みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

イオ

リサーチ不足 (2019/03/17 訪問)

京都御所の特別公開を見学した後は、御土居めぐりを再開…する前に、その途上にある聚楽第へ。秀次切腹事件の後、徹底的に破却されたのは知っていましたので、石碑を2つ見ただけで満足してしまいましたが、帰宅してから調べてみると、他にも周辺には大名屋敷跡などいろいろあるようで、またしても事前のリサーチ不足でした…。

なお、聚楽第とは関係ありませんが、西濠跡の石碑から西に徒歩10分くらいの立本寺には島左近のものとされるお墓があります。関ヶ原の戦いの後、この寺の僧となり30年あまり生きたんだとか。見るからに普通のお墓ですが、島左近は好きな武将なので、手を合わせてきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

クロピー

2019-2 (2019/03/27 訪問)

道にはまだ残雪がありました。
本丸跡周辺はカタクリが咲いていました。

+ 続きを読む

とみー

幻なのか? (2019/03/28 訪問)

瀬田城の石碑を見に行きました。みなさんの投稿では、ゴルフ場の入口のそばに石碑があると書いてくださっていたので、地図を見ながらゴルフ場を目指したのですが、ゴルフ場だったらしい場所は、更地になっていて住宅ができる予定と、書かれていました。その後も石碑を探したのですが、見つけることができませんでした。工事をしていたので石碑を壊したりしたのか、それだったら幻の石碑ですね。

+ 続きを読む

カズサン

桜に覆われた土の城 (2017/04/13 訪問)

 桜の季節に成り一昨年4月13日に登城した後閑城の大変整備保全され時期的に桜に覆われた姿が余りにも脳裏に残ってますのでちょっと古いのですが投稿させて頂きます。
 道案内は城郭放浪記さんのサイトの情報でたどり着けました駐車場は西曲輪下に広くとって有り大変便利。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

深い、大きい、美しい。 (2019/03/17 訪問)

水戸から3駅の東海駅から徒歩約30分。石神コミュニティセンターまで来ると案内表示が立っていて、ひと安心です。
城址公園入口から見上げる土のお山は、この先に感動があるに違いない感120パーセント。
がんばってセコい長旅してきてよかった、無事に入口に辿りつけてよかったという安堵と、どんな景色が広がっているんだろうという期待で幸せな気持ちになります。
この気持ちを味わいたくて飽くことなくあちこち出かけているのだと気づきました。なんて健全な幸せドーパミン分泌手段なんだ!

で、石神城ですが、一気に踏み込むのはもったいないのでじっくり味わいながら進みました。
美しい折れと重なりを持つ深い堀を堪能し、土橋を渡って広い三郭へ。郭を囲む土塁もしっかり残っています。桜が少しだけ開花していました。
三郭から二郭へも土橋で渡れます。
二郭の先には小さめの一郭。深い堀に囲まれていますが、ここには橋はありません。でも、進入禁止とはどこにも書いていないし、きっと何かあるはず…と目を凝らしてみると、土塁にうっすら虎口っぽい窪みがあり、その下の堀には人が歩いて出来たと思しき細い道がありました。写真7です。ここを慎重に下りて上って一郭に行くことができました。ただ、そこは長居は無用な雰囲気だったので隅っこまで走って堀を覗いてまたすぐに戻りました。

北関東のオススメ物件をたくさんご紹介くださっているモトさん、いつもありがとうございます。今回も大満足でした!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

バリィ

平成30年 (2018/12/28 訪問)

姫路城にはいろんな思い出がありますが、一番強烈だったのは朝から雲一つない良い天気だったのが「あっ、雲がある」と思っていると強烈な暴風が吹きだし、あっという間に雲が空を覆い尽くし、気温が急低下、猛吹雪に襲われました。
天守からみていると三ノ丸、備前丸では観光客が避難先を探して逃げ惑っていました。
30分くらいしてから外に出ると先ほどの騒ぎが嘘のように晴れていましたが備前丸から東を見るとダウンバーストのような下降気流を見ることができました。

+ 続きを読む

バリィ

平成30年 (2018/11/07 訪問)

このお城の前は何回も通っていますし、堀横にある駅から電車を乗り降りもしています。
近くのバスターミナルから異なる終点のバスにも何回か行き帰りしていますが正直、入るのは初めてのお城でした。
楽しかったです。
遺構にこだわる方は
現存、移築、復元を調べてから行かれることを努めます。

+ 続きを読む

じゅんじん

公民館 (2019/03/23 訪問)

街道沿いに城址碑がありました。公民館裏手は神社です。

+ 続きを読む

すっくと平地から立ち上がった姿が素敵です (2019/03/24 訪問)

