新潟県上越市の百名城と中世五大山城の一つ春日山城です。城は標高180mの春日山に南北朝時代に築かれ戦国時代長尾為景(謙信の父)、上杉謙信らにより整備拡張され城域は2km四方にわたるとされます。上杉謙信の居城として山頂に本丸を置き周囲に大小200を超える曲輪が配され、重臣の屋敷も山中に建てられています。1578年謙信が49歳の若さで病死すると跡目争いが養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏政の弟)の間で勃発。春日山城の本丸尾根続きに屋敷のあった景勝がいち早く本丸に入り金蔵と兵器蔵を押さえ、本丸下の二の丸から下にある三の丸に屋敷の有った景虎の機先を制します。双方が跡目を譲らず争いが始まり景勝の本丸からの鉄砲などの攻撃に耐え兼ねた景虎が春日山城から脱出、府中の前関東管領上杉憲政の御館へ入り籠城。周辺の上越地方の豪族らが景虎に味方し6千の兵が集まり、これらの兵で景虎は春日山城を攻撃。これに対し景勝に味方したのは新発田氏などの下越地方や実家の上田地方の豪族で春日山城から御館を挟んで遠く離れており、城内の景勝の兵力は少数でしたが、天然の要害である難攻不落の春日山城により景虎の攻撃を撃退しています。しかし、周辺大名の庄内武藤氏、会津芦名氏、小田原北条氏、甲斐武田氏が景虎に味方。特に武田勝頼は2万の兵で越後に侵入してきます。これに対し景勝は信濃北部領地の割譲と本丸金蔵にあった黄金二万両で勝頼との間で和平を締結。これにより勢いをました景勝は次第に景虎方を圧迫。御館は落城し景虎は落ち延びる途中で味方の裏切りにあい自害しています。その後、乱を収束させた景勝は豊臣秀吉に従属。1598年秀吉の命により上杉氏が会津へ転封になると堀氏が春日山城へ入城しますが、1607年不便な山城にかわり直江津湊近くに福島城を築き移ったため廃城となっています。平成28年7月27日までの大雨で春日山城の二の丸・三の丸下方斜面が崩壊したため訪問する前日まで登城禁止でしたが、訪問した7月30日から本丸へ登れるようになりましたが、二の丸三の丸は立入禁止で残念でした。
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