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夏の雪だるま

道三の城 (2016/09/20 訪問)

岐阜県岐阜市の岐阜城です。十三世紀の初め鎌倉幕府の政所令二階堂氏が砦を築いたのが始まりとされます。子孫は稲葉氏と改め砦も稲葉山城と呼ばれますが、その後廃城となっています。戦国時代15世紀中頃守護代斎藤氏が稲葉氏の砦遺構を利用し、城を築き居城とし城下町も建設。1525年美濃の内乱で、守護土岐氏・守護代斎藤氏の実権は長井新左エ門尉(道三の父)が握り長井氏が城主となっています。最近発見された文献から道三の国盗り物語は、前半が新左エ門尉、後半が道三との見解もでています。その後、道三が城主となり城を要塞化、西麓に居館を建て、市場を設けて城下町を発展させています。1554年道三は隠居し家督を義龍に譲り、やがて父子の対立から1556年道三は長良川河畔の戦いで討死。しかし、義龍は道三の死後6年で病死、後を幼い竜興が継ぎ斎藤氏は弱体化、1564年家臣の竹中半兵衛が城を一時占拠する事件も起こっています。1567年稲葉山城は織田信長により攻略され、以後、信長の居城となり岐阜城と名付けてます。1575年城主を嫡男信忠に譲り自身は安土城へ移り、本能寺の変後、城主は三男信孝、池田輝政、豊臣秀勝と替わり、織田信長の孫秀信が城主の時、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため東軍に攻められ降伏開城、廃城となっています。城は長良川に面した標高336mの金華山山頂に築かれ山全体に郭が配され、麓にも天主と呼ばれる御殿があったとされます。しかし、山頂部の井戸は雨水をためるもので、大兵力による長期籠城には向かない城のようです。現在は岐阜公園となっており御殿跡隣からロープウェイで一の門付近まで乗車し、山頂天守閣まで徒歩7分程です。

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スミヤキ

鉄製の城門・釣り橋の架かる城 (2019/01/03 訪問)

 タイトルにあるのは、ドン・ロドリゴの「日本見聞録」にある 1609年9月頃の大多喜城の姿です。彼らを歓待した当時の城主は、本多忠朝さんでした。
 1590年、家康さんの江戸入府時に安房里見家の抑えとして10万石で本多忠勝さんが上総小田喜に入ります。正月時代劇ではありませんが「忠勝も大多喜を建てる」のです! 天然の地形を生かした要害堅固な城郭、金銀で装飾された美しい木造御殿、屈強な家臣団の様子も含め、この見聞録に書かれています。
 今日の再建されたお城も素敵ですが、忠勝さんが精魂込めて縄張りした慶長期の城も見たかったですね!
 
 また、齊藤弥四郎氏の「御禁止川の鯉(おとめがわのこい)」の話も末永く、この地に伝承されるといいですね。(殿様のモデルが誰なのか気になります)
 生きたまま将軍家にむらさき鯉(今でいうブランド鯉)が献上されていた事にも驚かせられました。

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じんじゃー

木曽氏初期の詰城 (2019/01/12 訪問)

城跡東側にある大カーブから、城域にある鉄塔の保安道がとりつけられているのでそこからアクセスできる。
一つ目の鉄塔から細長い削平地が続き、二つ目の鉄塔の手前から切通し状の通路になっている。この辺りは大きな石が転がっているので門等があったのかもしれない。鉄塔のある郭から主郭へは二重の堀切・土塁と土橋で区切られているが堀もあまり深くなく堅固さは感じない。主郭から西側に細長い削平地と段郭がつづき、物見のような郭で城域は終わっている。
全体的に古風な山城で堀や城塁の高さもあまりないのでそれほど重要視はされていなかったのかもしれない。

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todo94

豪雨の爪痕 (2019/01/13 訪問)

昨年7月にスタンプだけは捺してあったので、今回は水門に直行しました。無事、水門を拝むことができましたが、史跡碑は倒れ、説明板はひしゃげ、石橋にも破壊の跡が見られました。登山道はまだ、通行不可と云うことです。

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山口駿河守幻夢斎

堅田城跡

北陸の天気は、変わりやすく、晴れる日が少ない金沢。

この日も、午前中の土砂降りが嘘のように、晴れた夕方、日の長い夏場ということもあり、チャレンジしちゃいました。

夏場ということもあり、草が伸び切っており、なかなかハード。自分の肩幅くらいしかない道なき道を進みつつ、一通り、観て回ったと思います。

散策中は、必死だったが、あとからじわじわと、遺構のすばらしさが実感される城跡です。

願わくば、もう少し整備していただけると、せっかくの畝状竪堀が伐採した樹木で埋もれています。

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山口駿河守幻夢斎

東林寺城跡

JR牛久駅から牛久沼ほとりにある東林寺を目指し、徒歩50分くらいでしょうか。駐車場は確認しておりません。

お寺の墓地背後の広大な畑の先に、空堀、土塁が残されています。しかし、空堀は劇ヤブです。

土塁に沿って散策すると、深い空堀や、浅くなってますが、横堀なども確認できます。

迫力ある遺構が残っていますが、とにかくやぶがひどい。お寺のお坊さんと話しましたが、たまに市の職員の方が見に来るそうですが、整備は難しいようです。

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くろもり

三日月の丸くなるまで (2013/11/10 訪問)

