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赤い城

冬季は閉鎖されています (2019/03/02 訪問)

会津本郷駅から徒歩で20分。
普通は車での登城ですね。
しかし冬季は閉鎖されていて登れませんでした。
リベンジしたいですね。

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赤い城

上杉景勝の未完の城 (2019/03/02 訪問)

会津若松市中心部から4kmくらい。
上杉景勝が新たな居城として築城したものの関ヶ原敗戦で未完となった。
本丸部分には私有地も多いです。

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カルビン

(東)日本3大なんちゃって天守?の1つ (2016/03/20 訪問)

以前お城巡りで関東鉄道常総線に乗った際、「豊田城祭り」みたいな中吊り広告があり、大きな天守の写真が・・・
豊田城なんて天守のあるお城、茨城県にあったっけ?って思ってました。

ふとそれを思い出して検索してみたら、誰が名付けたんだか、日本三大なんちゃって天守っていうのが出てきまして(笑)
天守は存在しなかったものの、実際に豊田城が存在すると言う事で行ってみました。

まず本命は本当の豊田城。
小貝川の土手に城碑と解説がありますが、ほんの少しだけ土塁・堀?みたいな形状が見られるものの、遺構は残って無いと言っても良いくらいの状態です。

そしてそこから西に真っ直ぐ行くとなんちゃって三重櫓があり(汗)
更にその北北西にある常総市地域交流センターがなんちゃって天守なんですが・・・これがまたデカいんです(滝のような汗)
解説にはしっかり「豊田城」とも書かれてます(言いきっちゃってますw)

作成した経緯は存じ上げませんが、櫓も天守もその力の入れ様半端ないです。。。大迫より半端ないですwww


自分が訪問した時は周辺一帯が台風か何かの為に川が氾濫してしまった後の事で、天守入るのには制限がありましたので、無理して登る事はしませんでした。


天守が存在しなかったのに模擬天守が建てられているお城は数ありますが、ここ豊田城の模擬天守をもし見られたなら、その大きさに圧倒される事間違いありません(―∀―;)

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ヒロケン

譜代大名の出世城 (2019/03/02 訪問)

1570年徳川家康が浜松城へ移ったあとは、徳川家康の長男信康が在城し、1579年信康自刃後は、石川数正等が城代として岡崎城を守備しました。1590年徳川氏関東移封後は、田中吉政が転封されてきて岡崎城を修築。総延長4.7kmという総掘りはこの時に造られ、田中堀と呼ばれました。関ヶ原の戦いの後、1617年本多康紀によって三重三階で東に井戸櫓、南に付櫓を持つ複合天守が建てられた。
以後も岡崎城は「神君出生の城」と神聖視され、譜代大名が封じられました。大名は岡崎城主となることを誇りとし、その後、老中となる人物も多かったので「出世城」とも噂されたお城です。

この日「行った城」を稼ぐ為、あまり興味のなかった奥殿陣屋・上野上村城・井田城を訪門。少し欲求不満気味(o´Д`)で岡崎城へ。
岡崎城へは、100名城の名古屋城・長篠城 続100名城の吉田城・浜松城といった自分の住む地域から近いということで、年に数回訪れている城で、少々飽き気味のお城でした。

行けば行ったで「さすが100名城」本丸北側にある青海堀と呼ばれるお堀何とも格好良いぃ〜。三重五階の復興天守(コンクリート)・東照公産湯の井戸・今回、初めて発見した、井戸櫓前の出世の井戸ヽ(*´∀`)ノ帰路につく頃には、満足で満腹でした。

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todo94

本日の朝駆け (2019/03/09 訪問)

朝一でレンタカーを借り受けて向かったのは、火の山城。関門海峡を望む素晴しい眺望が得られるのですが、山城のあった山頂部は火の山砲台築造により遺構が破壊されてしまっています。そこから至近の前田台場は四カ国艦隊に壊滅させられた故地。富樫倫太郎の「風の如く」をちょうど読み進めている最中なので実にタイムリーでした。案内表示の裏側が説明板になっているのも実にナイスでした。

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TESTU89

上田城の背後を守る城 (2016/09/10 訪問)

