秋田県羽後町の西馬音内城です。湯沢市の西方に広がる田園地域を西馬音内街道で西に進むと羽後町西馬音内の街があります。日本三大盆踊りの一つ西馬音内盆踊りが有名なところです。街を西にはずれて平地が尽きる所にある出羽山地の丘陵に築かれたのが西馬音内城です。稲庭城の小野寺氏の支城として1277年築かれています。日本海側の由利地方の押さえとして重要な城であり小野寺一族が城主として配されていました。戦国時代の城主小野寺茂道は由利郡の矢島城主大井満安と縁戚を結んでいましたが、1592年大井氏が仁賀保氏以下の由利諸将との戦いに敗れ茂道のもとに落ち延びてきましたが、これに小野寺氏当主の横手城主義道が反乱の疑惑をもち兵がさしむけてきました。茂道はこれと一戦を辞さぬ覚悟でしたが、大井満安は一族と戦わなければならない茂道の苦渋を察して自害したとされます。このことにより、茂道は義道に反感を持つようになり以後、義道からの出兵命令にも応ぜず、山形最上氏が雄勝郡に攻めて来るや、最上氏に従属。しかし、小野寺氏が最上氏に奪われた湯沢城奪還に動くと小野寺方にもどっています。その後、関ヶ原の戦いの後、小野寺氏は徳川側の最上氏と敵対したため最上氏や周辺大名の本格的な攻撃にさらされます。このため西馬音内城主茂道は1601年みずから城に火を放ち、戦わずして庄内地方へ落ち延びたとされます。城は、廃校となった元西小学校裏山にあり、由利郡の東由利と矢島からの街道が眼下で落ち合う交通の要衝で標高172mの平野に突き出た丘陵部に東西100m南北50mの本丸、一段低く東西40m南北150mの二ノ丸、外側に複数の郭を配し総面積23ha程の規模を有していたとされます。北は西馬音内川があり東西は急峻な崖で、南は空堀で防御された要害で、焼け残った城門が城跡の向かいにある西蔵寺に移設され山門として残っています。
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