くずかじょう/かずらのしたじょう

葛下城

岡山県苫田郡


旧国名 : 美作

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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征12日目:葛下城 (2026/05/22 訪問)

高田城から車で35分弱で、櫓のある所の道路脇(35.111831、133.890671)に着き路駐した後、葛下城駐車場(35.109489、133.889157)に徒歩で向かいました。

築城年代は定かではないようですが、応仁の乱(1467年~1477年)の頃、赤松氏は旧領美作回復の為、美作岩屋城を配下大河原氏に守らせました。
この時期に葛下城は築かれたと考えられており、城主にはその一族大河原大膳大夫が配されたそうです。
美作は1513年(永正10年)頃より赤松氏の執事である浦上氏が支配下に置いていました。
出雲の尼子経久は浦上氏当主・村宗死後の浦上宗景・政宗の兄弟不和による内紛の混乱に乗じ1532年(天文元年)尼子詮久らを大将に美作に侵攻、一時は美作の大半を制圧するに到りました。
1540年(天文8年)赤松・浦上両氏の反攻や周防の大内氏の石見侵入により尼子氏は出雲に撤退する事となります。
その後、美作には備前天神山城の浦上宗景が侵入し勢力を広げます。
1541年(天文13年)尼子経久の跡を継いだ孫の尼子晴久は、叔父である新宮党の尼子国久と宇山久信に命じ美作に大攻勢を仕掛け、この戦いで葛下城も落城、大河原氏は没落し葛下城は尼子の属城となりました。
1565年(永禄8年)頃には安芸の毛利氏が美作に勢力を伸ばし始め、翌1566年(永禄9年)に月山冨田城の尼子氏を攻め滅ぼし葛下城も毛利氏の勢力下に入ります。
葛下城には毛利氏配下の中村頼宗が在城し大規模に毛利氏の拠点城郭として拡張整備を行ったと考えられています。
1582年(天正11年)の本能寺の変を受け、秀吉は毛利氏と和議を結び、隆梁川以東を秀吉側の宇喜多氏に割譲しましたが、葛下城主だった毛利方の浅山氏は、和議に反対して籠城しました。
浅山氏は、毛利氏の説得により、1583年(天正12年)に城を明け渡すことに同意しますが、城明け渡しに際し城に火を放ち自刃し、葛下城は廃城となりました。

時間の都合で登城口付近で撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=院庄館に向かいました。

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ぴーかる

真鍋屋敷跡の石垣は本物かどうか (2024/03/16 訪問)

【葛下城】
<駐車場他>駐車場は<35.109489,133.889157>付近に沢のほとりを削平した6台分程ありますが、県道337号線から西へ入る道が悪路で落石が多くパンクの恐れがあるのでお勧めしません。登城口まで歩きますが<35.111831,133.890671>櫓のある所の道路脇に停めるのがベターかも。
<交通手段>車

<登城道>踏み跡の道があったり、途中ロストしたりしています。登城口は上記駐車場から更に300m程西へ進むと右手に葛下城登城口の立書札があります。登城口には踏み跡がありますが、入るといきなり道がロストしていますので、左を向いて左方向に何となく登る。⇒道が湧いて出てきた時に右手の山に家臣屋敷の石垣が見えます。⇒家臣屋敷内の切通しを抜け、左手に連段の曲輪があります。⇒暫く道があります。⇒大きな谷の削平地に出ます。谷山の塁線に沿って大きく回り込むように進む(道は薄っすらある)⇒道がロストしています。腰辺りの灌木雑草をそのまま真っすぐに抜けると、道がまた湧いて出てきます。⇒正面上方に曲輪の縁の直線が見えますので登り切ったら舌状曲輪(城跡家臣屋敷の下段)に出ます。

<見所>登城口付近の家臣屋敷石垣・主要部の谷扇状曲輪
<感想>現地説明板によると葛下城の築城年は定かではないが、大河原大膳大夫なるもの此に居るとあります。戦国時代末頃には中村頼宗が領主となり毛利氏の麾下に属します。この中村頼宗が美作国岩屋城が宇喜多氏領だった1581年に決死隊を組んで主郭に繋がる落とし雪隠を暴風雨の中よじ登って奇襲し城を陥落させます。中村頼宗は毛利氏から恩賞として岩屋城主となりますが、本能寺の変の後、毛利氏と羽柴秀吉の講和によって美作国は割譲されましたので、この葛下城もこの時廃城になったようです。
 登城口の向かって右手に巨石で組んだ石垣が残っています。登城開始してすぐある真鍋屋敷・家臣屋敷跡の石垣も凄いのですが、ガラス・陶器・瓦片が落ちているので、近年まで建物があった形跡があります。石垣は当時のものか判別不能です。
 上記登城道から。到着した舌状曲輪は城跡主要部の南西部にあたります。谷の扇状の曲輪は整備されているようで通りやすいですが、城跡に内に道が無く、上方の主郭へ行くには雑木の少ない所を選び直登しなければなりません。主郭は楕円状の広い曲輪で半分程度雑草が刈られています。下段の2郭は広い腰曲輪状で主郭から行けず、違う場所から直登すると行けそうです。主郭の奥に城主館跡、その背後の山頂部が見張り台となっています。主要部に石垣は残っておらず、見張り台に僅かに石垣跡が見られます。

<満足度>◆◆◆ ※真鍋屋敷跡の石垣が当時の遺構だった場合として。

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山家なれども (2022/05/22 訪問)

何度かの美作城廻りで、10mk南西の岩屋城、10km南東の院庄城まで行っていましたが、山地に入り込む葛下城は、いずれも日没で断念。津山近傍で一つ未登城(城びと登録内で)として残ってました。そして城びとでもこの付近で唯一未投稿で残された城でした。
山深いところでしたが、北〜東麓を流れる吉井川は津山を経て瀬戸内海までの重要航路であり、山麓の湯指の川湊は栄えたと。また、出雲裏街道も城の北麓を走ります。重要拠点で経済力もあったのでしょう、最終的には、毛利による改修を受けて、葛下城は、東西1100m、南北300mと大規模です。岩屋城では家臣の屋敷群は大手に至る開けた谷に並んでますが、葛下城は山麓に平地はなく、山腹を平削してたくさんの家臣屋敷地が確保されています。ちなみに、葛下城主の中村頼宗は、岩屋城を攻略し、岩屋城主になりました。
山続きになる西側の尾根に岩を穿って深い堀切が作られています。他にも見ごたえ箇所たくさんあり。
城域は個人所有(南の谷を入っていく三叉路に葛下城の標識棒があり、裏面に所有者の名前が書いてあります)のためか、写真を掲載した説明板は、川を挟んだ集落の道沿いに立っています。城域は草刈や標識設置がされていますが、手が回りにくくなってそう。それよりも、登城口までであった林道を凄い勢いで延長されてます。下調べでは林道の突き当たりが登城口とあったので、おかしいなと思いつつだいぶ行きすぎました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 大河原大膳大夫
築城年 不明
主な城主 大河原氏、中村頼宗
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財 町史跡(葛下城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 岡山県苫田郡鏡野町山城
問い合わせ先 鏡野町教育委員会生涯学習課文化係
問い合わせ先電話番号 0868-54-7733