みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

にこゆう

天守はただいま工事中 (2019/06/17 訪問)

名古屋のシンボル名古屋城。
今回はついに公開された「名古屋城本丸御殿」へ行ってきました。
奇跡的にたくさん資料が残っていたからこその完全復元だそうで
実際に見るとそのきらびやかさと荘厳さに圧倒されました。


ガイドさんが付きっきりで、広間ごとの障壁画や襖絵、
装飾品の説明してくれたことでより理解が深まりました。
対面する相手の身分で部屋の豪華さが変化するのも注目です。


何より細部まで作り込まれた装飾品の繊細な造形美は職人の技が光る逸品です。


天守は工事中のため登城できず。


後は石垣を中心に見て回りました。
あちこちで西国大名たちの刻印が見られます。
石垣の刻印を見つけながら歩くのもなかなか面白かったです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

吉川元春館

知名度の高い武将の個人名を冠した「伝承的」な館は全国に散らばっているが、ここは正真正銘、吉川元春の館。威圧感満載の一文字石垣を筆頭に、戦国大名の「館」がまるごと残された、貴重な場所でもある。

+ 続きを読む

カルビン

宝くじ機構ってやはり儲かっているんですね(たぶん) (2019/06/29 訪問)

同じ埼玉県内なのに、種垂城のある鴻巣駅から西袋陣屋のある草加駅まで、えらく時間かかりました。
(上種足バス停→鴻巣駅→大宮駅→春日部駅→草加駅→西袋陣屋まで駅から徒歩)
※草加駅から西袋陣屋付近までのバスもあります(バス停:手代町南)・・・丁度バスが行ってしまった後だったので・・・

西袋陣屋公園は雨の影響で、一面に敷き詰められていた芝生・クローバー等が軒並み水含んでおり、公園内歩いていて靴がずぶ濡れにorz
(住宅地内でも雨上がっていても訪問には適していなかった・・・)

標柱右・柵で囲まれた場所が堀跡というのは見てすぐに解りましたが、他にも公園内に至る所に土盛が・・・でもこれは遺構では無さそうで。。。

ただ、公園の堀の場所の更に右手・どちらかの会社の敷地と思われますが、祠のある謎の土盛というか高台が・・・これ土塁?
それにしてはスクラップ感が満々でしたが(汗)
一応作業中と言う事もあり、遠めに土盛のところだけ撮影させて頂きましたw

他に目ぼしいものは無く、こちらも近くに通りがかった際に立ち寄る程度で良いと思います。


ちなみに史跡巡りをする様になって、頻繁に見かけるようになった宝くじ機構が寄付した施設・建造物・石碑等
ここにも遊具が寄付されておりました。。。宝くじ機構って儲かっているんだな(ほぼ確信)~と思う一幕w

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

清原氏の存在なくして平泉藤原氏は。 (2019/06/27 訪問)

横手城でパンフレットをいただきました。詳しくて丁寧で親切なパンフレットです。歴史を叩き込むのは私には難作業すぎて出来ていませんが、発掘調査で柵列や掘立柱建物跡のほかに二重堀や土塁など戦国時代の城(館)造りに似た遺構も認められたすごいところ!です。(国史跡)
草が茂っていて今の時期の散策は厳しいとのことでしたが、横手城から徒歩15分くらいだし、はるばる秋田までやって来て一瞥もせずに帰るのは残念すぎるので行ってみました。

大鳥公園の中の小山です。解説板らしきものがすぐ近くに見えたのでせめてそこまで行こうと思ったのですが草丈がそこそこあり、雨も降り出してきて…。
周囲をうろうろし、一歩踏み込んではひっこめを繰り返すこと数度。
このハンパない草叢に身を置けば全身モリゾー(またはキッコロ)状態になることは間違いなく。。。
そんな姿で次の目的地へは向かえないし、熊看板も出ていたので退散しました。

ここのあとに行った「後三年合戦金沢資料館」で伺うと、季節には関係なく草刈り直後だと歩きやすいとのことでした。草刈りは年に何度も行っているそうなので確認してから再訪したいです。
遺構は既に埋められているのに何故にわざわざ再訪したいのかと申しますと「平安の風わたる公園」と沼柵(推定地。沼舘城跡)にも行ってみたくなったから。
「平安の風わたる公園」は横手駅の隣の「後三年(の駅)」すぐ近く。駅名のネーミングセンスがステキすぎ╰(*´︶`*)╯
…ですが最近は後三年の役ではなく後三年合戦と呼ぶそうです。(政府に刃向かったわけではないから。)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

kazu

高田城 (2019/06/22 訪問)

上越市立歴史博物館でスタンプを押しました。

+ 続きを読む

kazu

鮫ヶ尾城 (2019/06/22 訪問)

斐多歴史の里総合案内所でスタンプを押しました。

+ 続きを読む

トーダイ

岩剣山が望めます (2013/02/13 訪問)

