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夏の雪だるま

崩壊著しい城 (2016/08/26 訪問)

茨城県笠間市の笠間城です。城は1200年代この地域にあった寺同士の争いに援軍を求められた宇都宮氏が甥の塩谷氏を派遣、争いを治めこの地に城を築いたのが始まりとされます。以来、塩谷氏は笠間氏を名乗りこの地方に勢力を張り、戦国時代、笠間氏は主家宇都宮氏に反目、小田原北条氏に味方したため、豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡しています。その後、宇都宮氏の改易により蒲生氏が3万石で入封、近世城郭に改修したとされますが、その後、城主はめまぐるしく替わり、1622年から1645年には忠臣蔵で有名な浅野氏が5万石余で城主となり、のちに赤穂へ転封してます。その関係で麓の山麓公園に大石内蔵助像と駐車場下に大石邸跡があります。最後の領主は1747年牧野氏が8万石で城主となり明治維新まで続いています。城は近世城郭ではめずらしい山城で、佐城山山頂の天守曲輪や大手道に石垣が使われ、天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸の外複数の帯曲輪を配した、堅固な城とされ、山麓に藩主の下屋敷が政庁として置かれていました。また、近くの真浄寺には本丸にあった八幡台櫓が移設され残っています。今回は麓の公営稲荷駐車場ではなく、中腹の千人溜駐車場から登城し15分程の城跡へ向かいました。何度か倒木が道をふさぐ中、道を登ると、笠間城大手門跡の石碑と石垣が見え、さらに登り広場のような所から左手に入ると、城看板と笠間城址碑があります。その奥の天守台跡に佐志能神社がありますが石垣にロープが張られ、崩壊の恐れがあり立入禁止となっていました。今後風雨等による崩壊が危惧されます。

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のぼうの城 (2016/08/27 訪問)

埼玉県行田市の関東七名城の一つ小説や映画の「のぼうの城」で有名となった忍城です。15世紀後半成田氏により築城されたとされます。1559年上杉謙信が関東に侵攻すると成田氏は謙信に従い1561年の謙信による北条氏の居城小田原城攻めにも参加、しかし、攻略できず謙信が撤退すると成田氏は離反、これに対して謙信は1574年忍城を包囲しますが、城は持ちこたえています。その後、成田氏は北条氏に従い、1590年秀吉の小田原征伐では、忍城は石田三成、大谷吉継、真田昌幸等3万余の軍勢に包囲されます。成田氏当主長氏は小田原城に籠城していたため、忍城は長氏の娘甲斐姫と一族が農民などを含め3千名が籠城。三成は、忍城が沼地など湿地帯に囲まれた堅城のため、28kmの堤を築き水攻めを決行。しかし、城方は夜半に堤を破壊決壊させ、大水が三成軍を襲い被害を与えたとされます。しかし、籠城1ケ月小田原城が開城したため、忍城も降伏開城しています。成田氏は領地没収となりますが、甲斐姫が秀吉の側室となったことから那須烏山2万石の大名となっています。関東に徳川家康が移封となると、忍城には家康の四男松平忠吉が10万石で城主となり、その後、1639年老中阿部氏が城主となると整備拡張が行われ、1823年には奥平松平氏が城主となり明治維新まで続いています。城は、北の利根川と南の荒川に挟まれた沼地と湿地帯に点在する島を曲輪とし曲輪間を橋で結んだ堅城で、現在は、沼地が埋め立てられ市街地化していますが、本丸跡に模擬御三階櫓が建てられ、一部土塁や堀が残り、高麗門と藩校進修館の門が移築されています。

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戦国城郭の傑作 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された埼玉県嵐山町の杉山城です。いつ頃築城されたか定かではありませんが、杉山城は桝形虎口や馬出部などを複合的に持つ高度な築城技術から小田原北条氏の築城と思われていましたが、発掘調査により15世紀末から16世紀前半に河越城を拠点とする扇谷上杉氏に対抗するため、鉢形城を拠点とする山内上杉氏が中間のこの地に築いたと考えられます。城は東武東上線武蔵嵐山駅北西2.5㎞の市野川と粕川の間の丘陵に築かれ、鎌倉街道を見下ろす山頂に本郭、東・南・北側に二の郭・三の郭を配し、東西200m南北300mの規模ながら、大規模な横堀の連続折れ、複合的な虎口など、戦国城郭の傑作と高い評価を得ているようです。城は玉ノ岡中学に隣接し、麓にある積善寺では好意で車を置かせてくれるのでここから登ることができ、登り口にパンフレット箱があり、登城の参考になります。

