ふくすみじょう

福住城

奈良県天理市

別名 : 福住中定城、福住館
旧国名 : 大和

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主郭  ウソです。出丸です‥
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しんしんちゃん

主郭の写真無しでのトンデモ投稿 (2024/02/23 訪問)

この日は朝から雨です。ヤホオの天気予報では曇りのはずだったのですがですが、またやられました。しょうがない、濡れながら行くか‥
福住城はこの地方では有力な豪族(国人)で筒井氏の一族である福住氏の城です。
福住順弘の子・定慶は弟・慶之とともに筒井順慶の養子になったとされ、同じ養子で順慶のあとを継いだ定次が家臣の讒言で改易になると(後に切腹)定慶は筒井氏を名乗り1万石で郡山城代に任じられました。大阪夏の陣の際に大野治房の軍2千の夜襲を受け、敵を大軍と見誤った定慶は郡山城から福住に逃げ延び、福住城に籠ったそうです。そして大阪城落城の2日後、敵前逃亡を恥じ自刃したとのことです。また、この定慶を福住順弘の孫・正次と同一視する資料もあるようです。
主郭の周囲には堀を巡らし、主郭の北側には土塁が残っています。周囲の堀は通路を兼ねていて、一部は竪堀とつながっています。主郭の南側に堀を挟んで出丸があり社が建っています。出丸の社の背後にも土塁が残っていました。ちなみに筒井城の写真がクラッシュした際に本丸周辺の写真がいっしょにクラッシュしてしましました。再訪も考えましたがメンドいので投稿してしまいます。
主郭の写真は、あさんやぴーかるさんの投稿を参考にしてください。(こいつ、いいかげんに‥)

※「しまいました」が「しましました」になってますね。なんか面白いので、このまま残しておきます。しましました‥しましましましました‥  失礼しましました。おおっ!日本語って面白い♪

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氷室神社 (2004/02/11 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。伊賀方面からアクセスし、脇道に入るべきところを行き過ぎてUターンしようとしたら、氷室神社前👀 せっかくなのでお参りすると、北向き軒下に雪が残ってました。氷室神社自体には氷室はなく、周囲の山々に散在しているようですが、さすが、氷室神社。福住氏は、氷室神社の神主も勤めていたと。
奈良盆地と伊賀盆地の間の奈良(大和)高原は、侵食・堆積によりいったん平坦になった土地が隆起して、再び侵食を受け始めた準平原。山中なのに、小さな盆地がたくさん連なって、有力豪族が割拠してました。標高は400〜500m。奈良盆地の標高が100m以下。伊賀盆地が200mほどなので、氷室も成り立つのでしょう。
肝心の福住城は、登城口位置も含め、城びと先人が詳しくレポートされていますので、「コンパクトながら技術が凝らされた城」とまとめさせていただきます。主郭の折れがある切り岸が良かった😄この後、さらに奈良盆地側の椿尾城に行きました。これまた、城びと先人が伝えるとおり、奈良三大山城との呼称はだてではなかったです。

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ぴーかる

福住城 (2023/12/17 訪問)

【福住城】
<駐車場他>登城口前に<34.609649, 135.913267>もし先客が駐車してあれば、<34.608392, 135.911502>に停めれそう。
<交通手段>車

<見所>横堀・土塁
<感想>福住城の築城は室町時代、文献には1481年には館から城へと築造されていたようです。福住氏は古くからの豪族で、室町時代には筒井氏に属していました。1483年に北東に位置する福住井之市に越智氏・古市氏が築城した城を奪い取り本城を移した(福住井之市城)ようです。移転後もこっちの中定城も副城として機能していたようです。
 登城口はGoogleマップの位置より少し西側より入ります。社のある曲輪までは整備されているので5分程で行けます。社の曲輪の奥が土塁となり、その奥が十字路の虎口になっています。十字路の西側の谷から入る道が本来の大手道のような感じがします。十字虎口から北側に土塁囲みの小さな曲輪があります。主郭の付属主郭になります。広いですがそこそこ鬱蒼と笹藪化しています。
 主郭は南面以外は土塁で囲み、北西側に腰曲輪が付いています。南側の切岸は比較的傾斜がゆるく、横堀を埋めた幅の広い土橋の両サイドに石積みが残っています。現地説明板にある大坂の陣時の改修を加えたのはこの部分かなあと思われました。主郭は横堀で囲み、高い切岸になっています。西側の横堀は網目状に掘られて技巧的です。行きませんでしたが下の方に池が見えました。

<満足度>◆◆◇

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キンヤ

福住中定城 (2022/05/15 訪問)

この地域の有力な豪族の福住氏の居城です。
福住氏は筒井氏に従い姻戚関係にあり、城の改修には筒井氏が関わった可能性があるようです。

南東側の大手は、下から主郭に至るまでのルートは土塁で仕切られ何度か折れがあり横矢が効いてます。
主郭の南から西側を囲む長大な横堀が見事です。
主郭北側背後の折れのある大きな堀切が見応えありました。

コンパクトな城ですが、しっかりと造られ、なかなかテクニカルでした。

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城郭情報

分類・構造 丘城
天守構造 不明
築城主 福住氏
築城年 室町時代後期
主な改修者 筒井氏?
主な城主 福住氏
廃城年 安土桃山時代
遺構 曲輪、櫓台、堀切、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 奈良県天理市福住町6882