岩手県の盛岡城を築城した南部氏が、盛岡城に移る前に本拠としていた城です。比高約90mの小高い山城ですが、鍛冶屋御門跡に古い崩れかかった石垣が残っており、天守を模した三戸城温故館からの景色は、往時の南部騎馬軍団が野を翔ける様を連想させてくれました。

城址にある三戸城のイラスト地図は、「三戸御古城之図」と、新渡戸稲造氏の父である盛岡藩士・新渡戸十次郎氏らが作成した「三戸郡三戸御古城御縄張測量の図」を元に作成されているそうです。※8枚目の写真

城と三戸駅との間にある法泉寺に三戸城の搦手門、龍川寺に三戸城の伝・表門(どこの門かは不明とのこと)が移築されています。※9,10枚目の写真

南部氏の隆盛を称える「三日月の丸くなるまで南部領」という言葉、子供の頃は「三日月が満月になるから領土が3倍か4倍くらいに増えたんだ!」なんて思っていましたが、三日月が満月に変わる「時間(約12日)」と「距離(南部領内)」を掛け合わせて、南部領内は移動に約12日かかるほどの広さと謳っていると知った時に、とても感動した記憶があります。誰が思いついたのか知りませんが、そのセンスしびれます・・・

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井伊谷の祐

座間城址へ行きました (2019/01/17 訪問)

本当に何の痕跡もありません。ただ、白井織部様のちっちゃな石碑だけ。裏のお寺さんは白井氏の持仏堂が元になっているようですので、このお寺を含めこの辺りにお城があったのでしょうね。

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朝田 辰兵衛

ここで景虎が没していなければ… (2018/04/07 訪問)

北条からの養子というだけあって,小田原征伐のシナリオが変わっていたことでしょう。登城に関しては,斐太歴史の里総合案内所から,東登城道を徒歩約20分で本丸跡。上信越自動車道の4車線化工事が完了するまでは,北登城道は通行止め。他に南登城道があります。
ランチのおすすめは,R292沿いにある“とん汁のたちばな”。とん汁ラーメンにしようか迷いましたが,とん汁定食(大盛)で。全国を食べ歩いている方は,ここのご飯のおいしさに気づくでしょう。

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こるまろ

金山要害山城 (2017/03/30 訪問)

ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/39537892/

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こるまろ

玉造要害山城 (2015/10/28 訪問)

玉造温泉にある玉作湯神社の隣にあります。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/36749207/

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たかりん

徳島県最大規模の山城 (2019/01/14 訪問)

続100名城は、名前くらいは知っている、あるいは名前自体初耳のお城も数多くあり、先入観がないフラットな状態で臨めるのが楽しいです。この一宮城も阿波九城の一つで名前くらいは…というレベルの知識でした。標高は本丸部分が約144mで、麓からの比高は約120m、秀吉の四国平定により阿波を与えられた蜂須賀家政が、徳島に築城する前、最初はここに入り本拠にしたそうで、その際に石垣造りなどの改修をしたそうです。朝イチで向かいましたが登城口至近の一宮神社の駐車場(と思わしき狭小な空き地)には先客1台あり、後続車に変な停め方をされて身動きできなくなるのも嫌なので(実際他でありました、怒!)ちょっと離れますが、安全策で併せて参拝予定の大日寺駐車場にお世話になりました。おかげで10分ほどロスしましたが、登城口から少し上るとすぐに石段道になります。道はよく整備されており途中いくつか平坦地もありますが、基本 本丸到達までは延々と石段が続くので、それなりの心構えで臨んでください。倉庫跡や明神丸、才蔵丸といった曲輪跡を見たため、約30分くらいでメインの本丸に到着です。徳島城同様、「阿波の青石」を用いた野面積みの巨大な石垣遺構が残っていました。城跡の維持管理は一宮城跡保勝会という団体の皆さんのおかげだそうで、感謝です!