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北条氏の北関東支配の拠点 (2016/08/27 訪問)

埼玉県寄居町の百名城の一つ鉢形城です。山内上杉氏の家宰長尾景信が1473年古河公方との戦いで陣没、山内上杉氏は景信の弟忠景を家宰としたことから、景信の嫡子景春が反発、1476年鉢形城を築き反乱を起こしたとされます。景春は山内上杉軍を大いに破り武蔵国から山内上杉氏を上野国に追いやりますが、これを見た扇谷上杉氏の家宰太田道灌は武蔵攻略の好機とみて鉢形城を攻撃、攻め落としています。その後小田原北条氏の川越城の夜戦などにより武蔵は北条氏が制圧、鉢形城は北関東支配の拠点として整備拡張され、北条氏康の四男氏邦が城主として入り、その後の武田信玄や上杉謙信の鉢形城攻撃にも耐えています。1590年秀吉の小田原征伐では前田利家・上杉景勝等の北国軍3万5千の大軍に包囲され、北条兵3千が1か月の籠城戦を戦ったのち降伏開城しています。城主であった氏邦は前田利家の助命懇願で一命を許され、戦後、前田家で過ごし57歳で亡くなり、人望の高さから葬儀には多くの人々が参列したとされます。徳川氏が関東に移封すると成瀬氏等が代官になり統治しています。城は荒川と深沢川に挟まれた断崖上に築かれ本曲輪、二の曲輪、三の曲輪の外複数の曲輪を配し東西600m南北700mの規模を有していたとされます。城跡は現在鉢形城公園として整備され、遺構として堀や土塁が残り、馬出・石積み土塁、四脚門などが復元され、また鉢形城歴史館が建設されています。

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上杉・北条氏攻防の城 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された埼玉県嵐山町の菅谷館です。いつ頃築かれたかは定かではありませんが、鎌倉時代有力御下人畠山重忠の館が置かれたのは始まりとされます。源頼朝亡き後、重忠は北条氏と対立、滅ぼされたとされます。その後、館は南北朝時代や山内・扇谷上杉家の争い、上杉氏と北条氏の戦いにより随時増改修されていったとみられます。1546年川越の夜戦以降は北条氏によって城代が置かれましたが、豊臣秀吉の北条攻め後、廃城となってと思われます。館は東武東上線武蔵嵐山駅南西1㎞の都幾川と槻川の合流部北台地に築かれ、台地南側は川により侵食された崖となっており、東西は谷があり、本郭、二ノ郭、三ノ郭、西ノ郭、南郭の5つの郭が配され、東西・南北400m程の規模とされます。現在館跡は国史跡に指定され三ノ郭には県立嵐山史跡の博物館が建てられ、二ノ郭には畠山重忠公像が置かれ土塁や堀などの遺構を見ることができます。

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関東七名城 (2016/08/27 訪問)

