい何を見たのでしょうか? 次は直政の気持ちになって(安土城)へ登城します。
 

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イオ

搦手側(本丸~西の丸~出丸) (2024/04/27 訪問)

(続き)

馬場を南に抜けて登城道西側の鳥居をくぐると南側に二の丸、御納戸と呼ばれる曲輪が続き、切岸に沿って南に回り込むと本丸に至ります。本丸は大河内神社の境内地になっていて、入口の鳥居の脇に大河内城阯碑、境内に大河内合戰四百年記念碑や大河内城跡の説明板が立てられています。本丸と西の丸の間にはマムシ谷と呼ばれる谷が入り込んでいて、その南端の堀切に架かる橋を渡って(その前に堀底にも下りて)西の丸に向かうと、西の丸にも社殿が建ち、周囲の切岸の下には腰曲輪が広がっています。西の丸から北と北西に派生する支尾根には堀切を設けて北からの侵攻に備えていました。

西の丸から登城道まで戻って搦手側へ。二の丸には表忠碑が建ち、その南側は切通道状の堀切になっています。切通道を西に少し行くと井戸跡がありますが、現状では井戸というより貯水池のようです。堀切から南東に続く道が搦手道で、搦手門跡の石碑が立てられていました。堀切を越えて南に続く尾根には出丸と呼ばれる曲輪があるようなので上って行ってみると、尾根沿いに小さな曲輪が連続し、幾条かの堀切が設けられていました。

「三重の山城ベスト50を歩く」の縄張図によれば、南尾根のさらに南西、高速道路を越えたところにも物見台的な曲輪群があるようなので向かってみましたが、アンダーパスで高速を抜けたところで道が途絶え、道の終端には巨大な獣のフン…。天花寺城でのクマ疑惑もあることだし、苦労して直登したところで、どうせ曲輪らしき平坦地があるだけで目立った遺構はないだろう、と自分を納得させて(すっぱいブドウ)、ここまでとしました。

よく整備された登城道や本丸周辺では城郭遺構はあまり見られない一方で、案内されている登城ルートを外れた先には堀切や竪堀などが見られますので、ぜひ山城シーズンに装備を整えて挑戦してみて下さい。あとは、火薬庫の笹藪をまた刈ってもらえると嬉しいんだけどなぁ…。
 

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しんちゃん

3回目でやっと入れた。 (2024/06/16 訪問)

小口城は長禄3年(1459)に織田広近によって築かれました。織田広近は尾張上四郡守護代である織田伊勢守家・織田敏広の弟になります。広近は後に、木ノ下城(後の犬山城)を築いてそこに移り、小口城は犬山城の支城となりました。
現在は小口城址公園として整備されており、高さ17m(!)の木造の物見櫓が公開されています。中に入る前に受付を行う必要がありますが、安全管理の目的もありますので、ぜひお願いしたいと思います。櫓の中は吹き抜けになっていますが、ハンモックが二か所設置されているので、どこから落ちてもとりあえず死なないようにはなっています。

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赤い城

東川城 香川県木田郡三木町 (2024/05/26 訪問)

県道42号線沿いに石碑があり、ここから石段がついています。
登ると狭い削平地で祠がありました。
祠の先を少し降りてみましたが明確な遺構は見つけることはできませんでした。
腰曲輪っぽい地形はありましたがどうだか?
ただ、結構急な斜面になっていて要害感は感じられます。

後で調べで見るとこちらは二郭のようで道路を挟んだ反対側が主郭のようです。
おそらく道路が通る部分が堀切となります。

植田氏の出城とされますが長宗我部氏に攻められて落城しました。

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小城小次郎

ぴりっと締まった武芸者の城 (2023/12/09 訪問)

佐賀県北部の山間部(山内)を纏めるべく招聘された神代(くましろ)勝利は武芸に秀でで人望もあり龍造寺氏を大いに苦しめた。高低差のある二つの曲輪を長塁で結び、石積みもふんだんに施されたお城は実にぴりっと締まっている。

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しんちゃん

ご安全に (2024/06/01 訪問)

