群馬県太田市の百名城と関東七名城の一つ金山城です。1469年岩松氏が築城。その後岩松氏の重臣横瀬氏が1529年城の実権を握り城主となり後に由良氏と名乗っています。金山城は小田原北条氏や越後上杉氏、甲斐武田氏勢力の狭間にあり、その時々で北条氏や上杉氏に従い生き残りを図ります。その間、北条・上杉・武田氏に10数回も攻められますが、難攻不落の堅固さを誇っています。しかし、1584年北条氏政は由良氏に軍略についての面談のため小田原に年賀に来るよう使者を送り、金山城主由良国繁は兵2百を率いて小田原に赴きますが、氏政は国繁を小田原城に抑留。金山城へ軍を送り明け渡しを迫ります。金山城では国繁の母妙印尼が城兵を励まし北条軍に抵抗、北条軍は5百の兵を失い撤退・和睦し国繁を帰しますが、国重は北条の圧力に負け城を明け渡し桐生に移っています。1590年豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏の命により由良国繁は小田原城へ籠城。しかし、妙印尼は国繁の子貞繁を大将として兵2百で豊臣軍の前田利家軍へ参陣。これにより戦後、妙印尼は上総牛久に5千石を与えられこれを国繁に譲り由良の家名を残しています。北条軍が籠城した金山城は前田利家・上杉景勝軍が攻略、廃城となっています。城は、渡良瀬川右岸の標高239mの独立丘陵に築かれた山城で、頂部の実城と周囲に北城・西城・八王子山ノ砦があり、東西1600m南北1200mの規模で全山要塞化され、水の確保のため日の池・月の池が造られています。最頂部は現在新田神社となっていて、城がある尾根まで車道があり終点に駐車場があります。麓には史跡金山城ガイダンス施設があり金山城の無料で説明展示がありますが、9時開館で5時半頃訪れたため見学できませんでした。
+ 続きを読む










