JR北上駅から北約5kmにある岩手県北上市の飛勢城です。和賀郡を領した和賀氏の居城で和賀郡最大の城郭です。別名二子城。並ぶ二つの山に西側の山は物見、東側の山は八幡館が詰めの城として築城されています。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、12世紀頃この地に任じられた刈田氏が和賀氏を称し築城したとされます。北上川に臨む標高130mの丘陵に築かれ東西500m南北1000mの規模であったとされます。城の麓に館群を配し北側より監物館・坊館・加賀館・八重樫屋敷・白鳥館・御台方屋敷・小田嶋屋敷・文殊院・大森屋敷・渋谷屋敷・斎藤屋敷などの名が残っています。城主の居館は白鳥館と言われ、主殿などが存在していたとされます。和賀領は周辺の稗貫郡領主稗貫氏や斯波郡領主斯波氏などとともに、南の葛西氏、北の南部氏の大勢力に挟まれており、特に南部氏がたびだび南下、このため和賀氏は稗貫氏と連合、また、出羽の小野寺氏などに援軍を求めるなどして対抗しています。しかし、1590年和賀氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、稗貫氏とともに改易となり飛勢城には浅野長政家臣後藤半七が城代として置かれます。その後、改易となった大崎・葛西旧臣の一揆が発生、それに連なり和賀義忠と稗貫郡領主だった稗貫広忠も旧臣2000名で蜂起。飛勢城を奪いかえしますが、翌年、伊達政宗・蒲生氏郷により鎮圧され、和賀義忠は逃亡の途中土民により殺害、子の忠親は出羽国へ落ち延びています。1600年関ヶ原の戦いの時、和賀忠親は伊達政宗の支援を受け家臣残党を率いて蜂起。南部氏が守る花巻城を攻めるも敗退、飛勢城に籠りますが支えきれず岩崎城へ籠城するも落城。忠親は伊達領に逃れますが、政宗により殺害されたとも自害したとも伝えられます。
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