犬居城は南→東→北→南と回り込むようにして城内に入っていきます。北から南へ侵入する土橋が坂道になっていて、その先が虎口になり出廓に到達します。そこから西に向かって進み、土橋のかかった堀切を渡って行きます。
その先がこの城の主要部になるのですが、長い郭の先に一段高い郭があって、そこに展望台が設置してあります。北側にも郭があるようですが、藪になっているし、季節ももう夏なので割り切って、行きやすい所だけ訪問して済ませています。展望台からは気田川や春野ふれあい公園など周囲を良く見渡せます。今は国道362号線が走っていますが、かつては眼下を街道が走っていたのでしょう。
展望台のベンチが倒れていますね。この時分、まだヒザが本調子では無かったのですが、リハビリを兼ねて元の位置に設置しました。
‥よっこいしょういち。安全確認もしておきましょう。
① 設置場所ヨシ!
② 強度確認ヨシ!
③ 乗ってみて確認ヨシ!
・ご安全に!
(一同)ご安全に!  ‥‥何の工事?
良く見るとベンチの背もたれの右端が欠けています。誰かケガをすると困るので観光課のほうで直してくれませんか‥

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しんちゃん

光明寺遺跡(光明城) (2024/10/06 訪問)

静岡県浜松市天竜区の国道362から分岐する林道の途中に光明寺遺跡は存在します。行基により養老元年(717)に開山したとされ、その後は密教系の道場になりました。交通の要衝に位置しており、戦国時代には城郭として機能していたようで今川・武田・徳川による争奪戦が繰り広げられたそうです。光明城は天正年間に廃城となり、その後は光明寺として徳川氏による庇護を受け、信仰を取り戻しますが、昭和6年の火災で復旧困難となり天竜区の山東に移転しました。現在は石垣を残すのみとなっています。

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零汰

自然地形を利用した陣屋 (2024/05/20 訪問)

今回訪問した遺構のある道内陣屋跡の中で唯一自然地形をそのまま利用した場所です。陣屋跡や築造年代を知らずに訪問したなら一般的な城跡と認識しそうです。

大手まで登るとそこからは緩やかに敷地が下って行きます。東南以外の三方は土塁や自然地形の小山に囲まれていました。西側土塁脇を抜けて奉行長屋を目指して歩いていくと小さな川(巾40cm程)が目に入ります。案内板に記載のある石橋が付いており当時の物のようです。そして小さな井戸や湧水?もそのまま残っています。道内の他の陣屋跡は平地で当時は全体が見渡せたでしょうがこちらは高低差があり全てを見渡す事が出来ません。そんな所を考えると道内陣屋廻りには欠かせない陣屋の一つかと思います。残念ながら空堀は見逃してしまいました。

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しんちゃん

無印投稿  今治城 (2013/12/12 訪問)

今治城は藤堂高虎によって慶長7~9年(1602~4)にかけて築かれました。讃岐高松城や中津城とならび日本三大水城に数えられており、一年前に天下普請で築造に関わった膳所城のノウハウが生かされているかもしれません。膳所城は日本三大湖城の一つとされ、この時期の高虎公がどれほど多忙であったか窺い知ることが出来ます。今治城は周囲を見事な水壕に囲まれ、立派な石垣が残ります。築城年代も近いことから、かつての膳所城もこのような壮麗な城であったと想像します。
本丸南西には吹揚神社が鎮座し、天照大神から八幡神、藤堂高虎公まで多くの神を祀っています。模擬天守の隣にあるため御殿の風格を漂わせています。そういえば中津城もこんなかんじでしたか。

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しんちゃん

千頭峯城  各曲輪 (2024/04/29 訪問)

千頭峯城は登城道が東の尾根筋に繋がっていて、いくつかの扁平地を経由して堀切の先の東曲輪にたどり着きます。堀切道を北上すれば井戸曲輪に到達しますが、それは帰りに寄るとします。最高部に本丸が置かれ、本丸北半分を回り込むように二の丸が配されています。
ルートは東曲輪→二曲輪(東)→本曲輪→二曲輪(西)→西曲輪と西方向に移動し、帰りは逆のルートです。南曲輪には本丸の南から道が続いているようです。西曲輪の手前の堀切は形状が良く、西曲輪の周囲には土塁が残っています。
登城道近くには駐車場があり、城域に入ってすぐに遺構にたどり着ける、散策しやすい山城です。

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チェブ

『行った』をポチっ。 (2024/05/04 訪問)

粟野氏の「沖野城」は住宅街になっていました。
「沖野城」に向かう途中、『舘西公園』があり、「沖野城」由来の地名が残っているのだと期待しました。到着した場所は、畑とビニールハウス横の道。
近くを回りましたが、石碑や案内板はありません。

二重堀を巡らしたと言われる「沖野城」。
良く耕された畑が、堀に見えて欲しい「沖野城」攻めでした。

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朝田 辰兵衛

ゲオ稲田堤店奥より潜入しました…🐾 (2024/04/28 訪問)