埼玉県川越市の関東七名城の一つ川越城です。1456年太田道灌が古河公方の古河城に対抗する拠点として築城したのが始まりとされます。1524年北条氏綱に本拠江戸城を奪われた扇谷上杉氏が川越城を本拠とします。1537年北条氏綱が川越城を攻略、北条為昌を城主とします。1541年氏綱が亡くなり氏康が当主となると扇谷上杉氏・山内上杉氏と古河公方・今川氏が手を結び北条攻めを開始。1545年7月今川氏が駿河北条領を攻撃。そして9月、扇谷上杉氏は、山内上杉氏と古河公方と連合軍8万の大軍で川越城奪還に出ます。川越城には北条綱成が3千の兵で籠城、城方はよく守り長期戦となります。10月氏康は今川氏に駿河の領地を明け渡し和平を結び武蔵に兵力を集中。1546年4月長期対陣により油断していた包囲軍を北条氏康が8千の兵で夜襲。日本三大奇襲戦の一つ「河越夜戦」です。氏康は包囲軍を散々打ち破り北条氏の武蔵攻略が進むこととなり、関東の大大名北条氏の誕生となります。豊臣秀吉の小田原征伐では、川越城は前田軍に包囲され開城。新たに領主となった徳川家康は酒井忠重を城主としています。江戸時代に入ると近世城郭に改修されています。1638年城は火災により全焼、翌年老中松平信綱が城主となると川越城は新たに築き直されています。以降領主は次々変わりますが1867年松井松平氏が8万石余で領主となり明治維新を迎えています。城は武蔵野台地の北東部に造られ、本丸、二の丸、三の丸と複数の曲輪を有し、土塁と水堀で囲まれた東西800m南北600mの規模とされます。天守の代わりに三層の富士見櫓があったとされます。現在、城跡は大部分が市街地となっていますが、日本に2つしか残っていない本丸御殿が現存しています。その他、本丸御殿南側に富士櫓跡、本丸御殿と市役所の間に中ノ門堀跡があります。7時半頃訪れたため本丸御殿・中ノ門堀跡とも見ることができませんでした。また、大手門跡に立つ市役所に太田道灌公像があり、その先の蔵造りの町並みに1654年頃に造られ大火のたびに再建された時の鐘「鐘撞堂」がありますが、これも訪れた時は、耐震工事中でシートに覆われ見られませんでしたが、現在は上部は見えるようになったみたいです。

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水城 (2016/08/27 訪問)

埼玉県さいたま市の岩槻城です。15世紀中頃太田道真・道灌親子や忍城城主となる成田氏が築いたとなどの諸説があります。岩槻城は城主である太田氏と武蔵攻略を狙う小田原北条氏との間で、激しい攻防があり、1525年北条方のものとなり、1531年太田氏が奪還しています。扇谷上杉氏や山内上杉氏が滅亡・衰退すると太田氏は越後上杉氏と結び謙信の関東出兵を先導しています。しかし次第に北条氏に圧迫され北条氏方となり、1567年太田氏当主氏資が上総の三船山の戦いで戦死すると、北条氏直の弟氏房が太田氏を継いで城主となっています。豊臣秀吉の北条征伐では豊臣軍2万に攻められた岩槻城は2千の兵で籠城、2日間の攻防の末降伏落城してます。徳川家康が関東に入封すると家臣高力氏が2万石で入城。その後老中幕閣が相次いで城主となり1756年大岡氏が2万石で城主となり明治維新を迎えています。城は元荒川の南西側の沼地に本丸、二の丸、三の丸、その他曲輪の主要部を配置した平城で城を築城する際、沼に白鳥が舞い降りたので別名白鳥城とも呼ばれています。北側の沼地の対岸の元荒川との間に新正寺曲輪、南側の沼地の対岸に新曲輪、鍛冶曲輪、東は元荒川、西側の沼地の対岸には武家屋敷や城下町があり、その周囲は土塁と堀の総構となっていました。現在城地は沼が埋めたてられ市街地となり、新曲輪部分が岩槻城址公園として整備され土塁や堀障子などが残り、民家に移築されていた黒門、裏門などの城門が公園内に移築されています。

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北条征伐発端の城 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された群馬県みなかみ町の名胡桃城です。いつ頃築城されたか定かではありませんが、沼田城の支城として15世紀後半に沼田氏により築かれた伝えられます。1579年武田氏家臣真田昌幸は、北条方の沼田城攻撃のための前身基地とするため名胡桃城を改修、沼田城を攻略。しかし、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏に与えられ、北条氏は目障りな名胡桃城を攻撃落城させたため、秀吉の北条征伐の発端となっています。北条氏が滅亡すると沼田城は真田氏に与えられ、名胡桃城は廃城となっています。城は沼田城の北西5㎞程の利根川の右岸に築かれ、北・東・西に深い沢があり、深い沢に挟まれた北側からささ郭、本郭、二郭、三郭、外郭が配され、西側の沢を挟んで般若郭が配された、東西200m南北450m程の規模の天然の要害となっています。現地は開発がほとんどされず郭などの配置が残っており、国道17号沿いの般若郭に駐車場、外郭西に案内所があります。(2017.5.1訪問)

