朝から小野陣屋を訪れたら、小野市内のお城、見に行きたくなりますよねー。
というわけで、初めて訪れてみました。
室町時代のいつ頃築城されたのかは不明ながら、播磨守護職である赤松氏によって、東播磨の拠点として築かれたようです。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の時には、室町幕府第六代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐が、その首をもって入城したのが、この河合城とのこと。
余談ですが、近くにある成相寺(←今回未訪問)に昔『首洗い井戸』があったそうな。
城の規模は東西約400メートル、南北約300メートルの城域を有し、土塁と堀で四方を固めた主郭の東西にそれぞれ東郭と西郭を配し、主郭は「源氏屋敷」と呼ばれていたそうです(←赤松氏は源氏の流れを汲む家だからそう呼ばれたのでしょう)。
んで、これは後で知ったのですが、至近距離にある小堀城(←『城びと』未登録、今回未訪問…知ってたら行ってたのに!)と堀井城(←ここも今回未訪問。どうせなら行っときゃよかった…)を水路で結んで連携をとっていたという話もありますから、まさに当時は東播磨屈指の大城館といった感じでしょうか。
もしかしたら本城である姫路の書写坂本城よりも大きいかもしれません。
そんな河合城も、いつの頃からか廃城になってたようです。赤松氏の没落と運命を共にしたのか(←早くとも坂本城を捨てて置塩城に移った頃?)、もしくは秀吉の播磨攻めで周辺の城と同じく落城したのか…。
かくして、河合城は長い年月の間に農地化され、更に昭和五十年頃の圃場整備により、その遺構の大半は失われてしまったようです。
室町・戦国期の平城は、やはりこういう末路を辿るのか…。
ということは、いろんなサイトで説明板のすぐ後ろにある水路が当時の堀跡や土塁跡として紹介されてますが、これらも正直ちょっと怪しく見えます。…今から紹介する土塁も含めて。
で、その土塁ですが、説明板から推察するに西郭の西端にあたる部分でしょうか。
スミマセン、本物かどうかあまり自信が持てません。
形状からして、いかにも土塁っぽいなと思うのですが
、どうでしょう?
そんな感じで、今となっては一面田畑や集落となっていますが、立地的なものも含めていろいろ想像してみると、面白いと思います。資料をある程度見てから行く方が良いかもしれませんね。自分もそうしますw
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