福島県南会津町の鴫山城です。源頼朝の奥州攻めの功によりこの地を与えられた長沼氏が1399年頃築いたとされます。長沼氏は南の宇都宮氏と勢力争いをするとともに、北の会津芦名氏とも衝突を繰り返しますが、1566年の芦名氏との合戦に敗れて以降は芦名氏に従っています。会津芦名氏最後の当主義広の時、長沼氏は伊達氏から養子を迎えようとしたため、伊達氏と敵対していた芦名氏は鴫山城を大軍で襲い養子縁組をあきらめさせたとされます。これに反発した長沼氏は1589年芦名氏と伊達氏の摺上原の合戦には参陣はしたものの合戦が始まる前に引き上げ、合戦に勝った伊達氏に服属の使者を送り本領安堵されています。その後、長沼氏は伊達氏に抵抗する久川城河原田氏と交戦し、1590年長沼氏当主盛秀は討死してます。その後、鴫山城は会津を領した蒲生・上杉氏などの家臣が城主となりますが、加藤氏が会津の領主になると1627年廃城となっています。そして1643年この地は幕府領となり現在の役場に陣屋が置かれこの地を支配したとされます。城は会津から関東へ抜ける日光街道の交通の要衝標高750mの愛宕山山頂から北斜面に築かれた山城で、山頂の詰の城と中腹の内城、大手門前の根小屋と呼ばれる家臣屋敷からなり東西300m南北700mと言われます。大手門部分は蒲生氏時代に石垣で造られ、現在石垣が復元整備されています。城は旧南会津郡役所からも登れますが、大手門に続く大鳥居前にも駐車スペースがあり、今回はそちらから大手門を通り詰の城の愛宕神社へ登り、東尾根の二重土塁を下り、横へ歩き上・下千畳から反対側の西外壁塁へ回り、大手門へ戻るコースで所要時間50分でした。
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