天正23年(1554)、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちます。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかし山頂から麓までの道は大変険しく日常生活には不便でしたので、ふもとのこの地へ館を築いたのが平松城の始まりです。(案内板より)

現在城址は姶良市立重富小学校の敷地となり、正門<31.706312,130.604473>前に標柱と案内板があります。周辺の石垣は、江戸時代中期に整備されたものです。

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「池上氏館」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
池上氏館は、鎌倉時代の武士・池上宗仲の館とされる。池上宗仲は、日蓮に深く帰依し、弟の池上宗長とともに池上兄弟と呼ばれた。1282年、日蓮が、身延山から病気療養のため常陸の湯に向かう途中、池上氏館に立ち寄り、入滅したとされている。宗仲は日蓮入滅後、館やその周辺の土地を寺に寄進し寺領とし、池上本門寺の基礎となった。城址としての遺構は残されていないが、池上本門寺五重塔(国指定重要文化財)、池上本門寺宝塔(国指定重要文化財)など見どころは多い。また、前田利家室の層塔(大田区文化財)、池上本門寺の石段(大田区文化財)は、加藤清正の寄進によって造営されたと伝わる。

<アクセス>
東急池上線 池上駅 徒歩15分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「瀬田城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
瀬田城は、後北条氏の長崎伊予守重光の居城とされる。長崎重光は出家後、行善入道と称す。重光没後は、重高・重次が跡を継ぐが小田原征伐の際に廃城となったされる。後北条氏滅亡後も長崎氏は土着し、代々名主をつとめた。現在、遺構は残されていない。

<アクセス>
東急電鉄田園都市線 二子玉川駅 徒歩約15分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「都指定旧跡 世田谷城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★★★★☆
世田谷城は、14世紀後半に吉良治家が居城を構えたことから始まるとされる。吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で世田谷吉良氏はその庶流にあたるとされる。吉良氏は後北条氏と婚姻関係を結び、庇護下にあった。その後、吉良氏八代、二百数十年の居城として栄え、「吉良御所」及び「世田谷御所」と呼ばれた。小田原征伐の際に、廃城となったとされる。現在、城址公園として整備されている。世田谷城から徒歩圏内に豪徳寺(国指定史跡 井伊家墓所)や世田谷区立郷土資料館、世田谷代官屋敷も必見である。

<アクセス>
東急世田谷線 宮の坂駅 徒歩5分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「兎々呂城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
深沢城は、後北条氏の南条重長の居城とされる。南条重長は小田原衆の一人である。小田原征伐後も、深沢に留まり蟄居したとされている。現在、都立園芸高校となっており、門前に「兎々呂城」と刻まれた石碑がある。残念ながら、遺構は残されていない。

<アクセス>
東急大井町線 等々力駅 徒歩10分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「区指定史跡 奥沢城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
奥沢城は、名門・吉良氏の世田谷城の支城として築かれたとされる。1590年の小田原征伐の際に、廃城となったとされる。その後、徳川家綱より奥沢城跡地に「九品仏唯在念仏院浄眞寺」を建立させた。現在、境内に土塁等の遺構が残されている。

<アクセス>
東急大井町線 九品仏駅 徒歩10分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「馬込城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
馬込城は、後北条氏の家臣である梶原助五郎の居城とされる。梶原助五郎は、後北条氏の江戸衆の一人で、武蔵江戸馬込で三十二貫六十文を領していたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
都営地下鉄浅草線 西馬込駅 徒歩10分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「荏原氏館」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
荏原氏館は、旗岡八幡神社及び法蓮寺境内が跡地とされる。旗岡八幡神社は、1030年の平忠常の乱を平定するために、源頼信公が下総に赴く際に、宿営し、戦勝祈願をしたことから始まったとされる。その後、鎌倉時代中期に荏原左衛門尉義宗公が領主となり館を築いたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東急大井町線 荏原町駅 徒歩10分

+ 続きを読む

ぴーかる

新発田城 (2019/04/29 訪問)

【百名城46城目】
<駐車場他>城の公園および辰巳櫓横に無料あり 
<交通手段>車

<見所>三階櫓外観・表門櫓・旧二の丸隅櫓・辰巳櫓

<感想>GW2泊3日上・越攻城の旅2城目。本丸の南西側の公園(ほぼ満車)になんとか駐車でき来城。目の前にあの有名な3ツ鯱T字屋根の三階櫓が内堀をはさんで見える。後から知って後悔してますが、ここで内堀をはさんで目一杯左に寄って三重櫓を見るとT字屋根と三つ鯱が確認できるんだって。(はっきり見れるのがここしかないこと知らずに撮り損ねました~)内堀は南西側と表門のある南東側のごくわずかしか残っていない。石垣は切込接布積。現存の旧二の丸隅櫓が本丸の南西隅櫓(鉄砲櫓)の位置に移築されていて外観を楽しむ。土橋門跡→堀部安兵衛像→表門・辰巳櫓の外観を見て、本丸内へ、溝口秀勝像が迎えてくれる。入城する表門の櫓下にスタンプがあるのでわかりやすい。櫓門にも海鼠壁がありじっくり観察。内部にも入れる。再建の辰巳櫓、現存の旧二の丸隅櫓内部にも入れる。三階櫓は自衛隊敷地にあり遠く眺めるのみ。木造再建が内部見れなく勿体ない。城見学後少し南にある清水園に行ったが閉園15分前だったので入らず、現存の足軽長屋の外観を見て終了。見れる範囲は少ないが、現存建物が内部も無料で見学できるのでよかった。

