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チェブ

二代目は辛いよ。 (2019/05/25 訪問)

埼玉県久喜市の「足利政氏館」に行きました。
まさしく足利 政氏さんの隠居した館です。
政氏さん、扇谷上杉家の家臣 太田 道灌さんが亡くなり関東の立て直しを奮闘するものの、裏目に出ます。
嫡男の高基さんと対立し和解しても山内上杉家の後継者問題で揉めます。
次男の義明さんとも対立し、小弓御所で独立されてしまいました。
お父さん、頑張って!
隠居して和解したそうですけどね。
ちょっと大変な時期に古河公方になってしまったようです。
甘棠院というお寺さんが「足利政氏館」でした。
山門脇に石碑と説明板があります。
駐車場はなさそうです。車を停められる所が見つからなかったので重厚な門の写真を写し退陣しました。
中には遺構や政氏さんのお墓もあるようです。

足利 政氏さん、和解できて良かったですね!

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イオ

真鍋海賊の漢 (2019/06/24 訪問)

真鍋城(大津城)の城館は鎌倉初期からあったようですが、備中国・真鍋島出身とされる真鍋氏が、和泉国・淡輪を経て南北朝期に真鍋城に入り、その後、天正年間に廃城になるまで城主を務めています。廃城になった後、跡地には長泉寺が建立され、南溟寺に改称されて現在に至ります。

遺構は何もなく、南溟寺の本堂の前に小さな城址碑があるだけですが、真宗系の寺院らしく隅櫓風の立派な太鼓楼が建っていて、ちょっとだけお城気分を味わえます。また、南溟寺は伯太藩主・渡辺氏の菩提寺になっており、境内の南東部に墓所がある……はずなんですが、入り口を見つけられず未確認です。
アクセスは、南海本線・泉大津駅から徒歩約7分、車なら南溟寺の南側に参拝者用駐車場があります。

ところで、天正4年(1576年)に真鍋七五三兵衛(貞友)は、綾井城の沼間氏らと共に水軍を率いて織田信長に従い、第一次木津川口の戦いで村上水軍を含む毛利方と戦って敗死していますが、その辺の話は「村上海賊の娘」に描かれているようですし、真鍋七五三兵衛はもう一人の主人公とも言われるほどの活躍ぶりらしいので、買ったまま積ん読状態でしたが、近いうちに読んでみたいと思っています。
 

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ゲイジサン

修学旅行 (2019/07/01 訪問)

よかった。曇りだったけど。
御殿の中はすごい。写真撮れなかったけど。

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街道おじさん

大阪城登城 (2019/02/26 訪問)

今の城は太閤時代の城を復元したもので、太閤びいきの浪速っ子の心意気であろう。
蛸石の大きさにびっくり。

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カルビン

真田らしさ希薄なお城 (2014/07/16 訪問)

真田郷の攻略と言う事で当時気を引き締めて訪問しました。
真田のお城と言えば険しい山城のイメージしか無かったので。。。

名前が本城と言う事で最初に訪問したのが真田本城だったのですが、いざ訪問してみると車で山上まで行ける(舗装道路の終点がお城入口)事、更にそこからほぼ登りが無い事から拍子抜けしました∑(゚Д゚)

本丸の標柱の立つ一番高い場所から数本の尾根沿いに段曲輪やなだらかな曲輪が配置されるくらいで、土の遺構がほとんど見られない、お城としての堅固さも真田のお城としては緩く見受けられました。

攻防の拠点というより居住区ってイメージが強かったです。
今は道が続いているからそう見えるだけであって、かつてはここまでの道が険しかったのかもしれませんが・・・

ただ大きな木が少ない事から遠望が利く為、景色は良かったです。
(といってもそこまで高所では無いので、遠望までは・・・)

真田郷にある凶悪な松尾古城やまま厳しい砥石城と比べると攻略に拍子抜けするお城ですが、登城に疲れた後にここを訪問するっていうのもアリかも。。。


ちなみに自分が訪問した時はまだ真田丸放送の企画も出ていない時期だったので、今はいろいろ改変されているかもしれませんのでご注意を。

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帯状石積みの極致 (2018/04/21 訪問)

