栗本城からの転戦です。石碑付近(32.996606、132.929819)に駐車しました。
夜遅い為、中村城は開いていないので、模擬天守を外から確認しました。
築城年代は定かではないようですが、1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱を避け、左大臣・関白であった一条教房が、翌年、荘園であった中村に下向しそのまま戦国大名として土着しました。
元々この地にいた豪族の為松氏が家老として取り立てられ、その為松氏により築城されたのが始まりと考えられているようです。
代替わりして一条兼定は、1558年(永禄元年)に伊予国の宇都宮豊綱の娘を娶るが、1564年(永禄7年)に離別して豊後国の大友義鎮(宗麟)の次女を娶り大友氏と結びました。
1574年(天正2年)素行が悪かった一条兼定は羽生、安並、為松の三老臣によって幽閉され、豊後に追放されました。
これにより一条氏は兼定の嫡男内政が擁立され、長宗我部元親に後見を頼み大津御所に送られた。元親は中村城主に実弟である吉良親貞を置いて幡多郡を支配させたそうです。
1575年(天正3年)一条兼定は中村に復帰を試みますが、長宗我部元親に攻められ滅亡しました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い後、戦功により山内一豊に土佐一国が与えられ、1601年(慶長6年)山内一豊の弟康豊が20,000石で入りました。
1615年(慶長20年)の一国一城令に伴い、廃城となりました。
二の丸跡に郷土資料館として模擬天守が建てられその南に土塁・虎口が残っています。郷土資料館の開館時間には間に合いませんでしたので、二の丸跡付近のみの攻城でした。
車を駐車した付近に石垣があり、駐車した場所は堀切にあたるようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=中村御所(城びと未登録 高知県四万十市)に向かいます。
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