【葛下城】
<駐車場他>駐車場は<35.109489,133.889157>付近に沢のほとりを削平した6台分程ありますが、県道337号線から西へ入る道が悪路で落石が多くパンクの恐れがあるのでお勧めしません。登城口まで歩きますが<35.111831,133.890671>櫓のある所の道路脇に停めるのがベターかも。
<交通手段>車
<登城道>踏み跡の道があったり、途中ロストしたりしています。登城口は上記駐車場から更に300m程西へ進むと右手に葛下城登城口の立書札があります。登城口には踏み跡がありますが、入るといきなり道がロストしていますので、左を向いて左方向に何となく登る。⇒道が湧いて出てきた時に右手の山に家臣屋敷の石垣が見えます。⇒家臣屋敷内の切通しを抜け、左手に連段の曲輪があります。⇒暫く道があります。⇒大きな谷の削平地に出ます。谷山の塁線に沿って大きく回り込むように進む(道は薄っすらある)⇒道がロストしています。腰辺りの灌木雑草をそのまま真っすぐに抜けると、道がまた湧いて出てきます。⇒正面上方に曲輪の縁の直線が見えますので登り切ったら舌状曲輪(城跡家臣屋敷の下段)に出ます。
<見所>登城口付近の家臣屋敷石垣・主要部の谷扇状曲輪
<感想>現地説明板によると葛下城の築城年は定かではないが、大河原大膳大夫なるもの此に居るとあります。戦国時代末頃には中村頼宗が領主となり毛利氏の麾下に属します。この中村頼宗が美作国岩屋城が宇喜多氏領だった1581年に決死隊を組んで主郭に繋がる落とし雪隠を暴風雨の中よじ登って奇襲し城を陥落させます。中村頼宗は毛利氏から恩賞として岩屋城主となりますが、本能寺の変の後、毛利氏と羽柴秀吉の講和によって美作国は割譲されましたので、この葛下城もこの時廃城になったようです。
登城口の向かって右手に巨石で組んだ石垣が残っています。登城開始してすぐある真鍋屋敷・家臣屋敷跡の石垣も凄いのですが、ガラス・陶器・瓦片が落ちているので、近年まで建物があった形跡があります。石垣は当時のものか判別不能です。
上記登城道から。到着した舌状曲輪は城跡主要部の南西部にあたります。谷の扇状の曲輪は整備されているようで通りやすいですが、城跡に内に道が無く、上方の主郭へ行くには雑木の少ない所を選び直登しなければなりません。主郭は楕円状の広い曲輪で半分程度雑草が刈られています。下段の2郭は広い腰曲輪状で主郭から行けず、違う場所から直登すると行けそうです。主郭の奥に城主館跡、その背後の山頂部が見張り台となっています。主要部に石垣は残っておらず、見張り台に僅かに石垣跡が見られます。
<満足度>◆◆◆ ※真鍋屋敷跡の石垣が当時の遺構だった場合として。
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