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真田氏の城 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された群馬県東吾妻町の岩櫃城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、南北朝ころこの地を領した吾妻太郎行盛が築城したと言われます。その後子孫が斉藤氏を名乗り戦国時代までこの城を本拠として東吾妻地域を支配し上杉氏に従っていましたが、吾妻郡内の鎌原氏と領地争いを起こし鎌原氏を信濃に追い出しましが、鎌原氏は武田氏を頼ったため岩櫃城は1563年武田家家臣真田氏の攻撃を受け落城、真田氏の支配下となり信幸や幸村もこの城で過ごしたとされます。1582年織田信長の武田征伐の時、真田氏は武田勝頼に岩櫃城で再起を図るよう勧めたとされますが、勝頼は家臣小山田氏の岩殿山城へ向かい小山田氏の裏切りにあい天目山で自刃、武田氏は滅亡しています。関ヶ原の戦いでは、昌幸の叔父矢沢頼綱が城代となっています。城は吾妻郡統治の中心となっていましたが、1615年一国一城令により廃城となっています。城は、JR吾妻線郷原駅北東約1㎞の標高802mの岩櫃山から北東に伸びる標高593m付近の尾根に築かれ本丸、二の丸、中城を中心とし周辺に郭を配し、北は岩山、南は吾妻川に面した急斜面、西は岩櫃山と東西800m南北500m程の天然の要害となっています。遺構としては土塁や虎口、空堀などが残り往時を偲ばせます。城は国道145号からコニファーいわびつ方向へ入り、岩櫃山登山口へ曲がり平沢登山口駐車場へ駐車、上の観光案内所でパンフレットをもらい、城を目指します。

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まっつん

お寺っぽくないお寺のお堂の裏から! (2019/01/19 訪問)

三原市八幡町にある御調八幡宮のすぐ近くの丘に築かれた城跡で、ぱっと見、「お寺には見えないお寺」広福寺の小さなお堂の裏から登っていけます。車はすぐ近くにあるJA三原八幡出張所(現在は移転したらしい)の駐車場に駐車させていただき、城跡まで500m弱の距離がありますが、そこまで歩いて行きました。
広福寺のお堂の所から2〜3分歩くと堀切があり、その北側の斜面を数メートルよじ登ると主郭、さらにその北側下方にL字型をした曲輪がありました。
この城を築いた渋川氏は、室町幕府将軍足利氏の一門です。渋川義行は室町幕府から九州探題に任じられましたが、九州の南朝の勢力があまりに強く、九州に一歩も踏み入ることができないまま5年後に九州探題の職を解任されてしまいます(ちなみに、後任の九州探題は今川了俊)。
その渋川義行が、九州に上陸できず、所領の備後国御調郡別宮に居を構えたのがこの城のはじまりということのようです。

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真田氏の城 (2016/06/18 訪問)

