高田城から車で35分弱で、櫓のある所の道路脇(35.111831、133.890671)に着き路駐した後、葛下城駐車場(35.109489、133.889157)に徒歩で向かいました。
築城年代は定かではないようですが、応仁の乱(1467年~1477年)の頃、赤松氏は旧領美作回復の為、美作岩屋城を配下大河原氏に守らせました。
この時期に葛下城は築かれたと考えられており、城主にはその一族大河原大膳大夫が配されたそうです。
美作は1513年(永正10年)頃より赤松氏の執事である浦上氏が支配下に置いていました。
出雲の尼子経久は浦上氏当主・村宗死後の浦上宗景・政宗の兄弟不和による内紛の混乱に乗じ1532年(天文元年)尼子詮久らを大将に美作に侵攻、一時は美作の大半を制圧するに到りました。
1540年(天文8年)赤松・浦上両氏の反攻や周防の大内氏の石見侵入により尼子氏は出雲に撤退する事となります。
その後、美作には備前天神山城の浦上宗景が侵入し勢力を広げます。
1541年(天文13年)尼子経久の跡を継いだ孫の尼子晴久は、叔父である新宮党の尼子国久と宇山久信に命じ美作に大攻勢を仕掛け、この戦いで葛下城も落城、大河原氏は没落し葛下城は尼子の属城となりました。
1565年(永禄8年)頃には安芸の毛利氏が美作に勢力を伸ばし始め、翌1566年(永禄9年)に月山冨田城の尼子氏を攻め滅ぼし葛下城も毛利氏の勢力下に入ります。
葛下城には毛利氏配下の中村頼宗が在城し大規模に毛利氏の拠点城郭として拡張整備を行ったと考えられています。
1582年(天正11年)の本能寺の変を受け、秀吉は毛利氏と和議を結び、隆梁川以東を秀吉側の宇喜多氏に割譲しましたが、葛下城主だった毛利方の浅山氏は、和議に反対して籠城しました。
浅山氏は、毛利氏の説得により、1583年(天正12年)に城を明け渡すことに同意しますが、城明け渡しに際し城に火を放ち自刃し、葛下城は廃城となりました。
時間の都合で登城口付近で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=院庄館に向かいました。
+ 続きを読む









