長野県上田市の百名城の一つ上田城です。1583年真田昌幸により築かれた城で、千曲川の分流尼ケ渕の断崖に臨み、太郎山と千曲川・神川に取り込まれた天然の要害です。1585年昌幸の領地沼田城を北条氏に引き渡せとの徳川家康の命に従わなかったため、大久保忠世等の徳川勢8千の兵が上田城を攻めますが、真田軍2千足らずにより徳川軍は多数の兵を失い退いています。1600年関ヶ原の戦いに際し豊臣方についた真田昌幸・幸村親子は、徳川秀忠率いる3万8千の徳川軍を2千5百の兵で5日間この城で防ぎ、このため秀忠軍は関ヶ原の戦いに間に合わず、真田と上田城の名は天下一に鳴り響いたとされます。その後上田城は徳川氏により破却され徳川方についていた長男の真田信之に引き渡されますが、信之は城を再建せず三の丸に御殿を作り上田を治めています。1622年上田に6万石で入封した仙石忠正政が城を復興、1706年松平氏が5万8千石で入封し明治維新まで続いています。城は本丸・二の丸・三の丸からなり、現在三の丸は市街地となっていますが、本丸・二の丸は西・北・南櫓、土塁・石垣・豪跡が残り上田城址公園となっています。城内に大河ドラマ館等あり観光化が進んでいるのは賛否のあるところです。
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