群馬県沼田市の沼田城です。沼田城は1532年三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰がそれまでの幕岩城から南西600mの地に築城、居城を移したことにはじまります。当時は蔵内城と称し、関東管領上杉氏に従っていました。城は戦国時代、上杉・北条・武田氏勢力の境目にあり、越後から関東へ通ずる交通の要衝のため幾多の争奪戦が繰り広げられています。1551年関東管領上杉憲政は北条氏の攻撃を受け居城の平井城を捨て、越後上杉謙信に亡命。そのため、沼田家中は上杉派と北条派に分裂、上杉派であった顕泰が北条派を倒しますが、北条氏の攻撃を受け顕泰は越後に逃亡、城には北条氏家臣康元が入り沼田氏を称しています。しかし、1560年上杉謙信が関東に出陣してくると、沼田康元は敗れ沼田城は上杉氏直轄となり、上杉家臣本庄秀綱が城主として配されます。1578年謙信が死去すると沼田城は北条氏が制圧、城代を置きます。しかし、上杉景勝と武田勝頼が同盟し、沼田城の支配を武田氏に認めると、1580年武田氏家臣の真田昌幸が沼田城を調略、真田氏が城主となります。武田氏滅亡後は、織田家臣滝川氏の支配下となりますが、本能寺の変で、滝川氏が退去すると沼田城をめぐって北条氏と真田氏は争うようになり、同じ頃、旧武田領を北条氏と争っていた徳川氏は沼田城を北条氏へ渡す条件に和平を結び、真田氏に従うよう命令します。しかし、これを真田氏が拒否。これにより徳川氏と真田氏の第一次上田合戦が勃発することとなります。戦いは上田城で徳川軍を撃退した真田氏が勝利、沼田城も城代矢沢氏が寡兵をもって北条軍を撃退しています。しかし、強国徳川氏や北条氏に対抗するため真田氏は豊臣秀吉に従属。秀吉の裁定により結局沼田城は北条氏に割譲となります。その後、秀吉の小田原北条攻めにより北条氏は滅亡。沼田城は真田氏に戻され真田昌幸の長男信之が2万7千石の城主となり拡張整備、五層の天守閣を築いています。1600年関ヶ原の戦い後は、西軍方となっていた父昌幸の上田領も合わせ真田信之は9万5千石の大名となり沼田城を居城としますが、1616年沼田城を長男信吉に譲り、上田城に移り、さらに1622年松代城に居城を移しています。その後、隠居することとした信之は、信吉が亡くなったため次男信政に藩主を譲り、沼田城は信吉の次男信利が城主となり、その後1658年独立し沼田真田藩となっています。しかし、1681年用材調達の幕命に対する不手際により沼田真田藩は改易、沼田は天領となり城は幕命により破壊されています。1703年本多氏が2万石で領主となり再び沼田藩が立藩。本多氏は三の丸に館を建てこの地を治めたとされます。続いて1732年黒田氏3万石、1742年には土岐氏が3万5千石で入封、明治維新を迎えています。城は、沼田盆地の中央、利根川と薄根川により形成された段丘台地に築かれた城で、川に面した側70m程の崖となっていて、東西550m南北600mの規模で本丸の北側に保科郭・捨郭、東側に二の丸・三の丸、その南側に外郭を配していたとされます。現在城跡は、外郭を除き沼田公園となり本丸跡に復元鐘楼や西櫓台石垣があり、二の丸・三の丸は野球場などや駐車場になり、沼田小学校グランドの市役所道路側の大手門跡に冠木門があります。また、本丸跡に鐘櫓が復元され、この鐘櫓の鐘は1634年に真田信吉が鋳造させた城鐘となっています。

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駿河大納言忠長自刃の城 (2016/06/18 訪問)

群馬県高崎市の高崎城です。この地には1428年和田氏が築いた和田城があったとされます。和田氏は戦国時代上杉謙信に従い1561年北条攻めに従軍しましたが、謙信が北条氏攻略の目的を達せず引き上げると、武田信玄方に離反、信玄は鉄砲隊を送り和田城を固めさせたと言われます。1564年上杉謙信は離反した和田城を攻めますが、鉄砲隊や和田氏軍勢の奮戦により撃退したとされます。また、和田氏は1575年の長篠の戦にも出陣、鳶ケ巣砦を守り徳川軍の酒井忠次の攻撃により和田当主業繁は討死したと言われます。のち、和田氏は武田氏滅亡後北条氏に従い豊臣秀吉の小田原攻めにとない和田城も落城、廃城となっています。関東は徳川家康に与えられ、この地には井伊直正が12万石で箕輪城に入城しますが、1598年中山街道と三国街道の分岐点の交通の要衝である和田城跡に築城し高崎城と命名し居城としてます。井伊氏の後、城主は数々替わり1717年大河内氏が城主となり明治維新まで続いています。この城では1633年3代将軍の座を家光と争い幽閉されていた駿河大納言忠長が自刃しています。城は鳥川に沿って築城された平城で、本丸を西の丸・梅の木郭・榎郭などが囲み、二の丸、三の丸が梯郭式で配され、土塁と水堀に囲まれた東西500m南北1000m程の規模とされます。現在城址跡は市街化に呑み込まれ市役所などが立ち並び、土塁や水堀が一部残るのみでしたが、民家に移築されていた本丸乾櫓が三の丸模擬石垣に復元、同じく東門が移築復元されています。