松本市の東、薄川を挟んで守護大名小笠原氏関連の城砦がいくつかあります。林城、桐原城、山家城、水番城などがそれですが、この中で桐原城は、その規模と造り込み(土木量)において一級品と言える威容を誇る名城です。桐原城は、15世紀中頃に信濃国守護小笠原氏に従属していた桐原真智が築いたとされる山城です。武田信玄の信濃侵攻に際し、塩尻峠の合戦で破れた小笠原長時は敗走、林城、桐原城、山家城が相次いで自落しました。守護小笠原氏の威厳も武田家という強大な敵の前に消滅してしまいました。

守護家(小笠原氏)の本城、林城の大城と小城に匹敵、いやもしかしたらそれ以上の縄張りで鎧われている桐原城。その一番の特徴が幾重にも張り巡らされた曲輪と石積みの量です。帯状に曲輪を取り囲むように低めに積まれた石積みが、主郭方面に向かって幾重にも取り巻く姿は圧巻です。深い竪堀や土塁など、中世山城の醍醐味を味わえる桐原城。是非一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

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たくわん

どれ石垣? (2019/07/02 訪問)

川越越えて武蔵嵐山駅からバス田黒下車。案内板ないから聞き込み調査。ちょっとバックして信号左。あとは道なりに15分くらい歩くと看板ありました。舗装道路を上がっていくと小倉城址入口の看板ありました。つづら折りの道を進むと曲輪が出てきた。しっかりした山城です。遺構もちゃんと残ってます。大堀切ありました。桝形虎口とか。石垣が有名らしい。石垣のようなものありましたけど、んー微妙だね。充分たのしめました。

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ぴーかる

高崎城 (2019/04/30 訪問)

【高崎城】
<駐車場他>無料Pは見当たりませんでした。コインPは多々あり。
<交通手段>車

<見所>現存乾櫓・現存東門・堀

<感想>GW2泊3日上・越攻城の旅4城目。高崎に前泊し2日目の予定は高崎城・箕輪城・沼田城・名胡桃城と北上し長岡市に宿泊予定だったが朝起きると、曇りの予報に反してどしゃぶりの雨☂(>_<)・・・2~3分フリーズ後に雨の降っていない地域を探すと新潟県の上越地方は曇りだったので、急遽2日目と3日目の予定を入れ替えて行動することにした。高崎城は宿泊したホテルから近かったのでまず予定通りに行ってみた。
 現存の乾櫓は農家に払い下げられ納屋として使われたてたものを再移築して現在は城跡東側の南北に走るお堀端通りという通りの中ほどにある。横には移築の東門がある。それらの北側の石碑の横に埋門と櫓台らしき石垣があるが、現存・積み直し・イミテーションかの判別はできなかった。
 雨だったので、城跡の東側しか巡らず次の春日山城に向かった。

<満足度>◆◆◆

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チェブ

マグロ三昧。 (2019/06/29 訪問)

神奈川県の三浦半島にある「三崎城」に行きました。
三崎と言えばマグロです。
お店の予約時間より早く着いたので「三崎城」に行きました。すいません。
相模の三浦氏の本拠地です。
北条 早雲さん、新井城の戦いで「三崎城」と「新井城」を落とします。この時の城主 三浦 道寸さん、義意さん親子は討死。一族の血で海が油を流したように黒くなった事から油壺という地名になったそうです。
ちなみに油壺近くの「新井城」は「三崎城」から少し離れてます。
北条氏の時代になると「三崎城」は水軍の拠点として改修したそうです。
調べてみると「新井城」が旧城。「三崎城」が新城とのことでした。
「三崎城」は三浦市役所一帯が城跡のようです。
石碑があった所は少し高くなっているので土塁かもしれません。
高い所にあり、坂を下ると海で良いお城だったのだと思います。
三浦一族のことを思うと無念です。

でも、、、マグロは美味しかったです。

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いんげん丸虫

林外城 茨城県鹿嶋市 (2018/01/02 訪問)

林城は外城と中城と2つの城跡が向かい合ってます。この林外城は近年、整備されたようで遺構が見やすくなりました。3つの広い曲輪が土塁に囲まれ、大きな堀切で区切られてます。土の城が好きな方にはお勧めします。

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イオ

城蹟山専稱寺 (2019/06/24 訪問)

南北朝期には存在していたようですが、戦国末期には「村上海賊の娘」にも登場する沼間氏の居城でした。文禄2年(1593年)に助松(泉大津市)から移転してきた専稱寺の境内地となり、現在に至っています。

