JR金ヶ崎駅から東6kmにある岩手県奥州市の岩谷堂城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、平安時代末期に奥州藤原氏となる清衡の父の藤原経清が居住した砦館が始まりとされます。経清は前九年の役で安倍氏に味方し敗死。その後奥州藤原氏の滅亡後、源氏の重臣葛西氏の領地となり、一族が江刺氏を名乗りこの地に居城しています。宮城県に本拠を置く葛西氏の北縁を守っていましたが、葛西家本家が各地の一族や家臣との対立により弱体化、奥州情勢が混迷を深める中、江刺氏は青森・岩手北部を領する南部氏と親交をもち、1566年秋田の安東愛季が南部領鹿角郡に侵攻した時、援軍兵300名を送ったとされます。しかし、1582年南部氏九戸政実の岩手南部への攻勢が始まり、葛西氏に背き九戸氏に従ったとされます。このように葛西家が混乱するなか豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、小田原に参陣できなかった葛西氏は改易となり江刺氏も城を豊臣秀吉の奥州仕置軍に明け渡したとされます。そして、江刺氏はかつての縁により南部氏に召し抱えられています。その後、この地は伊達氏の支配下におかれ伊達氏家臣の岩城氏が城主となり岩谷堂要害屋敷と呼ばれ岩谷堂伊達家5000石の居館として幕末まで続いています。城は人首川に面した東側が断崖絶壁の標高115mの館山に築かれ東西400m南北850mの規模とされ本丸、二の丸を配していたと言われます。現在城跡は本丸が館山公園となり、二の丸が公園下のグランドとなり、城跡には土塁や空堀が残り往時の姿を偲ぶことができます。また、岩谷堂城御館坂の上の旧岩谷堂小学校グランドに三瓶家正門の三瓶門、西麓の興性寺に二の丸裏門が移設され現存しています。
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