くろばねじょう

黒羽城

栃木県大田原市

別名 : 九鶴城、(黒羽陣屋)
旧国名 : 下野

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遊行柳
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ぎりょう

藩政時代をとおして使われた中世城館に驚き! (2025/04/19 訪問)

歴史好き仲間とのツアー、この春も「おくのほそ道」の足跡を訪ね、「芭蕉十四泊の地」栃木県大田原市の黒羽地区に向いました。
東北自動車道を白川ICで降り、先ずは那須町芦野の「遊行柳」へ。西行が詠んだ「清水流るるの柳」は若葉を輝かせ旅人を歓迎しているようです。その後は、臨済宗妙心寺派の古刹雲巌寺、玉藻稲荷神社、那須神社、鹿子畑翆桃邸跡、展示施設「芭蕉の館」、黒羽藩主大関家・城代家老浄法寺家の菩提寺曹洞宗永平寺派大雄寺(だいおうじ)等々、当時芭蕉が訪れた名所・旧跡をくまなく訪ねることができました。
黒羽城については、三ノ丸跡にある芭蕉の館に展示されている黒羽城鳥瞰図(江戸期作)に曲輪や建物の様子、家臣屋敷、城下町まで描かれておりとても感心しました。この芭蕉の館からは二重の堀切を挟んですぐ馬出曲輪、本丸と続き、主要な遺構を確認することができます。
詳細は皆さんの過去の投稿を参照頂ければ判ると思いますが、南北1500m、東西250mは栃木県北最大規模の山城です。それが藩政時代をとおして黒羽藩一万八千石の居城としてと使われたことにも驚きを感じます。
また、前述の大雄寺には芭蕉を歓待した城代家老浄法寺図書高勝(俳号は桃雪)夫妻の墓があり、その説明書きによれば高勝の祖母月桂院殿は徳川家康の娘「シャン姫」の娘とのことにも驚きました。

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小城小次郎

メリハリの効いた普請が秀逸 (2025/02/15 訪問)

本丸切岸が大きく崩落した東日本大震災から、こちらも見事な復活を遂げていた(3枚目は2012年当時)。深く刻まれた堀に目が行くが、枡形・馬出が効果的に用いられたメリハリのある普請は秀逸。近くに伝移築門もある。

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しんちゃん

本丸南側の堀が見所。芭蕉ゆかりの地。 (2016/01/01 訪問)

黒羽城は天正4年に大関高増が白旗城から当地に本拠を移したことが始まりとされています。慶長5年の関ヶ原の合戦では徳川家康に味方し、上杉景勝への備えとして城の改修を行っています。江戸時代は黒羽藩主大関氏の本拠となり、かつては南北1.5km東西250mという規模の大きな山城でしたが、現在では本丸周辺が城址公園として整備されています。かつて三の丸には桃雪邸がありましたが、現在は黒羽芭蕉の館が建てられています。芭蕉は奥の細道の道中14日をここで過ごしており、居心地は良かったものと思われます。
本丸から南の三の丸(黒羽芭蕉の館)の間には二重の堀切があり、特に最初の堀は規模が大きく橋が架かっています。本丸周辺の土塁と南側の堀は特に遺構が良好に残っています。

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城好きのメガネ

「黒羽城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
黒羽城は、那須七党・大関氏の居城である。小田原征伐では大関高増が豊臣秀吉に謁見し、1万3000石を安堵される。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、会津の上杉氏の動きに備える。外様でありながら15代大関増裕は若年寄など幕府要職を歴任した。戊辰戦争では新政府側に属し、会津戦争などで戦功を挙げる。廃藩置県まで大関氏が治めた。現在、曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)などが遺されている。

<アクセス>
JR西那須野駅 バス 黒羽神社下車 徒歩20分

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 大関高増
築城年 天正4年(1576)
主な城主 大関氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)
指定文化財 市史跡(黒羽城址)、市有形文化財(黒羽城鳥瞰図)
再建造物 碑、説明板
住所 栃木県大田原市前田
問い合わせ先 大田原市生涯学習課文化財係
問い合わせ先電話番号 0287-98-7115