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信玄上野侵攻に抵抗した城 (2016/06/18 訪問)

群馬県高崎市の百名城の一つ箕輪城です。この地の豪族長野氏が1500年頃築城、長野業政の時山内上杉氏の柱石となって弱体化する山内上杉氏を支え北条氏や武田氏に対抗し、数度の武田信玄の西上野侵攻に対して箕輪衆を率いて撃退、信玄をして「業政がいる限り上野を攻めとることはできぬ」と言わしめたとされます。業政が亡くなると1566年武田信玄が箕輪城を攻略、家臣の内藤昌豊を配置しています。この時の攻城戦では、長野氏の家臣として剣聖上泉信綱(柳生石舟斎の師)も籠城戦に参加しており、落城が近づくと城から出撃、武田軍の中を切り抜け落ち延びたとされます。武田氏滅亡後は、北条氏、そして織田氏家臣滝川氏、本能寺の変の後は北条氏、そして豊臣秀吉の北条征伐後は、徳川家康の家臣井伊直正が12万石で入城しています。しかし、9年後の1598年交通の要衝の地である高崎に高崎城を築城し居城と定め、箕輪城は廃城となっています。箕輪城は高崎駅西北8kmにあり、榛名白川東岸の標高280mの独立丘陵に南北1000m東西400mの規模で国指定史跡範囲19ha、深さ20mの堀や本丸、二の丸、三の丸、など20に余る郭が見事にのこっている中世を代表する平山城となっています。近世城郭のような天守閣や石垣はありませんが、訪問した時に郭馬出西虎口城門の復元工事が行われていました。

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関東七名城 (2016/06/19 訪問)

群馬県太田市の百名城と関東七名城の一つ金山城です。1469年岩松氏が築城。その後岩松氏の重臣横瀬氏が1529年城の実権を握り城主となり後に由良氏と名乗っています。金山城は小田原北条氏や越後上杉氏、甲斐武田氏勢力の狭間にあり、その時々で北条氏や上杉氏に従い生き残りを図ります。その間、北条・上杉・武田氏に10数回も攻められますが、難攻不落の堅固さを誇っています。しかし、1584年北条氏政は由良氏に軍略についての面談のため小田原に年賀に来るよう使者を送り、金山城主由良国繁は兵2百を率いて小田原に赴きますが、氏政は国繁を小田原城に抑留。金山城へ軍を送り明け渡しを迫ります。金山城では国繁の母妙印尼が城兵を励まし北条軍に抵抗、北条軍は5百の兵を失い撤退・和睦し国繁を帰しますが、国重は北条の圧力に負け城を明け渡し桐生に移っています。1590年豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏の命により由良国繁は小田原城へ籠城。しかし、妙印尼は国繁の子貞繁を大将として兵2百で豊臣軍の前田利家軍へ参陣。これにより戦後、妙印尼は上総牛久に5千石を与えられこれを国繁に譲り由良の家名を残しています。北条軍が籠城した金山城は前田利家・上杉景勝軍が攻略、廃城となっています。城は、渡良瀬川右岸の標高239mの独立丘陵に築かれた山城で、頂部の実城と周囲に北城・西城・八王子山ノ砦があり、東西1600m南北1200mの規模で全山要塞化され、水の確保のため日の池・月の池が造られています。最頂部は現在新田神社となっていて、城がある尾根まで車道があり終点に駐車場があります。麓には史跡金山城ガイダンス施設があり金山城の無料で説明展示がありますが、9時開館で5時半頃訪れたため見学できませんでした。

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関東七名城 (2017/05/01 訪問)