西側は平地からすっくと山が立ち上がり、山体の容積感も適度で、とても好きな景観です。花崗閃緑岩の岩山で、麓から山頂まで大石がごろごろ。切り岸は、石垣か自然石か私には判然としない。主郭(TVアンテナ塔)〜三ノ丸の更に北西に続く尾根に屋敷跡と思われる平削地と100mほどもある土塀跡。主郭から東側に鞍部を挟んで大山構(出丸。こちらの方が少し高い)。
登頂ルートは、主郭直下の館跡・黒岡神社脇からと、西側若王子神社からの新道と、南側から車で途中まで登られる秀吉ルートがある。新道はアサヒスーパードライの緑の募金を活用したと。新道は花崗閃緑岩が風化した小石が一面にあり滑りやすいので注意。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

バリィ

平成30年 (2018/08/19 訪問)

幾度か行ったことがあるのですが、造りが複雑なので縄張り図を持って確認しながら見学するか、複数回にわたって行かないと全てを回るのは難しいかも知れません。
写真の枡形に続き、180°曲がるトリッキーな道。
まさしく平城を代表する城です。

+ 続きを読む

くろもり

鉄砲を初めて実戦で使用 (2014/12/30 訪問)

加治木城は日本で初めて鉄砲が実戦で使われたとされる加治木城の戦いの舞台です。鉄砲伝来から6年後の1549年のことで、種子島の領主・種子島時尭から鉄砲を贈られた島津軍が使用したそうです。

加治木城は、比高70~80m程のシラス台地上に築かれ、各曲輪を堀切で区切った連郭式の縄張りの城でした。切岸や曲輪跡等ははっきりと分かるのですが、手入れがされていないので、散策は少し苦労しました。本丸跡は私有地、西ノ丸の方へ向かうと「ザボン畑」になっていたので散策を諦めました。

車での訪問の場合、県道から長い坂を登った所に車一台分のスペースがあり、そこに縄張図もありました。

城びとさんに未登録ですが、加治木高校に加治木館跡があり、こちらが「鬼島津」と恐れられた島津義弘公が晩年を過ごした所と伝わります。石垣があるのですが、亀甲積みなのに石に穴がぼこぼこあいた軽石のような素材なので、ちょっと不思議な感じがしました。

1~5枚目が加治木城、6~9枚目が加治木館の写真です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カルビン

落雷の傷跡 (2014/03/15 訪問)

JR横浜線・橋本駅から三ヶ木行バスに乗り、津久井湖の水門の先のバス停が津久井城の登城口からすぐ近くになるのでそこで下車。

訪問したこの日、時間が圧してまして・・・到着したのが15:00頃
16:00には真っ暗になる為、その前に下山するように書いてあった為、めちゃくちゃ無理して登りましたww
この当時まだ山城はおろかお城見学自体駆け出しだった為、体力も体重も全然なっていなかった為に、山城の洗礼を始めて受けた訳で
(津久井城は今考えれば山城としては散策するのにまだまだ楽な部類ですし(汗))

無茶して登ったおかげで、かなり早いうちに高い場所まで到達したので、これで暗くて危険な山下りはなくなり一息 ε = (・Д・。)


まず最初に見られる遺構が宝ヶ池、そこから飯縄曲輪を経て大杉に到着。

今でこそ落雷で消失した大杉が普通に見れますが、当時は大杉が燃えてしまって時間が経っておらず、杉の木が燃えた生々しい状態が見られました(汗)
燃えて炭化した部分が光ってましたので・・・

その後は尾根沿いに堀切・虎口を通って本丸へ。

津久井城自体、遺構満載って訳では無いので(消失したわけではなく、元々遺構はボチボチだった模様)、登ってしまいさえすればそんなに散策に時間はかからないと思われ、同様に遺構がある場所は山の上の方に集中している為、散策でアップダウンで苦労する事も少ないと思います。


帰りは西の根古屋地区方面へ下山しましたが、登りの時の薄暗さはどこへやら・・・西日が差して夕方にもかかわらず明るかったですw
こちらからちょっと北に向かえばバスの通る国道413号線に出られるので、むしろ登り降りは西側からの方が良いかもしれません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

Googleマップに凸の形。 (2019/03/23 訪問)

「金山城」攻めの後で地図を確認していたら水堀がある凸形の場所がありました。
昨日、投稿した「江田館」と似た折があり怪しい形です。
「反町館」でした。
カズサンと同じように新田荘歴史探索をしました。
新田 義貞公の居館の「反町館」、現在は反町薬師という寺院です。
幅の広い水堀と土塁があります。
土塁には桜の木があったのでお花見シーズンは賑わうんじゃないでしょうか。
一応、寺院の裏手も行きましたが、こちらの遺構は分かりません。
私は東京の端っこに住んでます。新田 義貞公が大活躍した分倍河原の戦いの多摩川は近くです。
「反町館」近くの生品神社で挙兵した新田 義貞公。
分倍河原駅のロータリーには銅像があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

クロピー

続日本100名城 高田城 (2019/03/27 訪問)

