前々から気になっていたお城、ようやく来ることができました。
南北朝時代に築かれ、一向一揆の拠点にもなった、標高約70mほどの錦城山の尾根全体に築かれたお城。
越前一向一揆平定後に柴田勝家が大改修したそうで、以後はその家臣が越後の上杉氏に睨みを効かすべく城主となりました。
秀吉の時代になると小早川秀秋の(元)家臣である山口宗永が城主となるも、関ヶ原の合戦の際には西軍についたが為に東軍の前田利長の猛攻に遭い落城。宗永は直前に降伏を申し出るも受け入れられずに攻め立てられて、遂には自刃したそうです。
その後は前田氏の持ち城となるも一国一城令によって廃城となりました。
建物は取り壊されたものの、あえて破城は行わず『お止め山』として入山を厳しく禁じました。
そしてその麓には陣屋が築かれ、加賀前田家の分家が大聖寺藩を立藩。その後は最大石高十万石を誇る(当時、城を持っていない大名の中では全国最大の石高だったそうです。しかしその財政は火の車だったそうですが…。)加賀前田藩の支藩として明治を迎えました。
さて、到着時間がすでに夕方近かったので、先に陣屋跡である江沼神社へ。
ここの見所は船着場と、小堀遠州の設計と伝わる池泉回遊式庭園(少し荒れていますが、見事な庭園です。見頃は秋がオススメ!)、そして当時藩主の休息所であった長流亭でしょう。
長流亭の拝観は原則電話予約制ですが、社務所に申し出れば拝観可能です。(午前9時~午後4時、拝観料400円、内部撮影不可)早速社務所に申し出て内部を見せていただきました。
大聖寺川に面して建てられた数寄屋造りの瀟洒な建物、(ただでさえ長い文章がさらに超長くなるので)内部など詳細は割愛しますが、厳選された木材を贅沢に使い当時の職人の技術の粋を凝らした華やかな空間が内部に広がっておりました。そして宮司さんからいろいろ面白い話を教えていただきました。昔の大聖寺川は川幅も広く流れもあってもっと澄んでいた、水害の際に床上浸水に遭い解体修理の際に土台の石垣を嵩上げした、有事の際は櫓の役割も果たす、etc.…。ここは必見!
そして、いよいよ錦城山へ。
登城口から入ってすぐ左手にはなんと『贋金造りの洞窟』なるものがあります。明治元年(1868)新政府より越後戦争に使う弾薬の供出を命じられた大聖寺藩でしたが財政難でお金がない。そこで、なんとこの洞穴の中で贋金を製造したというのです。しかもそれが公に流通したというのですから大事です。そしてそれは後々になって露見、製造責任者であった藩士市橋波江は全ての責任を一身に背負い切腹させられました。エグい。
しかしその子には倍の禄を与えて功に報いたといいます。しかしその4年後には廃藩置県。それ、本当に報われたのでしょうか…。
そんな複雑な心境になりながら周辺に目を遣りますと、そこには段々畑のように連なる郭の跡が一面に!
虎口の跡もはっきりと残っています。
しかし季節柄、下草のトラップと藪蚊の猛攻が凄い…。
やはり一際広いのは本丸跡。見所はやはり巨大な櫓台でしょうか。この上にはどうやら丸岡城天守よりも一回り大きい、付櫓を伴った大きな櫓が建っていたようです。
その櫓台のすぐ下には、ここで無念の自刃を遂げた山口宗永の供養碑がありますので、手を合わせておきましょう。
しかし日がかなり傾いてきたので、眺望がよいらしい東丸跡は諦め(白山連山が眺められるそうですよ!)、本丸北東虎口跡→馬洗い池→対面所跡へと下山しました。
しかしこのルートは正直オススメできません。如何せん草藪が凄過ぎ…。
ちなみに対面所跡ですが、本丸跡と同等かそれ以上の広さです。調査の結果、ここには城主の普段住まいの居館があったと推定されています。
今回はかなり急ぎ足での訪城でしたが、石垣こそ見あたらなかったものの戦国時代の面影を充分に感じられる素晴らしいお城でした。
次行くとしたら、秋~冬か春先でしょうかね…もっと隅々まで見たかったし、その頃には白山もキレイでしょうし。
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