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にのまる

未来の森ミュージアムは3月末まで休館。 (2019/01/03 訪問)

一国二城を許されていた肥後の麦島城が地震で倒壊後、少し北に再建された八代城。内堀に囲まれた本丸はカドケシみたいな形です。各隅部にある櫓台跡に登ってみました。全部同じような感じでした(^_^;)
小天守と大天守跡も行ってみましたが、月見櫓跡から続く石垣の上の道は狭くてヤバかったです。強風の時はやめといた方がいいです。歩きスマホも危険です。水堀が待ち構えています。が、たどり着いた先の小天守と大天守跡の石垣、素敵でした!凝ってます。ここの四角い空間の真ん中に天守がすっぽりはまっていた?いろんな角度から眺めたかったけれどコーナーにまわるのはやっぱりちょっと怖かったです。大天守が再建されなかった諸事情のひとつに、「怖かったから。」というのがあるのではないかと推測します。

博物館でいただいたパンフレットを今頃になって見ていたら、熊本地震で被災した廊下橋門石垣隅角部の修復が昨年夏に終了したとありました。手当たり次第撮った写真の中にあるかもしれないと思って確認してみたらありました。10枚目の写真です。「白いから石灰岩?」と思って撮った写真でした。とりあえずパシャパシャ撮っておくといいこともある、と思いました。

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こるまろ

尼子十旗 高瀬城 (2019/01/14 訪問)

ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42421991/

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じゅんじん

(2008/05/05 訪問)

図書館裏にあります

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じゅんじん

石垣に松 (2009/02/28 訪問)

ここの石垣は素晴らしかった。萌え萌えです。

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じゅんじん

IC近く (2009/07/16 訪問)

浄願寺前に立派な城址碑があります。

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カルビン

この年の初被弾は山上城でした(時期早くない?) (2014/05/28 訪問)

以前群馬県前橋駅から中央前橋駅に移動し、上毛鉄道上毛線沿いのお城を攻略しに行った際、膳城の後に訪問したのが山上城。
漫画「花の慶次」で関ヶ原合戦前に上杉家に加わった浪人衆の中にいた山上道及が城主だった場所です。
・・・あの人が城主?イメージ浮かばないわ~ww

城域は城址公園になっており、奥の主郭と思われる場所には朽ちる寸前の錆びついた遊具が・・・なんか哀愁漂ってましたorz

遺構の派手さ・大きさは先に見た膳城には及ばないものの、形の良い土塁や堀、虎口等が見られました。

南側にある芝生の場所は木々が無く明るいイメージなのですが、遺構の残る北側は木々が生い茂っている為、暗いイメージがしました。。。陰と陽が備わったお城ですな(汗)


どうしても遺構を見るには日影メインになっていた訳ですが、この時期にして早くも蚊に刺されまして・・・
この年初被弾となりましたorz

ちなみに膳駅から徒歩15分くらいで到着出来ます。

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イオ

楠公さんから言われては… (2019/01/13 訪問)

楠木正成公つながりの〆は下赤坂城。

上赤坂城からの道中、消防署の隣に駐車場の案内があるのが見えましたが、上赤坂城をじっくり堪能しすぎて日没も間近なため、中学校を抜けて現地の駐車場まで行こう、と思いきや、中学校の門が閉まっていました…。やむなく先ほど見掛けた駐車場まで戻って、そこから徒歩約10分で城址に到着。すっかり薄暗くなった中、城址碑と説明板を眺め、棚田を見渡し、遺構も特に無いし帰ろうかと思った時に目に入ったのが、楠公さんの肖像の案内板。そして…

「歩いてまいろうではないか 自動車の乗り入れは禁止である」

あらら、そうなんですか!? 駐車場だったと思しきスペースはありますが、乗り入れ禁止になっていたとは。帰宅してから確認してみると、確かに千早赤阪村のホームページでその旨案内されていました(http://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/images/stories/kakuka/kankosangyoushinkou-ka/tanada/H3011-tanadaaccess.pdf)。ただ、道路沿いの下赤坂城址の案内表示はそのまま残っているので、そちらを早く何とかしないと中学校に迷い込む人が続出すると思うんですが…。

ともあれ、楠公さんから言われては従うしかありませんが、棚田のついでならともかく、城址碑と説明板だけのために往復20分歩く価値があるかと考えると…微妙ですね。

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イオ

河内平野を睥睨す (2019/01/13 訪問)

千早城に続いては、楠木正成公つながりで上赤坂城へ。

登城口から少し登ると一の木戸。そこから先は尾根筋を掘削した切通道が続き、途中、喰い違い的に折れ曲がった箇所もあったりで、城塞感を満喫しながら登ることができました。国史跡だけあって整備状態も良く、そろばん橋付近の堀切や竪堀、二の丸周辺の横堀と竪堀、本丸を取り巻く帯曲輪など、見応えのある遺構が数多くありましたが、私が一番気に入ったのは、本丸からの河内平野一帯を見晴るかす絶景! 近くはPLの塔、遠くはあべのハルカス、彼方には淡路島まで見通すことができ、ここが赤坂城塞群の中心であることを実感しました。

…それにしても、苗木城や岐阜城など、山城からの眺望に強く惹かれるのは、元登山部の習性ゆえかもしれません。

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