専稱寺は山号を「城蹟山」といい、城跡であることはその名からも明らかですが、境内の方形の区画は平地城館としての形状がほぼそのままに残されており、境内の東南側には堀が見られ、山門付近には標柱と説明柱(?)が設けられています。また、軒丸瓦の「城跡」紋は山号だとわかっていても、ついニヤリとさせられてしまいます。

南海本線・高石駅から徒歩約7分、車なら専稱寺の北東側または南側に参拝者用駐車場があります。
 

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todo94

11年ぶりの再訪 (2019/06/29 訪問)

第3回お城EXPOでリーフレットを頂き、再訪を決意した次第です。土塁が復元されていて見違えるほどの変貌を遂げていましたが、本丸周りの円い堀は昔の佇まいを残していました。津軽為信が此処から津軽統一に進んでいく歴史の地ですので、国史跡にも指定されています。続日本100名城の浪岡城に全く引けをとらない存在感を放っています。

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朝田 辰兵衛

2019/06/29 21:07 甘粕近江守景持さんのご指摘により… (2019/04/20 訪問)

あらためて調べたところ,2019/04/21 01:14の書き込みが誤っていたことを確認しました。
甘粕近江守系統と甘粕備後守系統があり,双方を勘違いしていたところがありました。

パパイヤ鈴木氏が「天地人」で演じていた甘粕備後守景継は五泉城主で,上杉謙信死後に景勝の命で護摩堂城主を兼任(新発田重家討伐に備えて…)。文禄2年(1593年)に庄内酒田城主。慶長3年(1598年)に景勝の会津移封に従い,白石城代2万石。墓は山形県米沢市の林泉寺にあります。

桝形城主の甘粕近江守長重(景持)は第4回川中島合戦の殿(しんがり)ぶりが見事で,謙信と間違えた者が多かったという伝説があります。武田側も『甲陽軍鑑』で称賛。「甘数近江守,近国他国にほめざるはなし,謙信秘蔵の侍大将の,甘数近江守はかしら也」と。天正10年(1582年)に景勝の命で三条城主。新発田重家征伐には,景勝軍の鉄砲大将として敵将を討ち取っています。景勝の会津移封,米沢移封に従い,墓は山形県米沢市の永松寺にあります。

調べ方が甘カスで,申しわけございませんでした。

甘粕近江守景持さん,ご指摘ありがとうございました。

標高:299m,比高:230m。桝形山自然公園を目指してください。三の丸が駐車場,帯曲輪がキャンプ場。ちょっと悲しい気もしますが…。

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くろもり

勘兵衛の『城明け渡し』 (2015/12/06 訪問)

車で訪問しました。みなさんの投稿の通り、駐車場が分かり辛かったです。狭い一本道の先の追手門の横に7~8台分の無料駐車場がありました。

訪問時は天守台がまだ工事中で中に入れませんでしたが、外側から古い野面積みの石垣を見るだけでも十分城を堪能できました。

小一郎こと豊臣秀長の100万石の居城として有名な郡山城ですが、自分の中では関ヶ原の合戦後に、城主・増田長盛の留守中に郡山城を守り通した渡辺勘兵衛了(わたなべかんべえさとる)の『城明け渡し』の舞台の印象が強かったです。

関ヶ原の合戦後、大和国郡山城20万石の大名であった増田長盛は西軍に加担した為、出家して家康に謝罪し、高野山へ蟄居してしまいました。長盛の大坂出陣中に郡山城を任されていたのが渡辺勘兵衛で、郡山城を接収しに来た藤堂高虎と本多正純に「主君・長盛の命でこの城を預かっている。長盛の命でなければ、誰にも城を明け渡すことはできない」と東軍の要求を突っぱねます。結局、高野山の長盛が「開城せよ」との書状を書いてようやく勘兵衛は東軍に郡山城を明け渡しました。

時は戦国、敗軍となれば味方が賊に変わり寝首をかかれるかもしれない時代に、郡山城を守り通し(おそらく城下町の治安も維持)主への忠義も果たした勘兵衛は、後に藤堂高虎に4千石から2万石に加増され召し抱えられました。

