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コロラド

御主殿跡 (2019/01/20 訪問)

数年前に仕事の息抜きに本丸跡に登っていたので、今日は御主殿跡を見に行きました。

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中川藤兵衛尉

花隈城 (2019/01/20 訪問)

城域が
 東:生田中学校
 西:本願寺神戸別院に入らないぐらい
 南:JR
 北:県庁通りくらいまで
というのを聞いたので再訪。後ろ二枚は去年の写真

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中川藤兵衛尉

歴史ウォーク⑥ (2019/03/24 訪問)

厳密には三木城ではないのですが、みき歴史資料館の主催で南西側の付城群を回るイベントが開催されます。当然、学芸員さんによる解説つきです

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中川藤兵衛尉

三木鬼追式 (2019/01/20 訪問)

厳密には三木城ではないのですが、三木城の横の大宮八幡宮にて鬼追式が行われました。摂州茨木から播州三木に移封された中川右衛門尉秀政を偲んで執り行われるお祭りです

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こみしん

続100名城巡り始めました (2019/01/20 訪問)

一発目は地元の三原城
駅構内から入れる天主台は有名ですが市内のあちこちにも石垣が点在しております。

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コメット♪

ここ気に入った! (2019/01/13 訪問)

初めて行きましたが、即気に入りました。

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コメット♪

興国寺通り (2019/01/13 訪問)

通りが良く見えました。

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あんらくごえ

高通児童公園 (2019/01/19 訪問)

藤堂高虎の孫、藤堂高通が初代藩主となった久居藩の陣屋跡です。本来の陣屋は隣接する久居中学校とこの公園を含めた広大なものでした。マイナーな話ですが十二代藩主藤堂高兌公は宗家津藩十代藩主となったのち藩政改革に取り組み、倹約、藩校設立、産業振興を行い改革を成功させ領民にも慕われたという上杉鷹山もかくやという名君です。

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じんじゃー

大門街道を監視する城 (2017/02/04 訪問)

城跡へは東側と西側からアクセス可能で、西側からは獣避けゲートを開けて100mほど行ったカーブ部分に登城口があり今回は西から。
尾根部分に出ると左側に鳥居がありここから山頂まで登っていく、途中には石仏や不動明王像があり信仰の山であったようだ。城域に入ると浅い堀切と段郭・細長い二郭と三郭があり、堀切を挟んで主郭がある。
主郭は土塁と石柱に囲まれていていかにもという雰囲気で、東側には堀切を挟んで物見となる郭があり、こちらからは大門街道がよく見え街道監視の役割を果たしたのがよくわかる。北側は二重堀切と後郭を配置して城域は終わっている。

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あんらくごえ

続日本100名城154 (2019/01/19 訪問)

続日本100名城に選ばれて全国区の知名度になりましたが県内では桜の名勝として有名です。
南朝北畠氏による築城にはじまり、北畠氏に養子に入った織田信雄の居城でもありました。
信雄以降は田丸氏、稲葉氏、藤堂家の支配ののち江戸時代には紀州藩領となり家老久野氏が代々治めていました
近くに伊勢神宮、山田奉行所、斎宮があり、徳川家にとっても重要拠点の一つだったと思われます
無骨で迫力のある野面積みの石垣が見事でした

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カルビン

戦争の傷跡 (2014/10/03 訪問)

東金駅から徒歩10分程で東金城登城口があると調べがついていたのですが、その肝心の登城口がどう探してもみあたらず・・・しかし東金高校脇に東金城・東金御殿の解説があって・・・(・`ω´・;)ゞ?

結局徳川家譜代の酒井氏の菩提寺となっている本漸寺と東金高校の間・ちょっと奥まったところに登城口ありました。
(登城口を私有地と間違わんばかりに覆っていて、しかも案内が無い為にかなり不親切ですw)

一応土塁・堀・堀切等の遺構がありましたが、数は少なかったです。
まだ藪が厳しい時期だったので、もしかしたら隠れていたのかもですが・・・

ちなみに奥まで進んだのですが、主郭と思われる場所が見つからず、途中で道が無くなってしまった感じでした。
やはり藪で道が塞がれていたのか、もしくは主郭自体失われていたのか、はたまた主郭までの道が崩落したのか・・・

