鳥越城の後、福井県に入り福井城と北ノ庄城を訪問致しました!
越前国68万石を与えられた結城秀康は、慶長6年から6年をかけて福井城(当時は北ノ庄城)を築きました!
足羽川を南側の 防御線とし、その北側に本丸を中心に二の丸や三の丸などの曲輪を配置し、曲輪の間に堀を設けた環郭式の大規模なお城でした!
本丸には1000坪を超す大規模な本丸御殿があり、高さ約30mに及ぶ四重五階の天守が北西隅にそびえていました!
北東・南東・南西各隅それぞれの櫓(艮・巽・坤の各櫓)が建ち、周囲石垣上には多門櫓や塀が巡っていました!
現在は、旧本丸と、それを取り巻く内堀だけであるが、この高石垣を巡る広大な内堀こそが、福井城の特長であります!
天守台跡や「福井」の由来となった井戸跡などが有ります!
大天守台は残っておりますが、小天守台は石垣の被害が大きく震災の爪痕を残しています!
本丸西側に開かれた虎口には山里口御門が設けられ、門の外側には御廊下橋が架けられた!
この御廊下橋は、西三の丸に屋敷を構えていた藩主が、政庁である本丸に渡る際に使用したといわれ、屋根付きの珍しい形状のものだった!
2008年にこの御廊下橋が復元され、今年の春には山里口御門が復元されました!
本丸北側に開かれた虎口には北不明御門が設けられ、門の外側には土橋が設けられていました!
また、北ノ庄城は、九重天守をもった巨大な城郭で、柴田勝家の居城だったが、天正11年に焼失、遺構もほぼ失われました!
前方に二の丸と三の丸を配し、後方に河川をおいた梯郭式の平城と推定されますが、詳しい縄張は不明であります!
柴田勝家は、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、北ノ庄城に逃げ込むと、その前年に再婚したばかりのお市の方と共に北ノ庄城で自害を致しました!
6度にわたる発掘調査ひ結果、現在の柴田神社の地下から北ノ庄城の石垣の跡と思われる石が出土しました!
本丸なの正確な位置は特定するには至っていないが、現在のところ柴田神社境内が北ノ庄城本丸天守跡と推定されており、そこには現在、柴田勝家の像やお市の方の像や三姉妹の像も建てられてます!
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