このままハッピーエンドで終わらないのが勘兵衛らしいところで、そんな無骨な勘兵衛の生涯が気になる方は池波正太郎先生の『戦国幻想曲』必読です。上司にしても部下にしても苦労しそうな人間ですが、嫌いにはなれない生き様です。

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平馬

林泉寺 (2019/06/25 訪問)

春日山城の麓に林泉寺があり、駐車場からすぐの惣門は上杉謙信公によって春日山城から移築された唯一の門を見ることができます!
山門には大額が掲げられており、実際の謙信公直筆山門大額は宝物館で見ることができます。
山門の天井に龍の絵もあり見応えがあります。
大額と同じように宝物館に先代の絵が飾られています。
謙信公の御墓もありますので時間に余裕のある方は是非寄っていただきたいです!
ちなみに御朱印は宝物館にて頂くことができます。

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平馬

松代城、真田邸 (2019/06/25 訪問)

本丸太鼓門、太鼓前橋、北不明門、二の丸土塁が復元されているので武田流築城術の一端を垣間見ることができます。
そばには真田邸があり、入館すると無料でガイドが付き丁寧に真田邸の中を説明してくれます。

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ぴーかる

五十公野城(いじみのじょう) (2019/04/29 訪問)

【五十公野城】
<駐車場他>駐車場は見当たりませんでした。東中学校横の登城口が行き止まりになっているので、2・3台停めれる。
<交通手段>車

<感想>GW2泊3日上・越攻城の旅3城目。城びとに参加して初めて「お城をさがす」にて探して行った記念すべき1城目です。旅行の計画段階で探した際にまず、「いじみの」が読めなかった。五十公野氏という方がいらしたのが知らなかった。
 新発田城足軽長屋を見た後17:00時頃だったが、まだ明るかったので、スタンプ押印もないし本城跡までが予定だったので行った。東中学校とデイサービスの施設の側道を奥まで進むと行き止まりになっており登城口がある。比高はあまりないので10分程度ですぐ主郭跡の石碑が見える。伐採が主郭以外されてないので添付写真の土橋と堀切っぽいのが1箇所くらいしか確認できなかった。
 
 五十公野氏は新発田氏の一族で、戦国時代には新発田重家が五十公野治長と称して家を継いでいてその後、新発田重家の妹婿・長沢道如斎が、五十公野信宗と改名して五十公野氏を継いだそうだ。新発田重家が上杉景勝に反逆した際に五十公野氏もこれに従う。1587年に景勝勢に攻められ落城廃城となったらしい。

初日はこれにて終了し、2日目は上野国(群馬県)なので高崎に泊る為に向かう。

<満足度>◆◆◇

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todo94

けの汁発祥の地 (2019/06/29 訪問)

和徳稲荷神社がその故地。大浦為信に攻め込まれた際、和徳城の兵が落城前に食べた、もしくは、大浦為信側の野戦食が、この地域の郷土食・けの汁の起源であるとの説があるそうです。

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チェブ

陣屋と首塚。 (2019/05/25 訪問)

埼玉県の「久喜陣屋」に行きました。
1684年、米津 政武さんが築きました。
1798年、米津 通政さんが出羽へ転封し「久喜陣屋」は廃止されてしまいました。
現在、御陣山公園です。
「久喜陣屋」に関する説明板や石碑はありません。
ぱっと見ると、小山があるので遺構かと思いました。
どうも「久喜陣屋」には関係なさそうです。
小山の下に「首塚」の石碑があります。
小山のてっぺんには御陣山神社があるので「首塚」をお祀りしているのでしょうか?
どんな戦いが、この地であったのか気になります。

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イオ

城の名残は地形のみ (2019/06/24 訪問)

戦国末期、松永久秀と三好三人衆の抗争の場となった城ですが、宅地化により遺構は消滅しており、本丸跡あたりの家原城跡広場に城址碑と説明板があるだけです。

城域の西側を流れる石津川の段丘の先端に築かれ、絵図によれば本丸と西側、南側の二つの曲輪を水堀で囲む構造で、南の曲輪は馬出状になっていて、横矢と考えられる構造もあり、織豊期以前の城としては先進的な縄張り…らしいですが、今となっては、城跡広場の東側の丘陵に本丸跡を感じたり、絵図と現状を照らし合わせるとやはり古城公園は西側の曲輪の堀跡あたりかな、などと地形に城の名残を見ることができるくらいでしょうか。
 

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