代わりに近代の戦争に関係すると思われる防空壕のような横穴やコンクリートで塞がれた場所とかが城域にいくつも見つかったのが印象的です。


お城初心者の時期に訪問した場所は再訪して新たな発見する場所も多いですが、東金城に関しては再発見出来るような気がしません。。。それだけ当時ちゃんと見学したのに肝心な場所がなかった感があるので(汗)
でも行かねばならないんでしょうなぁ(ー△ー;)

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朝田 辰兵衛

【再訪】第93回高田城百万人観桜会に合わせて… (2018/04/07 訪問)

スタンプペッタン。
初日から,違和感があったスタンプ設置箇所は,高田城三重櫓受付に変更されてます。

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かりのんと

桜山城 (2019/01/20 訪問)

名前の示す通り、桜がたくさん植えられていました。
石積、土塁、井戸が残っており、見応えのある城でした。

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ヒロケン

戦国武将集結 (2019/01/04 訪問)

石垣山城は「石垣山」と呼ばれる箱根からの派生する山上にあります。関白豊臣秀吉が天正18年の小田原合戦の際に築いた陣城で「家忠日記に石かけの御城」とあることから、「石垣山城」と呼ばれています。秀吉が一夜のうちに城が出現したように見せかけたとの伝承から「石垣山一夜城」とも呼ばれていますが、実際には聚楽第や大阪城に勝るとも劣らない普請工事であっとことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣秀吉の城郭です。
今も穴太衆により築かれた野面積み石垣が本丸や南曲輪などの各所に残り、谷を石塁で塞いで井戸とした井戸曲輪の姿は圧巻です。

小田原合戦の折、この石垣山城に日本全国の戦国武将達が集結し、どの様な思いを巡らし、どの様に戦ったのか妄想しているだけで、時間があっという間に過ぎてしまいました|゚Д゚))) この石垣山のどこかで小田原征伐に遅れた伊達政宗が白装束で豊臣秀吉と対面したのでしょうか( '-'* )? 

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かりのんと

稲村山城 (2019/01/20 訪問)

地元の子供による案内板に導かれて山頂に到着しました。
道幅も広く、登りやすい山でした。

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刑部

石碑は立派 (2019/01/19 訪問)

セブンイレブンの直ぐ横に城址の石碑がありました。

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夏の雪だるま

伊達・最上の境目の城 (2018/06/09 訪問)

山形県白鷹町の鮎貝城です。1396年横越氏が築城、鮎貝氏を称したとされます。鮎貝氏は米沢地方から勢力を拡大した伊達氏に従属、同じ藤原氏の出であったことから、伊達一門に加えられたとされます。1587年、時の当主鮎貝宗信は、最上義光と縁戚関係を結び伊達政宗に対して謀反の気配を示し、それに反対する宗信の父宗重から一報を受けた政宗は、鮎貝城へ電光石火の急襲を行ったため鮎貝城は落城、城下も灰燼に帰したとされます。城主宗信は山形へ逃れ、一時、城は破棄されますが、その後、領国境の強化のため改修されたとされます。伊達氏が国替えとなると、蒲生氏・上杉氏時代には、境目の城として拡張整備を繰り返されたとされますが、詳しくはわかっていません。江戸時代に入ると、一国一城令により廃城となり、、御役屋と呼ばれる屋敷が本丸背後に建てられ、上杉氏家臣本庄氏が領主として鮎貝を治めています。城は、最上川の左岸段丘上に築かれ、現在の鮎貝八幡宮が二の丸、その北西側に本丸、本丸の北・西・南に三の丸が配され、各丸は水堀で囲まれていたとされ、麓の城下も水堀で囲む外城とした総構だったと言われます。現在、城跡は二の丸跡の鮎貝八幡宮に土塁や北側に水堀が残り、本丸跡は住宅地や果樹園となり、本丸跡の看板が設置されています。また、三の丸は住宅地となり、堀跡が一部残っています。

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夏の雪だるま

小野寺・最上攻防の城 (2018/05/12 訪問)

