一昨年の4月下旬鳥取の高校卒50年同窓会、檀家寺の法要を済ませて鳥取道、中国道、浜田道を経由して益田市に在る益田氏三宅御土居跡、七尾城を初探訪した。
三宅御土居は東西の土塁が残り道より東側は公園化整備が済み、西側は建物が撤去されたが未だ基礎部分残って居り時間を掛けて整備が進んでるようです、今後の整備保全が待たれます。
駐車場は御土居南東側川の手前に数台駐車可能。
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2019/10/25 17:33
益田氏栄華の跡を整備中 (2017/04/24 訪問)
一昨年の4月下旬鳥取の高校卒50年同窓会、檀家寺の法要を済ませて鳥取道、中国道、浜田道を経由して益田市に在る益田氏三宅御土居跡、七尾城を初探訪した。
三宅御土居は東西の土塁が残り道より東側は公園化整備が済み、西側は建物が撤去されたが未だ基礎部分残って居り時間を掛けて整備が進んでるようです、今後の整備保全が待たれます。
駐車場は御土居南東側川の手前に数台駐車可能。
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2019/10/25 17:22
辰市城の合戦 (2019/09/15 訪問)
筒井順慶が松永氏の多聞山城攻略の拠点として井戸良弘に築かせた城で、松永久秀・久通父子と三好義継による大軍の侵攻を受けて、大和最大の合戦と言われる辰市城の合戦の舞台となりました。当初は松永軍が優勢でしたが、後詰めの到着により形勢逆転。筒井軍が勝利しました。
現在の辰市幼稚園周辺が城跡と推定されますが、遺構はもとより石碑も説明板も何もない上に、平城で一帯は宅地化、農地化されているため、面影すら感じることができません。
どの駅からも遠く、周辺の道も狭く駐車場もないため、訪問しづらい城ですが、そもそも痕跡すらない城跡を訪問する意味があるのかと考えると…。
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2019/10/25 16:53
【伯耆・亀井山城】鳥取県日南町生山 (2017/04/21 訪問)
一昨年の4月下旬鳥取県日野町鏡山城を終えて少し南に日南町生山に在る亀井山城を目指す、吉川広家が整備し関一政が鏡山城完成まで4、5年居城したと言われる、以後廃城、伯備線生山駅の東側山稜に築かれた、山稜急で登城せず、主郭は山頂部石垣の曲輪が残ってると麓の案内板に説明有り、山城を遠望したのみ。
黒坂城、亀井山城の近くに金持神社が有り参拝して来ました金持神社は「カモチジンジャ」と読みますが名前が良いので大勢の参拝者が当日も詰めかけていました。寄って見て下さい。(今のところ御利益は感じてませんが)
場所は鳥取県日野郡日野町大字金持74です。
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2019/10/25 16:24
黒坂駅より鏡山城石垣が望めます (2017/04/21 訪問)
一昨年4月下旬鳥取帰省中に米子市尾高城を終えて日野郡日野町黒崎駅へ、目の前に黒坂城の石塁がドント構えてます。
車を駅に置き南の光明寺からの登城を図ったのですが途中竹藪の激しさで断念し、日野高校黒坂校舎へ車で向かい校内に駐車し居合わせた先生に駐車と見学の許可を頂きグランド山手側を歩きグランドに足跡を付けないよう登城しました。
陣屋屋敷跡を探訪西側山頂部の城域は探訪せず遠望のみ、案内解説板で勉強させて貰いました。
関ヶ原後伯耆米子城に入封した中村一忠が嗣子無く没して改易、伊勢亀岡から関一政が5万石で黒坂に入封し鏡山城(別名黒坂城)を築城、築城前4、5年は生山(伯備線生山駅目の前)の亀井山城に居城した。
関一政は家中内紛で除封、以後鳥取藩領重臣福田氏が黒坂陣屋を構えて明治期まで続く。(情報とガイドは城郭放浪記さん)
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2019/10/25 11:06
弘前城 (2020/10/21 訪問)
雲の帽子を被ったお岩木山をバックにした弘前城
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2019/10/25 11:05
山形城 (2019/05/22 訪問)
山形に行ったついでに、ふと立ち寄りました。
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2019/10/25 06:49
小丸山公園 (2010/09/26 訪問)
織田信長の命によって能登国の領主となった前田利家は、七尾城に入城したが、山城の不便さから新たに築いたのが小丸山城です。
利家が金沢に移ってからは、兄の安勝が城代となりましたが、元和元年に一国一城令によって1615年廃城とななりました。
現在は、小丸山公園として整備されています。
住宅街にひょっこり高くなっているところは、いかにも・・・って感じですが、
