群馬県沼田市の沼田城です。沼田城は1532年三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰がそれまでの幕岩城から南西600mの地に築城、居城を移したことにはじまります。当時は蔵内城と称し、関東管領上杉氏に従っていました。城は戦国時代、上杉・北条・武田氏勢力の境目にあり、越後から関東へ通ずる交通の要衝のため幾多の争奪戦が繰り広げられています。1551年関東管領上杉憲政は北条氏の攻撃を受け居城の平井城を捨て、越後上杉謙信に亡命。そのため、沼田家中は上杉派と北条派に分裂、上杉派であった顕泰が北条派を倒しますが、北条氏の攻撃を受け顕泰は越後に逃亡、城には北条氏家臣康元が入り沼田氏を称しています。しかし、1560年上杉謙信が関東に出陣してくると、沼田康元は敗れ沼田城は上杉氏直轄となり、上杉家臣本庄秀綱が城主として配されます。1578年謙信が死去すると沼田城は北条氏が制圧、城代を置きます。しかし、上杉景勝と武田勝頼が同盟し、沼田城の支配を武田氏に認めると、1580年武田氏家臣の真田昌幸が沼田城を調略、真田氏が城主となります。武田氏滅亡後は、織田家臣滝川氏の支配下となりますが、本能寺の変で、滝川氏が退去すると沼田城をめぐって北条氏と真田氏は争うようになり、同じ頃、旧武田領を北条氏と争っていた徳川氏は沼田城を北条氏へ渡す条件に和平を結び、真田氏に従うよう命令します。しかし、これを真田氏が拒否。これにより徳川氏と真田氏の第一次上田合戦が勃発することとなります。戦いは上田城で徳川軍を撃退した真田氏が勝利、沼田城も城代矢沢氏が寡兵をもって北条軍を撃退しています。しかし、強国徳川氏や北条氏に対抗するため真田氏は豊臣秀吉に従属。秀吉の裁定により結局沼田城は北条氏に割譲となります。その後、秀吉の小田原北条攻めにより北条氏は滅亡。沼田城は真田氏に戻され真田昌幸の長男信之が2万7千石の城主となり拡張整備、五層の天守閣を築いています。1600年関ヶ原の戦い後は、西軍方となっていた父昌幸の上田領も合わせ真田信之は9万5千石の大名となり沼田城を居城としますが、1616年沼田城を長男信吉に譲り、上田城に移り、さらに1622年松代城に居城を移しています。その後、隠居することとした信之は、信吉が亡くなったため次男信政に藩主を譲り、沼田城は信吉の次男信利が城主となり、その後1658年独立し沼田真田藩となっています。しかし、1681年用材調達の幕命に対する不手際により沼田真田藩は改易、沼田は天領となり城は幕命により破壊されています。1703年本多氏が2万石で領主となり再び沼田藩が立藩。本多氏は三の丸に館を建てこの地を治めたとされます。続いて1732年黒田氏3万石、1742年には土岐氏が3万5千石で入封、明治維新を迎えています。城は、沼田盆地の中央、利根川と薄根川により形成された段丘台地に築かれた城で、川に面した側70m程の崖となっていて、東西550m南北600mの規模で本丸の北側に保科郭・捨郭、東側に二の丸・三の丸、その南側に外郭を配していたとされます。現在城跡は、外郭を除き沼田公園となり本丸跡に復元鐘楼や西櫓台石垣があり、二の丸・三の丸は野球場などや駐車場になり、沼田小学校グランドの市役所道路側の大手門跡に冠木門があります。また、本丸跡に鐘櫓が復元され、この鐘櫓の鐘は1634年に真田信吉が鋳造させた城鐘となっています。
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