関東七名城の一つで、今年続百名城に選定された栃木県佐野市の唐沢山城です。900年代平将門を滅ぼした藤原秀郷によって築かれたとの伝承もありますが、室町時代に秀郷の子孫佐野氏によって本格的に城として改修されたとされます。佐野氏は山内上杉氏に属し、のちに上杉氏を継いだ上杉謙信に従い北条氏に敵対、1559年北条軍3万5千に包囲されるも、城は耐え抜き謙信の援軍により北条軍を撤退させています。その後、佐野氏は謙信と不仲になり、1576年謙信軍1万5千により攻められますが、落城することなく天下の堅城として名を高めています。1587年佐野氏は北条氏から養子を迎え北条氏に従いますが、1590年豊臣秀吉の北条征伐では、秀吉に従っています。1600年関ヶ原の戦いでは、徳川家康に従い所領を安堵され、3万5千石の佐野藩となり近世大名の居城として石垣等を築き改修しています。しかし、家康から廃城命を受け新たに佐野城が築かれ1602年廃城となっています。城は東武佐野線田沼駅南東2.5㎞の標高242mの唐沢山の急峻な山頂を本丸とし、各方面に伸びる尾根に曲輪を配し、東西900m南北500mの規模とされます。城は現在県立自然公園の一部となり石垣や桝形虎口、堀切などの遺構が残り、本丸跡に唐沢山神社が置かれています。

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足利氏の館 (2016/08/27 訪問)

栃木県足利市の百名城の一つ足利氏館(鑁阿寺)です。源義家が新田・足利の領主となり、義家の子義国の長男義清が新田氏となり、二男義康が足利氏となり12世紀半ばに義康がこの地に居館を構えたとされます。義康の子義兼は1196年館の内に持仏堂を建立、自ら剃髪して鑁阿と称し、これが鑁阿寺の始まりであり、その後、13世紀頃に鑁阿寺は足利氏の氏寺となり、足利氏は両崖山城を本拠としたとされます。14世紀前半新田氏と足利氏は鎌倉幕府を滅ぼす立役者となりますが、その後南北朝で敵味方に分かれ争う間柄となり、のちに足利氏が室町幕府を開いています。鑁阿寺は四方を土塁と水堀で囲まれ、四方に門があり、鎌倉時代の武士の館の風情が色濃く残っています。また、隣接する足利学校にも土塁と水堀があります。

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那須氏の城 (2017/04/30 訪問)

栃木県那須烏山市の烏山城です。1417年那須氏一族の資重により築かれたとされます。それ以後那須氏の居城となり北の葦名氏、東の佐竹氏からたびたびの侵略を受けるも小田原の北条氏と結び勢力安定を図っています。1590年の豊臣秀吉の小田原征伐では、下野で唯一参陣せず、所領没収・蟄居となっています。その後、信長の次男で秀吉の命による尾張からの国替を拒んだ織田信雄が秀吉の怒りを買い佐竹氏預かりの身として2か月烏山城主となり、のちに秋田へ流罪。そして、のうぼうの城で有名な忍城の成田氏が2万石で城主となりますが、お家騒動により改易、その後は数々の領主が入れ替わり1728年大久保氏が領主となると明治維新まで続いています。城はJR烏山線烏山駅北西1.5㎞の那珂川西岸の標高206mの八高山に築かれ本丸(二の丸)、古本丸(本丸)、中城、北城、西城、常盤曲輪、若狭曲輪、大野曲輪の郭が配され、五城三郭と呼ばれる8つの曲輪が置かれ東西350m南北600mの規模とされます。江戸時代に入り麓に三の丸が増設され藩主の居館が置かれています。現在は那珂川県立自然公園の中にあり本丸入口付近の石垣、常盤曲輪の石垣、各丸の間の堀切などの遺構が残り往時を偲ばせます。国道294号沿いの寿亀神社(三の丸)入口から入り、神社前を左に進み道路終点に車を止め、山道を歩き本丸を目指せます。

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宇都宮氏重臣芳賀氏の城 (2016/07/17 訪問)

栃木県宇都宮市の飛山城です。鎌倉時代の1290年代宇都宮氏の重臣芳賀氏が築いたとされ、宇都宮城から東8kmにあり北と西に流れる鬼怒川を天然の堀とし、東と南を二重の堀で守られた平山城で、中央の堀により大きく北と南に分かれ、北側に主郭を配し内部は3本の堀により守られ、全体の規模は14ha東西240m南北420mと言われています。芳賀氏は益子氏とともに「紀清両党」と呼ばれた宇都宮氏を支えた武士団です。戦国時代宇都宮氏内紛の混乱に乗じ宇都宮氏家臣壬生氏が宇都宮城を占領。このため1557年宇都宮氏・芳賀氏による宇都宮城奪還作戦が行われ、佐竹氏が支援し飛山城を前進基地として宇都宮城を奪還しています。1590年小田原の北条征伐では宇都宮氏は豊臣秀吉に味方し、宇都宮城に入城した秀吉から宇都宮領18万5千石を安堵されますが、「いらざる城は破却せよ」との命から飛山城は廃城となっています。現在城跡は飛山城史跡公園となっていて土塁や堀、木橋などが整備され、とびやま歴史体験館が設置され、城などに関係する展示がされています。当日は、6時半ごろ訪れた所、歴史体験館は当然しまっていましたが、公園も周囲を囲った土塁に城門があり閉まっていたため、土塁周りだけの探訪となりました。