遺構はよくわかりません。
現在では、桜の名所になっているようです。
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2019/10/24 23:42
2019/10/24 20:53
山島公民館に石碑が建てられています (2019/10/24 訪問)
長享元年(1487)大窪源左衛門家長によって築かれたと言われています。
大窪源左衛門は4万石を所領、河原組を率いて一向一揆の将として活躍しました。
天文19年(1550)窪田大炊介経忠に城を譲り、家長は出家しました。
窪田大炊介は、本願寺派に属して加賀国総代となり、一向一揆軍を率いてます。
天正8年(1580)柴田勝家の軍に敗れ、窪田大炊介は自刃しました。
山島公民館に石碑が建てられていますが、遺構は残っていないようです。
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2019/10/24 20:45
夜に浮かぶ御橋廊下 (2019/10/16 訪問)
和歌山城の夜のライトアップは素晴らしかった。
特に御橋廊下と和歌山城の姿は格別。
目で見える光景は美しく、神秘的でもある。
スマホで撮って激しく後悔。
今度は絶対に一眼レフを持って行こう。
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2019/10/24 20:45
本丸への道 (2019/09/28 訪問)
七尾城はこの眺めが個人的に一番好きです
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2019/10/24 20:19
ここは「番田」堀江館跡です (2019/10/24 訪問)
築城年代は不詳ですが、堀江氏が館を最初に築いた場所は「番田」でした。
その後、一向一揆に対応するために番田から「下番」(本荘小学校一帯)に
移し、最後は「中番」(春日神社の地)に築いています。
県道109号線沿いに<36.211299,136.203818>石碑「堀江公番田館跡」と
案内碑が確認できますが、遺構は見当たりません。
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2019/10/24 17:35
イノシシ出没注意 (2019/09/15 訪問)
室町期に興福寺大乗院方衆徒として勢威を誇り、大和五大豪族にも数えられる古市氏の居城で、越智氏と結んで筒井氏と対立する中、幾度か落城と再建が繰り返されましたが、天文12(1543)年に筒井氏に敗れると城を自ら焼いて退去し、廃城となったようです。
古市城は、現在は東市小学校の敷地になっている高台を本丸とし、本丸北側の「字古城」周辺を二ノ丸、西側平地部の古市集落の環濠を外堀とした広い範囲が城域とされますが、小学校南側の八反池とその東側の湿地が水堀跡で、他には小学校の高台にお城っぽさを感じるくらいで、遺構は見当たりません。小学校のグラウンドには城跡碑と説明板があるようですが、グラウンドへの門は閉鎖されており、石碑や説明板だけのために正門までまわって許可を取って…という気になれなかったので未確認です。
また、古市城の南側にある高山城と藤原城は、いずれも出城として機能していたと考えられ、高山城では曲輪や堀切が確認できるとのことなので、北側入口に向かっている途中、藪がガサガサ動いたかと思うと、イノシシの子供(うり坊よりずっと大きい)が前方に現れました。互いに固まってしまい、しばらくにらみ合っていましたが、イノシシが逃げたのでほっと一安心……とはいかず、子供がいるなら近くに親もいるはずと考えると、とても城めぐりどころではなく、急いでその場を退散しました。その後、南側入口に行ってみると(入る気はない)、イノシシ捕獲許可の標識が掲示されており、やはりイノシシの生活圏になっているようです。小学校から100mと離れていない舗装道だったんですが…油断できませんね。
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2019/10/24 08:00
伝説? (2019/10/20 訪問)
伝説地の石碑があります、その周りは畑。林に入ると土塁・堀 らしき遺構があります。
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2019/10/23 22:58
鬱蒼とした竹藪な感じ (2019/10/20 訪問)
住宅地の中にあり駐車スペースもなかったので近くの霊園駐車場を使わせてもらいました。
入口に説明板があるもののなかなか進みにくい雰囲気。
意を決して郭の中に進むと竹藪。
しかも暗く重い感じでした。
しかしながら土塁や堀が残っていて見る所はあったかなぁと。
台風の影響で空堀が水堀となっていました。
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2019/10/23 21:28