<満足度>★★★★☆

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

gobigred

四層の城

 その昔、四層は死層に通ずるというので嫌われて、ほとんどの城は三層か五層であったのに、大垣城は四層だった。郡上八万城は大垣城のコピーで、従って四層。アメリカ軍の爆撃で燃える前は国宝。大垣は水都という別名を持つように、水が豊富で自噴水があちこちにわいていた(今でも一部で見られる)。そのため繊維工業、化学工業などの大工場が立地したので、それを米軍が狙って焼夷弾を落とし、燃やした。大垣の近くの金生山では石灰が採れるので分かるように、地質も古い。大垣城の石垣の石に化石を含むものがあるのはそのため。私が通った高校の校歌に「巨鹿の北野~」という文句があった。巨鹿城は大垣城の別名。濃尾三大河川に囲まれた地域なので地盤は固くない。それでも古代から日本史の分岐点に当たるような大きな会戦がおこなわれたり、重要な関所があったり、美濃は歴史好きにはお勧めの場所。春日局の生誕地も近い。

+ 続きを読む

todo94

久しぶりの城攻め (2019/06/29 訪問)

山城オフシーズンに入ってしまったのと、週末の度に所用が入ってしまったのとで、ゴールデンウィーク以来の城攻めでした。弘前にて献血後、レンタカーを借り受けて向かったのは、11年ぶりの再訪となる大浦城。津軽為信は大浦氏に婿入りしているので、この城在住時は、大浦為信ですね。弘前市立津軽中学校が本丸に当たるようです。

+ 続きを読む

かず

行ったど~ (2019/06/20 訪問)

車で行ったが入口が少しわかりにくい。

+ 続きを読む

巨大な三日月堀は県下随一 (2018/12/16 訪問)

下伊那郡松川町にある大島城は、平安時代末期に片桐宗綱が天竜川の右岸に築いたのが始まりで、簡素な砦程度の規模だったようです。宗綱は大島の地に知行を得て大島氏を称し、以後400年間大島氏の居城として機能しました。戦国時代、甲斐の武田信玄が伊那谷に侵攻した際、大島氏は武田氏に属しました。元亀2年(1570)武田氏は三日月堀や馬出などを備えた大城塞に改修しましたが、天正10年(1582)織田軍が伊那谷へ攻め入り、城将だった武田逍遙軒信廉(信玄の弟)は戦わずして甲斐へ退却、大島城は落城しました。本丸跡からは当時の焼米が見つかっています。

大島城の東側三方は天竜川が大きく蛇行した断崖に面した要害で、防備の手薄な西側の平坦地に馬出と三日月堀が築かれていました。その大島城最大の見どころである三日月堀。二重構造の大規模なもので、その立体感からかなりの威圧感を受けます。 現在残る大島城の構成は2期に大別され、天竜川に面した断崖の突端部分の本丸が、平安時代の末に大島氏が築いた最初の砦で、その後約400年の時を経た戦国時代、甲斐の武田氏が伊那谷を攻略した際に、本丸から西方向へ城域を拡張し大規模な改修を行いました。近年遺構の整備が行われたようで、三日月堀や馬出、土塁などが良好に観察できます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カルビン

バス停が近かった (2019/06/29 訪問)

「城びと」で初めてその存在を知ったお城。
昨年より目眩がきつくなり長距離運転が出来ず、公共交通機関で行ける場所を探していたものの種垂城は駅から遠すぎて訪問予定から除外していたんですが。。。

バスが近くを走っている事を知り、結構本数も多かった事から、雨模様ではありましたが今日ゆっくりと行ってみました。

JR鴻巣駅東口から加須車庫行きのバスで上種足バス停で降り、そこから5分程度で種垂城址公園に。。。
入口に解説と3台程度ではありますが駐車場もありました。


遺構は無いと伺っておりましたので、念のために何か無いかな?と探してみたところ・・・

奥の林の中にかなり浅くなっておりましたが、堀跡では?と思われる場所と、隣のエリアとの境にこちらも堀と思われる地形が。
同じエリアにある花崎城(地図で調べたら7kmくらい)に雰囲気が似ておりました。

そもそも種垂城はここから約4km離れたところにある菖蒲城の出城と言われております。
更にここから約3.5km離れた騎西城とも関連があるそうで・・・

こうして書いてみると周辺お城乱立地帯なんですね。。。車で回ればかなりの数のカウントできる場所ですが、うまく電車・バスを乗り回せば公共交通機関でも同じことが出来そうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1668