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芭蕉の城 (2017/04/30 訪問)

栃木県太田原市の黒羽城です。城は那須七騎と呼ばれる那須氏の家臣団の一人大関氏が1576年築きそれまでの白旗城から本拠を移したとされます。1590年豊臣秀吉の小田原征伐に主人那須氏は家臣の説得にも参陣しようとしなかったため、他の家臣とともに大関氏は参陣し所領を安堵されています。1600年関ヶ原の戦いでは、黒羽城は会津の上杉景勝に対するため、徳川家康から岡部・服部氏などの援兵や鉄砲が送られ城は改修されています。戦後、大関氏は1万8千石の大名となり明治維新まで続いています。城は東北新幹線那須塩原駅南東約12㎞の那珂川に沿って南北に伸びた丘陵に築かれ本丸を中心に北に中丸・二の丸、南に三の丸を配し南北1500m東西250mで栃木北部では最大規模といわれます。城は現在黒羽城址公園となり本丸に文化伝承館・展望台、二の丸に黒羽体育館、三の丸に奥の細道で芭蕉が滞在したことから芭蕉の館が建っていますが、土塁や空堀などの遺構が残り往時を偲ばせています。

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関東七名城 (2016/07/17 訪問)

栃木県宇都宮市の宇都宮城です。関東七名城の一つで平安時代後期に宇都宮氏がこの地に館を置いたのが始まりとされます。益子氏を中心とする紀党武士団、芳賀氏を中心とする清党武士団を家臣に組み入れ勢力を拡大したとされます。戦国時代に入ると17代当主宇都宮成綱は反抗的な家臣を討伐して家臣団を再編、西の鹿沼城を攻略し領土を拡大、北の塩原の地をめぐり芦名氏と争い片角原の戦いで破り自領としてます。1514年佐竹・岩城氏連合軍が2万の大軍で宇都宮氏の下野国に侵攻するも撃退。さらに1516年再度佐竹・岩城氏は大軍を率いて侵攻。宇都宮氏は大いに破り逆に佐竹領へ侵攻。北関東の実力者となっています。しかし、成綱死後、跡を継いだ忠綱は無謀な戦いを行うようになり家臣の謀反が起こり家中は混乱。家臣の壬生氏が宇都宮城を占領。これに対して宇都宮氏は忠臣芳賀氏に支えられ1557年宇都宮城を奪還。1558年には上杉謙信が、1572年には北条氏政、1574年には武田勝頼が攻撃してきますが、これらをすべて撃退。その後小田原北条氏に対抗するため佐竹氏・結城氏らとともに反北条連合を結成、北条軍と戦っています。そして、1590年豊臣秀吉の北条征伐に参陣、本領を安堵されています。その後理由は不明ですが1597年突如宇都宮氏は改易処分を受け、宇都宮領には蒲生氏が入封。1601年には奥平氏、さらに1619年には本多正純が15万5千石で城主となり、城を大改修しています。しかし、1622年釣天井事件と呼ばれる謀反の疑いにより改易。その後、城主はめまぐるしく替わり江戸時代後期戸田氏が城主となり明治維新を迎えています。戊辰戦争では官軍の攻撃により城は炎上灰燼に帰しています。城は本丸を中心に堀を廻らし二の丸、三の丸、外曲輪を配した東西・南北1kmの規模の平城で、現在城跡は開発により市街地となり、本丸の一部が宇都宮城址公園として富士見櫓、清明台櫓、土塀、土塁などか復元されています。今後も、復元計画があるようです。

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