日本百名城の一つ福井県坂井市の丸岡城です。越前朝倉氏が滅んだあと、一向一揆が勢力を盛り返したため1575年織田信長が一向一揆の拠点豊原寺を攻略。柴田勝家を越前守護とし、勝家は養子の勝豊を豊原寺に配し城主としましたが、山間地で交通の不便なことから1576年豊原西方4kmの丸岡城を新たに築城し城下町も移しています。築城後も一向一揆の残党が攻撃を仕掛けることが有り、城にある井戸から大蛇が表れ霧を吐き城の危機を救ったとの伝説から別名霧ヶ城とも呼ばれています。本能寺の変後の清洲会議で琵琶湖東岸の長浜城が柴田勝家のものとなったことから、1582年勝豊は長浜城主へ移り、丸岡城は勝家家臣の不破氏が城主となります。北庄城で勝家が滅亡すると、越前の領主となった丹羽長秀の家臣青山氏が城主となっています。丹羽長秀死後独立大名となった青山氏は1600年関ヶ原の戦いで西軍に味方したため領地没収。新たに越前の領主となった結城秀康の家臣今村氏が城代となりますが、御家騒動により今村氏は失脚。1613年「鬼作左」と呼ばれた本多重次の子成重が城主と成り、現在残る城郭に改修したとされます。本多氏が御家騒動により改易となると、1696年九州延岡より有馬氏が移封となり、明治維新まで続いています。城は福井平野の北東部に位置する独立丘陵に本丸、麓に二の丸・東の丸、西の丸を配し回りを内堀で囲み、外側の三の丸に家臣屋敷を置き外堀を廻らした平山城です。明治維新により堀は埋められ武家屋敷や城門などの建物は取り壊されましたが、国内最古と言われる二重三層天守閣が残り本丸付近の石垣と併せて霧ヶ城公園として整備されています。
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