戸石城は砥石城とも紹介されますが、全山が頁岩で覆われているとても滑りやすい城です。
米山城、戸石城、本城、桝形城の4つより構成されています。米山城は言わば出城ですが、戸石城、本城、桝形城は同じ尾根上に並ぶ一体の非常に大きな山城群です。
尾根の上にはかなり広い郭が形成されていて、村上氏が支配していた当時は居館のような大きな建物が有ったと思われます。
真田昌幸が砥石城を拠点にしていた時期が有りましたが、この時は伊勢山にある「内小屋」と呼ばれる山麓の居館を使っていたと推定されます。
戸石城は真田昌幸が本拠地を上田城に移したのちも、上州や越後を結ぶ街道や何より上田城の背後を守る城として整備されており、徳川軍が上田城を攻めた折にはここから出撃した別動隊により背後をかく乱されました。

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TESTU89

笹洞城と原畑城の二つからなる城 (2016/04/06 訪問)

信濃国衆の中でも有力な国衆の一つであった室賀氏の本拠地です。
山麓の居館跡は原畑城、山城の方は笹洞城とも呼ばれています。居館の跡は原組公民館となっています。
どちらも「室賀温泉ささらの湯」が出発点として最適ですので、ここの駐車場をお借りします。
原畑城はささらの湯に入る入り口の、水沢川を渡る橋が「大手橋」と呼ばれていることからも、この川が前面の水堀の役割を果たしていたと思われます。ここから原組と呼ばれる集落が有りますが、恐らくは城下の集落であったと思われ、その奥の高台に居館が有ったようです。居館の背後を守ったと思われる堀切の跡ははっきり残っています。
笹洞城はささらの湯の奥側に室賀水上神社が有り、その脇に登城口が有るので、ここから登ります。尾根筋に出ると傾斜が急になりますが、この尾根筋にも竪堀が刻んであるのが判ります。
深い堀を3~4本超えると、2の郭、本郭を囲む帯郭に入り、周囲の斜面を切岸で成形された本郭に着きます。周囲の土塁には石積みされた跡が残っています。背後の大堀切や竪土塁にも石積みされた箇所が残っていますので、主要部の多くは石積みの施された城なのでしょう。
ここから室賀城のある室賀谷は、眼下に監視できます。
また水沢川の対岸にある前松寺には室賀氏の墓所が整備されています。真田昌幸に謀殺された室賀正武の墓はここには無いそうですが、「真田丸」で演じていた西村まさ彦さんが何度も訪れていたそうです。

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刑部

民家の脇道を (2019/03/07 訪問)

路駐して説明板があるところから徒歩で行きます。

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刑部

田園を越えた所にある城址 (2019/03/07 訪問)

駐車場は無いですが、写真の前の道を通り過ぎて少し行った左側が道幅が広くなっているのでそこに駐車しました。

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刑部

新撰組ゆかりの地 (2019/03/07 訪問)

村社 大宮神社入口に駐車場があります、そこから回遊マップを確認して観て周るのが良いと思います。1時間はかからないでしょう。

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くろもり

桜色の誰そ彼時 (2014/04/12 訪問)

桜祭りの時に訪れました。4000本の桜は美しく、夜桜も綺麗でした。
たくさんの屋台や上越の特産品等が売られていて、訪れる人皆が幸せそうな顔をしていました。

築城主は徳川家康公の六男・松平忠輝公で、天下普請で築かれた45万石の大名の居城にも関わらず土造りの城でした。

桜は綺麗ですが、築城主・松平忠輝公のことを思うと少し物悲しくなりました。山岡荘八氏の『徳川家康』で、忠輝公が弟である徳川義直公は尾張名古屋で巨大な天守のある城をあてがわれたのに、己は天守のない城の城主であることに不満を感じふてくされる描写があり、ずっと印象に残っていました。名古屋城の天守を見ると、「忠輝公はどのような思いでこの名古屋城を見ていたのか」と思ってしまいます。

忠輝公の慰めになるか分かりませんが、西堀の雄大さは名古屋城に勝っていると思います。また、夕暮れ時に南堀沿いを歩いていると、日が沈んだ後の空・堀の水が桜より濃いピンクに染まり、息を呑むような美しさでした。

夜桜と三重櫓の写真を綺麗に撮るのは難しかったので、写真を綺麗に撮りたい方は事前に撮影方法等を調べておくといいかもしれません。

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課長

戊辰スペシャルツアー (2019/02/24 訪問)

某アプリより河合敦先生ご同行のスペシャルなツアーへ参加させて頂きました!2日目会津は快晴☆若松城も晴れやかです(^^)

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にのまる

コーヒーブレイクとったために…。 (2019/03/06 訪問)