私の潜入した入口は,団地住民の裏道のようでした。団地の中にある「寺尾台廃堂跡」とは,ほぼほぼ団地内の対角線奥という位置関係で,苦笑いが止まりませんでした。

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カズサン

戦国期まで和賀氏の本城 (2024/05/22 訪問)

 黒岩城を終えて北上川を渡り約3km程、岩手県1日目の8城目、二子城別称飛勢城(トバセ)を初登城、北上川が当たり蛇行南下する西岸の二峰の飛勢の森、頂から麓の広いエリアが城域と成るようです。

 駐車場:二子八幡神社南下の駐車場、1郭南切岸下数台は可能、トイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 駐車場に上がる斜め道の入口に「史蹟飛勢城趾」の標柱、駐車場には顕彰碑「和賀氏盛衰の跡飛勢城」、二子城跡解説板、解説板の下に二子城(飛勢城)見取図(縄張図)が有ります。
 1郭南側の切岸の間に神社への階段が有り神社境内へ諸神社、祠、一段上がって二子八幡神社鎮座、夕刻近くでしたが参拝の方が多く見受けられました。
 1郭本丸北奥へ広場に成っており立派な松に、忠魂碑、北端展望台、1郭北下に2郭、間に堀切と土塁、西下の降りると横堀が南に伸びて居る様子。
 展望台より北を眺めると遠くに岩手山が微かに見える、北上川が二子城の山塊に当たり東に蛇行し南下する様子が見えます、東北新幹線が東を走り、はやての走行が目に入ります。
 探訪は1郭本丸と2郭のみ周辺の郭、麓の屋敷跡は探訪して居ません。

 和賀氏は顕彰碑裏面趣意書、和賀氏400年祭実行委員会作成によると
 和賀氏は奥州藤原氏滅亡後、豊臣秀吉の全国統一まで、三百数十年にわたり和賀郡地方を治めた。
 と言ううことは、源頼朝の奥州征伐に始まって、秀吉の奥州征伐奥州仕置きで小田原攻めに参陣しなかった葛西氏大崎氏とともに滅亡したという事です。時代の趨勢を見定める事は大変なことで大事な事のようです。
 でも地元の方々に愛されて400年祭、顕彰碑の建立と慕われている事が分かります。
  

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びーこ

地元愛溢れる岡崎城 (2024/05/21 訪問)

朝、ホテルを出発し、まずは三河一向一揆の舞台となった本證寺(遠かった・・・でも行って良かった!)を見学して、午後から岡崎に向かった。

まずは腹ごしらえ!ということで、岡崎公園前駅近くのうどん店で「家康公が愛したうどん御膳」をいただく。いきなりテンションが上がるメニューではないか!駿府記に記載されていたレシピを元に再現したうどんには、生姜が練り込んであるのだとか。健康オタクの家康らしい一品である。汗をかきながら美味しくいただきました。冷たいビールも飲んで充電完了!いざ岡崎城へ!

まずは、復元天守閣内の博物館へ。
現存する礎石や城下町のジオラマ、参加型の岡崎城シアターなど、展望室以外にも楽しめるコンテンツがたんさん。館内のスタッフの方(地元愛深し)と石垣が好きだという話をしていたら、石垣に関する色々な資料を出してきていただき、その一部を頂くことができた。感謝!

「三河武士のやかた」
ここの一番の見所はなんと言っても関ケ原の戦いのジオラマシアターだ。ジオラマとプロジェクションマッピングを駆使して、時系列で東軍、西軍の各部隊の動きを再現している。これは分かり易い!子供の様にかぶりついて見てしまった。その他の展示物も見応えがあり、かなりの時間を費やしてしまった。

最後は園内のカフェで武将パフェと決めていた。カフェに近づくと「準備中」の文字が・・・まさか?駆け寄って「今日はおしまいですか??(汗)」と店の方に訪ねると15:00で終了だとのこと。時計を見ると15:01だった・・・営業時間のチェックをしていなかったとはなんたる不覚。私が相当ガッカリした顔をしていたようで、お店の方が「せっかく来てくれたのだから、良いですよ~」と言ってくれた。店員さんを拝むように店内へ・・感謝!(本日2回目) 徳川家康パフェと井伊直政パフェをいただく。疲れた体に染み渡る~美味しかった!

さて、本日最後の訪問先は大樹寺。行き方を確認していたら拝観時間が16:00までということに気づいた!受付は15:30までなので絶対に間に合わない・・なんたる不覚(本日2回目)
これで岡崎の再訪は決定的になった。👆でいただいた石垣巡りマップも制覇できていないし、岡崎城も含めて絶対に再訪しなければ!!

