茨城県笠間市の笠間城です。城は1200年代この地域にあった寺同士の争いに援軍を求められた宇都宮氏が甥の塩谷氏を派遣、争いを治めこの地に城を築いたのが始まりとされます。以来、塩谷氏は笠間氏を名乗りこの地方に勢力を張り、戦国時代、笠間氏は主家宇都宮氏に反目、小田原北条氏に味方したため、豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡しています。その後、宇都宮氏の改易により蒲生氏が3万石で入封、近世城郭に改修したとされますが、その後、城主はめまぐるしく替わり、1622年から1645年には忠臣蔵で有名な浅野氏が5万石余で城主となり、のちに赤穂へ転封してます。その関係で麓の山麓公園に大石内蔵助像と駐車場下に大石邸跡があります。最後の領主は1747年牧野氏が8万石で城主となり明治維新まで続いています。城は近世城郭ではめずらしい山城で、佐城山山頂の天守曲輪や大手道に石垣が使われ、天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸の外複数の帯曲輪を配した、堅固な城とされ、山麓に藩主の下屋敷が政庁として置かれていました。また、近くの真浄寺には本丸にあった八幡台櫓が移設され残っています。今回は麓の公営稲荷駐車場ではなく、中腹の千人溜駐車場から登城し15分程の城跡へ向かいました。何度か倒木が道をふさぐ中、道を登ると、笠間城大手門跡の石碑と石垣が見え、さらに登り広場のような所から左手に入ると、城看板と笠間城址碑があります。その奥の天守台跡に佐志能神社がありますが石垣にロープが張られ、崩壊の恐れがあり立入禁止となっていました。今後風雨等による崩壊が危惧されます。
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