福島県二本松市の百名城の一つ二本松城です。二本松城は市街地の北、標高345mの山頂に築かれた本丸と山麓に城主の石垣造りの城館を置き、中腹には家臣の屋敷を配した戦国期の城郭に近い城造りとなっています。いつも山麓には霧がたなびくため霧ケ城とも呼ばれていました。山頂へ登ると本丸も立派な石垣造りとなっており、感動ものです。二本松城は1441年にこの地を領した畠山氏により築城されたと言われています。戦国期二本松領は、伊達・芦名の2大勢力の間にあり、当初は芦名氏に従っていましたが、伊達氏の南下が激しくなると伊達氏に従っています。伊達政宗が伊達氏当主になると、二本松領に近い小浜城大内定綱が伊達氏に従うふりをしながら離反。このため、伊達政宗は大内討伐の軍を起こし、これに対して畠山氏当主義継は芦名氏と共に大内氏に味方。しかし、小浜城は落城し二本松城に伊達軍が迫ったため1585年畠山氏は伊達氏に降伏することになりました。伊達側からの降伏の条件は、領地を大幅に没収という過酷な処分であったため、義継は降伏を許してくれたお礼と称し伊達政宗の父輝宗に参上し、突然輝宗を人質にとり逃走。これを知った政宗は逃走を阻止するため父と義継達に向かって鉄砲を撃たせたため、義継と共に父輝宗も亡くなっています。この時政宗19歳。政宗はすぐに二本松城攻めを開始しますが、佐竹氏の援軍もあり二本松城は伊達軍を撃退。しかし、翌年には城内から内通者が出て二本松城は落城してしまいす。その後、二本松城は伊達領となりますが、豊臣秀吉により蒲生領、上杉領とされ、その後、徳川時代には藩主が変遷したのち、1643年丹羽氏が城主となり明治維新まで続いています。明治維新の戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加しますが、白河へ多数の藩兵が出兵した隙をつかれ、新政府軍に手薄になった二本松城を攻められ、1日で落城しています。この際、兵力を補うために動員された二本松少年隊が奮戦したと伝えられています。麓の三の丸駐車場から山頂の本丸まで徒歩で登りましたが、本丸近くまで車でも登れます。
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