秋田県湯沢市の北部の皆瀬川左岸にある丘の先端部標高110mに位置する、本丸・二の丸・三の丸を配する東西250m南北180m規模の岩崎城です。城西側の羽州街道と皆瀬川の監視を目的とした湯沢城の支城とされます。築城年代は定かでありませんが、戦国時代秋田県南を領した小野寺氏の庶流岩崎氏が城主でした。1590年奥州仕置で雄勝郡は山形の最上義光の領土とされますが、小野寺氏は雄勝郡の支配を継続したため、最上義光は、1593年より雄勝郡侵攻を開始、国境の諸城を攻略、1595年雄勝郡の重要拠点である湯沢城を最上軍6千の兵で攻撃、激戦のうえ落城させると、岩崎城を6百の兵で夜襲。岩崎城は援軍も無く守兵2百と手薄であったため落城。最上氏家臣原田氏が城主となます。1602年佐竹氏が移封となると佐竹氏の城となりますが、1615年一国一城令により廃城となっています。1868年岩崎城址南麓に佐竹支藩2万石が陣屋を構えて岩崎藩を置きますが、1871年わずか3年で廃藩置県により廃藩となっています。城跡は現在、千年公園として藤棚などを整備、5月には藤祭が開催されています。本丸東側の堀をJR奥羽本線が走り、二の丸東端櫓台跡に高辻神社、三の丸に玉子井戸・能恵姫像があります。三の丸の下にある帯郭の八幡神社拝殿の唐破風が陣屋殿舎からの移築と伝えられ、その奥に水神神社と鹿島様の藁像があります。

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夏の雪だるま

関ヶ原後の戦いの城 (2017/10/28 訪問)

田県横手市の吉田城です。戦国時代に秋田県南を領した小野寺景道が築城、隠居後入城したと伝えられています。城は、四方100メートルほどの平城で、横手盆地平野部のほぼ中央に位置し城の西側を大戸川流れる地に、東西南北に高さ2m程の土塁を廻らし、その4つの隅には物見櫓を配し、周囲に幅10m程の水堀があったとされます。景道は父を家臣大和田等の謀反により失い、山形庄内の大宝寺氏(武藤氏)に保護されたのち、大宝寺氏や由利諸将の支援を受け大和田らを滅ぼし、横手城を本拠に領土を秋田県南・由利地方・山形の真室川地方まで拡大、小野寺氏の最盛期を築き上げ、上洛し織田信長に会見後、家督を次男義道に譲って隠居したとされます。景道が亡くなると末子陳道が城主となり1600年関ヶ原の戦いの時、小野寺氏は山形の最上義光に奪われた秋田雄勝郡の領地奪還のため最上氏を攻撃、このため関ヶ原の戦いが終わると、最上氏や周辺大名1万余の軍勢から小野寺領西部の重要拠点大森城が攻撃を受け、同時に、大森城10km東の吉田城へ3千の軍が攻めてきます。これに対し、城主陳道は吉田城の兵5百、横手城からの援兵5百、北8kmの黒川城の5百の兵計15百で、迎え撃ち撃退したとされます。しかし、小野寺氏は反徳川とみなされ改易、陳道は南部氏をたより家臣となったとされ、佐竹氏が秋田に領地替えとなると、佐竹家臣茂木氏が城主となるも1615年廃城となっています。現在城跡は一部南側が墓地となり破壊されていますが、その他土塁が良好な形で残っています。

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夏の雪だるま

小野寺・最上の攻防の城 (2016/05/08 訪問)

秋田県南部の湯沢市にある湯沢城です。鎌倉時代後期秋田県雄勝郡に入部した小野寺氏稲庭城の支城として築かれ、のちに小野寺氏は雄勝・平鹿二郡を領する戦国大名に成長してます。しかし、1593年山形最上氏の雄勝郡侵攻が始まり、国境の八口内城など数城が最上氏に攻略され、さらに、1595年雄勝郡の小野寺方の重要拠点である湯沢城周辺の小野寺方の西馬音内城主など5城主が最上氏に従属、しかし、湯沢城主小野寺孫七郎兄弟は従わなかったため最上氏は主将楯岡満茂、先鋒鮭延秀綱の兵6千で湯沢城を攻撃。湯沢城には小野寺孫七郎兄弟が兵8百で籠城。小野寺本軍の援軍は来ず、多勢に無勢で落城必須と知った城主孫七郎は妻子を殺害、残った兵3百と城から突撃。最上軍に多大の被害を与えますが残兵50名となり燃え盛る城へ引き返し切腹したとされます。以後最上氏家臣楯岡満茂が湯沢城主となり小野寺領侵攻の前進基地となります。関ヶ原の戦い後、佐竹氏が秋田に転封となり湯沢城には佐竹南家が城代となり城と城下町を整備します。しかし、1620年一国一城令により廃城。城山麓に館をたてこの地を治めたとされます。城は、湯沢市街地の市役所向かい側の標高230mの古舘山に築かれた山城で本丸、二ノ丸、馬場郭からなり東西400m南北650mの規模といわれ、現在は中央公園となっています。

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