越ヶ谷御殿が石碑(と猫)だけで少々物足りなかったので、宇田家長屋門が移築されている花田苑に足を延ばしてみました。
写真①です。

…が、実は閉門時間を15分過ぎていたので、私が実際に見た姿は写真②です(≧∇≦)
①は隙間からズームで撮りました。
(そしてこれが湊城と同様に傾いているという…^_^;)

ここ数年、呼び出し食らってこっち方面には時々来ていたのですが、それも今月でおしまい。記念に周辺の城址に足跡をつけるつもりがオーマイガーな幕切れでした(^^;;

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赤い城

赤い城 (2019/03/02 訪問)

鶴ヶ城の呼び名の方が有名。
戊辰戦争の舞台でもあります。
復元された五重天守は赤い瓦が美しい。
天守内の展示物も見応えありました。

今年は雪が少なくこの時期でも登城できました。

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模擬天守も良いが、堀や町並みにも注目 (2018/12/16 訪問)

北堀内西側はグラウンドやテニスコートに。規模が大きいことに驚く。北堀から東に進んだところで道端に屋敷割りの説明図あり。戦国武将の町名がある。ブラタモリでも北堀や町並みが紹介されました。

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チェブ

どこから入れば良かったの? (2019/02/24 訪問)

正直に言うなら「羽尾城」近くをうろうろしました!

秀吉さんの北条征伐で前田 利家軍に包囲され激戦の末、落城したそうです。
まず住所をナビに入力して案内されたのが「滑川町羽尾打越、金光地集会所」でした。
間違えたと思い「羽尾城」に行った方のサイトを見ると集会所に車を止めて裏山へ、とあったのでナビは正しい場所に案内してくれたのでした。
が、車は止めて良いのか分かりません。
バス停もあり、集会所を使う訳でもないので駐車しませんでした。
違う場所に車を止めて再度やって来ました。
集会所の周りをうろうろしましたが「羽尾城」に通じる道が分かりません。
ダメだこりゃ!で引き上げです。

帰って来て調べ直したら、集会所の少し先に入口があるようです。
確かに、集会所の裏山とは書いてあったけど、集会所が入口とは書いてなかったな、、、。
チコちゃんに叱られる。いや、チコちゃん以外にも叱られる。

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カルビン

砥石崩れの立役者 (2016/11/05 訪問)

高梨政頼は武田晴信の北信濃支配を恐れて村上義清と組んで、双方争っているフリをして武田軍の背後を突き、砥石崩れに追い込んだとされています。

そんな高梨政頼が築城した高梨氏館も第四次川中島合戦前に武田軍・高坂弾正昌信によって落とされて飯山城に退却、その後徐々に上杉家に依存・吸収されて行ったようです。
元々上杉(長尾)家とは縁があったようなので、吸収は自然の流れだったのかもですね(汗)

しかし高梨政頼と血縁関係とされる高梨内記がどういう経緯で真田家に仕えたのか不思議です(・`ω´・;)?


さてそんな高梨氏館は国指定史跡になってます。。。最近国指定史跡の基準が良く解りませんが(ピンキリなのでw)

ここ高梨氏館は同じ国指定史跡としては当りの部類に入るかと。
外周を空堀・土塁で囲まれたまさに居館タイプのお城になってます。

堀が深く、土塁が高い為、中は建造物跡があるくらいでパッとしないかもしれませんが、外周の見た目だけでも満足出来る出来にあります。

堀にかかる橋や、石垣虎口(現存かどうかは定かではないですが)がアクセントを加えて、より一層満足感を与えてくれます。


電車で行けない事も無いですが、遠くから訪問されるのであればやはり車で訪問された方が周辺散策するのに便利です。

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刑部

ここも畑に (2019/03/07 訪問)

土橋の両側は空堀、深さは藪で不明。主郭は土塁があり中は畑です。

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モト

土塁、横堀と三日月堀もありました。 (2019/01/29 訪問)

大田原城の城跡は公園として整備され、市民の憩いの場になっておりました。
というのも公園として整備された城跡は多いと思うのですが、ここはそんな公園の中では近所の人であろう人が多くいました。
駐車場もあり、そのすぐ側に三日月堀がありました。
少し小高くなっている城跡の本丸へ向かうと横堀が。
本丸跡はしっかりとした土塁が囲んでいました。
土塁はしっかり残ってましたよ。

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刑部

畑になった城址 (2019/03/07 訪問)

車で主郭部に直ぐ行けます、ほぼ畑です。
二の丸の表示は読みづらい、本丸と二の丸の間の堀だけがはっきりわかるくらいです 元はかなり広い城郭だったようです。

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