川沿いに建つ石碑の警備員さん。近くに寄っても写真を撮っても親愛アピールしても微動だにせず無反応。にゃーにゃー呼びかけるこっちが恥ずかしくなるんですけど…。
ここがどなたの何のための御殿だったかということは写真②に書いてあります。スマホで撮ったのでびよ〜んって拡大しても読みにくいかと思いますので、以下、丸写しします。
【天下に君臨した徳川家康は、慶長七年(1602)奥州道を公道に指定し、越ヶ谷宿を取立てるなど、道中の整備を進めさせました。そして慶長九年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越ヶ谷郷の土豪会田出羽資久の敷地内に移し、壮大な御殿を建造しました。これを「越ヶ谷御殿」と称しました。
家康は、しばしばこの越ヶ谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩りを重ねています。ことに慶長十八年(1613)には三度も訪れ、一日に鶴を十九羽も捕捉したとあります。
また二代将軍秀忠も同じく越ヶ谷御殿を訪れ、一ヶ月に渡り宿泊し、鷹狩りに興じていました。
しかし明暦三年(1657)一月の江戸大火で江戸城が全焼したため、急遽越ヶ谷御殿を解体し江戸に運び、江戸城を再建しました。
越ヶ谷住民は御殿が江戸に移されてからも、将軍の別荘があった所としてこの地を「御殿」と称し今に至っています。その面積はおよそ六町歩(約六ヘクタール)です。
現在では御殿の面影を偲ばせるものは残っておりませんが、「御殿町」という地名にその名を残し越谷の人々に語り継がれています。】
現地は石碑(と猫)のみです。「50メートル先に慶長元年の板碑あり」とあったので行ってみると、立派な青石塔婆といくつかの小さな石塔がありました。(よく見ると十字の境界標がさりげなく混ざっていました。)
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