備中松山城の歴史は古く、鎌倉中期に地頭の秋葉氏が臥牛山の大松山に城を築いたのが始まりで、その後、城主は移り変わりながら縄張を小松山にも広げ、戦国末期には三村氏が臥牛山全域を要塞化しましたが、備中兵乱の際に落城、三村氏は滅亡し毛利氏の城となりました。
関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏が退去すると、小堀正次・政一(遠州)が城番を務めた後、池田氏、次いで水谷氏が城主となり、二代・水谷勝宗が行った天守建造などの大改修により現在見られる姿となっています。水谷氏が無嗣断絶した際には、浅野内匠頭長矩と大石内蔵助良雄が一時城番を務め、その後、安藤氏、石川氏を経て板倉氏で明治を迎えました。
廃城令により御根小屋(山麓の居館)は取り壊され、山上の城も売却されましたが、取り壊すには不便すぎるため放置され荒れ果てていたところ、昭和初期、高梁中学校教諭の信野友春が城の現状を詳細に調査・発表したことを機に保存の機運が高まり、学生も夏休みに二万枚もの瓦を山上に運び上げるなど、地域をあげての大修理がなされました。平成になってからも、櫓や門、土塀が史実に基づいて復元され、現在に至っています。
う~ん、こうして城の歴史をたどるだけでも様々なエピソードがあって楽しいですね。
さて、この日は二重櫓の特別公開を目当てに登城しましたが、下調べしていると、この頃はちょうど雲海が発生しやすい時季らしく、雲海撮影のためだけに行くつもりはなくても、どうせ行くなら雲海に浮かぶ姿も見てみたい、ということでまずは展望台に向かうことにすると、賀陽ICを降りたあたりから霧が立ち込めはじめ、そして展望台から望む備中松山城は……まさに天空の山城!! 写真で見るとおりの景色が目の前に広がっているのはなかなか感動的でした。
展望台から北西に進み、吊橋を渡って大松山に向かう登城路もあるようですが、やはり初登城は大手側から、ということで、城見橋公園駐車場に車を駐めてシャトルバスでふいご峠へ。ふいご峠から整備された道を登ること約10分、右手に中太鼓丸櫓跡の石垣が見えてきます。さらに数分行くと、眼前に聳え立つ岩盤とその上に築かれた石垣と土塀…。真田丸のオープニングで知られる光景ですが、実際に真下から見上げるとあまりの迫力に圧倒されてしまいました。そして、大手門枡形虎口の高石垣、一部現存の土塀、櫓跡や門跡、曲輪を見て回りながら登っていき二の丸に到着。二の丸から復原された平櫓と土塀越しに望む天守は、定番の構図ながら重厚で絵になります。
本丸に入ると猫城主・さんじゅーろーがお出迎え。並みの猫なら、人に囲まれて撫でられたり写真を撮られたりするのは嫌がるはずですが、城主ともなると堂々としたもので、逃げもせずに撫でられ、毛づくろいをし、周囲のカメラに視線を投げかけ、ネズミのおもちゃに襲いかかる猛々しさを見せることも忘れません。和歌山電鐵の故 たま駅長にも劣らぬ大物ぶりでした。
猫城主さまが城内巡回に出掛けたので、いよいよ天守へ。二層二階の小さな天守ながら、正面中央の唐破風出格子窓は装飾性と実戦性(石落とし)を兼ね備え、一階の囲炉裏や装束の間、二階の御社壇など見どころも多く、さすがは現存天守です。
続いて、天守の下をまわって特別公開されている二重櫓へ。天守と同じ二層二階ながら二回りほど小さく、内部には昔の瓦や鯱、修復工事の機材、パネルなどが展示されています。二階に上ることもでき、二階からは通常見られない角度からの天守も見ることができました。
いったん二の丸に戻り、本丸の石垣と土塀を見上げながら搦手門の脇を進んで行くと、先ほどまでいた二重櫓が岩盤の上に築かれた石垣に建っているのを発見。知識としては知っていましたが、実際に目の当たりにするとなかなかインパクトのある光景です。後曲輪の石垣も見ごたえがありますし、ここまででも既に充分過ぎるほどに満足していますが、備中松山城はまだまだこれで終わりではありません。水の手門跡を抜けて、中世の山城に向かいます。
(続きます)
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