同じ山塊にある大仙山城も良い (2019/10/16 訪問)
模擬天守がある周匝茶臼山城と緩斜面の鞍部を介して大仙山城がある。周匝茶臼山城の模擬天守下まで細い車道があり、その途中に大仙山城に入って行く道(車は行けない)の表示がある。道及び大仙山城内は、白杭とロープで丁寧に案内されている。大仙山に行く尾根は緩斜面であるため、たくさんの堀切が設けられている。
周匝茶臼山城の郭跡や竪堀の残りは良好だが、大仙山城の方が規模が大きく残りも良い。要所に立てられた手書きの説明板の内容が微妙で楽しい。
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2019/10/23 20:12
元「伊自良の里」資料館は閉館してます (2019/10/23 訪問)
詳細不明ですが。鎌倉時代から活躍した伊自良氏の館跡です。
温泉施設「伊自良温泉」駐車場を利用、伊自良橋を渡ると平成10年開館したが、
入館者が少なく閉館した元「伊自良の里」資料館があります。展示資料は福井県立
歴史博物館へ移管されてます。
隣接して「館」風の建物が続いており、入口に「いじら・やきはた食堂」とあるが、
営業している様子はない。周囲に遺構らしきモノは見当たらず、温泉施設「伊自良
温泉」だけ繁盛している。
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2019/10/23 18:48
城郭史上画期的な城 (2019/09/15 訪問)
松永久秀が大和国支配のために築いた城で、多聞櫓の発祥の城であり、瓦葺きの屋根、漆喰塗りの白壁、そして天守の先駆けとも言われる四階建の高矢倉など、後世の築城に大きな影響を与えた画期的な城でしたが、久秀が織田信長に反旗を翻すも敗れて開城した後は破城となり、主殿は京都に、高矢倉は安土に、石材は筒井城に運ばれました。
本丸部分は現在では若草中学校の敷地になっており、遺構の多くは失われましたが、中学校の西側、西丸付近には土塁や櫓台がみられる…ようです。きちんと許可をとれば学内に立ち入って見学できるとのことですが、日曜の朝だったからか、門を入ったところの建物には教職員の姿はなく、無断でずかずか入り込むのは気が引けるので、この日は周辺を散策するにとどめました。
中学校の門から少し下って、西に向かうと佐保山南陵(聖武天皇陵)と佐保山東陵(光明皇后陵)があり、南陵の西側をまわって北側の狭い路地に入ると、南陵と東陵の間に設けられた堀切に行き着きます。天皇(皇后)陵のため立ち入り禁止ですが、それだけに往時の姿が残っていると思われます。
中学校の北側を切岸を見上げながら東に進むと、本丸と善鐘寺山(中学校のグラウンド)の間の堀切が切通道として残っています。この切通道から見ると東大寺などの社寺はすぐそこで、南都に睨みを利かせる城だということを実感します。
なお、中学校の門から南に下って、堀代わりとされた佐保川を渡ったところの若草公民館には、多聞山城についてのパネルや地形の模型が展示されているほか、資料もいただけるので登城前後にぜひ。
また、少し(かなり)離れていますが、生駒郡安堵町の旧石田家住宅(重文・中家住宅の西隣)には、多聞山城から移築されたとされる長屋門が残っています。…今にも倒壊しそうですが。
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2019/10/23 14:18
伯耆の拠点的城跡 (2017/04/21 訪問)
一昨年の4月下旬、淀江台場を終えて大山北側丘陵の先端を活用した中世伯耆一の城跡尾高城を初登城。
この城は山名氏、尼子氏、毛利氏と移り変わり山中鹿之助の逸話でも有名な城で、関ヶ原後中村一氏息子一忠駿府城より伯耆の国18万石で入封し米子城が完成するまで居城とし以後廃城。
桜の過ぎた時期でしたので名残のぼんぼりが揺れていました。 車は尾高城天神丸跡に当たる温泉施設の駐車場に停めて探訪、堀切に当たる大山道を渡り、説明板、武家屋敷跡、堀跡、南大首郭跡、隅櫓台、中の丸、本丸二の丸の有る森を遠望、天神丸、温泉施設シャトー・おだかで尾高城の資料を頂く。 本丸二の丸は入れない。
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2019/10/23 13:34
伯耆五台場の一つ (2017/04/21 訪問)
一昨年の4月下旬高校卒50年同窓会、鹿野城下檀家寺法要用事で鳥取帰省用事の前に伯耆の城廻り淀江台場に初探訪、国道9号線を西に走り台場は直前、漁港近くの漁業協同組合淀江支所の駐車場に停める、後で探訪したら台場北横に駐車場(3台位)が完備。
鳥取藩で8台場有り伯耆では5台場(国史)赤崎台場以外は台場の形が残ってます境台場、由良台場、橋津台場とここの淀江台場です。
ここの台場も農民の力と農兵で造られ守られていたようです。
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