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牛若丸

遺構らしきものは残っていません (2024/06/15 訪問)

現在は金剛寺になっています。周辺を歩きましたが遺構らしきものはありませんでした。

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駿府城

駿府城跡天守台発掘調査現場来場者100万人達成!

駿府城跡天守台発掘調査現場の来場者数が令和6年5月9日(木曜日)に100万人に達し、現地で記念式典が開かれました。 
記念すべき100万人目は、静岡市葵区の城内中学校に通う古川奏翔さん(13)で、静岡市歴史文化課課長と共にお祝いのくす玉を割り、記念品として発掘調査現場オリジナルグッズが贈られました。
※詳細は静岡市公式ホームページ(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012603.html)をご覧ください。

駿府城跡天守台発掘調査現場および「発掘情報館きゃっしる」は、平成28年8月に開館し、今年で8年目を迎えます。
県内外の多くの方に足を運んでいただいたおかげで100万人を達成することができました。
現在は天守台をより間近で見学できる野外展示施設の建設計画が進行中です。
今後も石垣の保存や発掘現場の維持管理を行いながら、みなさまに何度も訪れたいと思っていただけるような魅力的な場所となるように努めてまいります。

ぜひ見学してみてください。

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イオ

大手側(大手口~馬場~火薬庫) (2024/04/27 訪問)

室町中期に伊勢国司・北畠満雅が築いた城で、弟の北畠顕雅が入って大河内御所と称しました。東は阪内川、北は矢津川、西と南は深い谷に囲まれた要害の地であり、織田信長の伊勢攻めでは北畠具教が多気(霧山城)から大河内城に本拠を移して籠城するも、信長二男の茶筅丸(後の織田信雄)を養子として家督を譲る条件で和議となりました。その後、信雄が田丸城に居城を移したことにより廃城となったようです。

大河内地区市民センターの駐車場から登城開始。駐車場の国道沿いには大河内城跡の説明板と石碑が立てられています。市民センター前には大河内城の資料や縄張図、手書きの御城印が備え置かれ、大まかな位置関係がわかる案内図も掲示されているので、ここで登城前の情報収集をおすすめします。

案内図の順路に従って北側の大手口から登城します。大手道は城内に大きく切れ込んだ谷筋を上って行き、両側の支尾根から狙われ続けている感があります。大手道にせり出した曲輪からも麓を回り込む間ずっと横矢が掛かる造りになっていました。大手道を上りきったところには馬場と呼ばれる広大な曲輪が広がっています。馬場のあちこちに石垣が見られますが、畑地として改変された際のもののようです。馬場からは大手口の東側と西側に支尾根が派生し、東側の支尾根にはいくつかの曲輪が連なっているほか目立った遺構は見られませんでした。西側の支尾根は付け根に土塁(土壇)があり、その先には小曲輪群と堀切や竪堀が見られました。大手口を見下ろす位置にあることから、堀切付近に散乱していた石は投石用のつぶて石と思われます。

大手口西支尾根から馬場北辺の犬走りを通って北西端の火薬庫へ。馬場の北西端は堀切(石垣は後世の改変と思われます)で区画し、堀切の北側は竪堀となっています。そして火薬庫と呼ばれる曲輪の手前には城内最大規模の大堀切がある…にはあるものの、笹に覆われてしまっています。火薬庫は三方を土塁で囲んだ造りのようですが、笹藪に沈んでいてよくわかりません。それでも笹藪は堀切周辺だけかもしれない、と笹藪に突入して土塁上を半周するも、笹藪が途切れることはなく、土塁上にあるというつぶて石の集積場も見付けられませんでした…。「松阪の城50選」には笹藪が刈られた状態の火薬庫の写真が掲載されていますが、その後また伸び盛ってしまったようです。

火薬庫から馬場まで引き返して、今度は本丸に向かいます(続く)。
 

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赤い城

十河氏の居城 (2024/05/26 訪問)

称念寺周辺が城趾です。
お寺の山門前に広い駐車場があります。
山門前に標柱が立っていて、内側の本堂が建つ所が主郭です。
お参りしてまずは南側へ、元はこちらが大手だったようです。
ただ、民家と農耕地となり遺構はなさそうです。
西側には鷺池、堀の一部だったとのこと。

北側には堀があり、からくり橋という橋があります。
敵に攻め入られた際に橋桁を外し、中に入った敵軍を閉じ込め攻撃するための仕掛けです。
現在は土橋状になっています。

当時は三方に五重の土塁があったとされる大規模な城だったようです。

北側の曲輪の先には手作り感溢れる資料館があるのですが時間が早すぎ開館前でした。
近いのでまた行ってみます。



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