今年初の城めぐりは高田城。
来週からの「高田城百万人観桜会」の準備で忙しそうでした。
桜はつぼみかたし。

+ 続きを読む

SIN

続日本100名城 No.180 岡豊城 (2019/03/24 訪問)

高知市のお隣にある南国市の岡豊(おこう)城へ行きました!
岡豊城は四国の覇者、長宗我部氏の居城として知られています。長宗我部国親は岡豊城を足掛かりに土佐の有力大名へと成長しました。その後、国親の子・元親があらたに浦戸城を築いて移ったため、廃城となりました。現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残っています。かつて曲輪があった場所には県立歴史民俗資料館が建てられており、長宗我部氏関連の資料が展示されています(^_^)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

室町時代の中心地 (2019/03/17 訪問)

二条城から京都御所に向かう途中、二条古城に立ち寄りました。といっても、先人達の口コミにあるとおり遺構はなく(二条城と京都御苑に移築された石垣あり)、石碑と説明板があるだけですが。

この辺りは室町初期には室町幕府の三管領筆頭・斯波氏の邸宅があり(武衛陣)、武衛陣が応仁の乱で焼失した後、第13代将軍足利義輝が邸宅を構えましたが、三好三人衆らの襲撃により焼失、その跡地に織田信長が第15代将軍足利義昭の居城として二条古城を築いた、ということのようで、二条古城の石碑から南に少し行ったところには斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺城址の石碑と説明板が立てられています。幕府要人の邸宅が再三築かれる、室町時代を通じての中心地だったんですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

新田荘城館群巡り (2019/02/28 訪問)

 反町館を城名にて。
 最近「江田館」チュブさん投稿に刺激され先月末群馬県新田荘の城館群を巡りました抜粋写真を投稿したいと思い立った次第です。
 群馬県もそこそこの城郭を廻ったのですが太田市金山城本丸の新田神社しか新田氏絡みの探訪無く今回小雨、霧雨の中新田荘歴史公園資料館を手始めに(生憎同館はメンテナンス作業中で休館)、世良田氏館、東照宮、長楽寺、新田義重館(総持寺)、徳川館(満徳寺)、大舘氏館(カーナビに番地を入れ向かったのですが分からず)、安養寺館(明王院)、岩松館(青蓮寺)、反町館、新田義貞立上の生品神社、発掘復元された江田館と巡り新田義貞公の息吹と中世関東武士の城館群が良く残って居り貴重な文化財が太田市資料館文化財保全管理の努力が垣間見れますし、あちこちで徳川氏発祥の地と看板、幟がはためいていますので益々の全国情報発信をお願い致したし。
 駐車にも困らず廻る事が出来ましたし新田荘遺跡からは外れますが近くの久永氏陣屋も探訪しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

コウキ

木津城登城 (2019/03/27 訪問)

木津城に行ってきました‼️
西側は、木津城山公園となっていました。
また、城山にものぼりました‼️
畝状竪堀が、たくさん見えました‼️
草木が生い茂っていて登るのも大変😖💦
本丸は平らになっているのがよくわかりました‼️
皆さんも木津城山に登る時には、気をつけてくださいね🎵

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

バリィ

平成30年 (2018/06/10 訪問)

姫路城を観ながら、岡山市には高校の3年間通学しましたが、今思う事は
現存天守とそうで無い城とは、こうまでに扱いが違うのか!?ということ。
岡山城は旭川を渡るときに見えるのに、
あれほどの遺構が残っているのに
残念ながら全くと言ってもいい程に興味が無かったです。
知名度と観光にどれだけ押されているか、の差だと思います。
姫路って姫路城しか無いのに、姫路城のためだけにあれだけの人が来るのですから。

+ 続きを読む

todo94

【平成13年】石垣の城の魅力に開眼 (2001/11/24 訪問)

3連休の中日のドライブで初めて訪れました。その当時は、現存、復元、復興、模擬にかかわらず天守や櫓など作事のある城ばかりめぐっていて全国城郭管理者協議会発行の「城のしおり」に載っている城を順次攻めていました。竹田城に赴く前には福知山城に立ち寄っています。「城のしおり」に載っている49城(2001年当時は47城)の中で石垣だけの城は竹田城のみだったのでとても気にはなっていたのです。訪れてみて山上に広がる石垣ワールドに一目で魅せられてしまいました。「日本のマチュピチュ」というフレーズが素直に浮かびました。携帯電話が漸く普及しだした時代なので情報発信の機会はありませんでしたが。当時は当然、無料でしたが、観光客は少なく、立入禁止区域もありませんでしたし、天守台には竹のはしごがかかっていて登るようになっていました。現状の竹田城とは隔世の感がありますが、思い出深き城として強く記憶に残っています。竹田城のおかげで、熊本城の石垣の素晴らしさにも目を開かせて頂くことができました。

+ 続きを読む

ページ1740