孫達の運動会を楽しんで宇都宮5日目に孫達の登校を朝見送って帰路へ、見逃した城館が有り北関東道経由太田藪塚ICを降り、深谷市の人見館跡を目指す。深谷までの地道は新田の荘のど真ん中、道すがら新田氏に関係する遺跡、資料館の案内看板が目に付きます、渋沢栄一記念館、深谷城址公園などもナビに入って来る。
ナビの目的地は人見館跡の近くに在る、仙元山公園野球場の近く南西角の駐車場に合わせて到着、駐車場広くトイレ完備を利用。
情報源は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
仙元山公園駐車場から南側を流れる用水路に従って西に約150m程の所に人見館跡案内板が道沿いに立って居る、そこは土塁跡堀跡の確認できる場所で民家宅の東、用水路と地道が並走し竹林が土塁跡堀跡に林立してる屋敷跡の北側を東西に、西側も竹林が林立し南北に、此処は二重堀二重土塁が確認できる、南側は遠目で樹木林立も下は土塁堀の様ですが良く分かりません。内部は現在畑で耕作されて居る、東側の堀、土塁は消滅してる。
案内板に由ると、人見館は三つの郭から成り、その範囲は東西約300m、南北約150mで、現在は西の郭が最もよく保存されてる、西側と北側に二重の土塁と空堀が残ってる。と記載されてる。
歴史は、平安時代末期、人見氏の館として築かれたと伝わる、人見氏は武蔵七党の一つ、猪俣党に属する河匂政経がこの地に住んで人見六郎と名乗ったのにはじまり、鎌倉期御家人として活躍、室町期初めに丹波国に移った。
室町期中頃、深谷上杉氏の一族の上杉憲武が人見氏の館跡を改修して居住、現在みられる堀や土塁はこの時の姿をとどめていると思われる。その後の動向は不明。(人見館跡案内板に由る)
小雨の中、傘を差しながらのデジカメ撮影、靴は探訪時の安全靴で無くスニーカーで余り深く中に入れづ少し遠くからの探訪、撮影でした。
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