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くろもり

慶長出羽合戦を疑似体験 (2013/12/07 訪問)

山形駅から徒歩で長谷堂城へ。片道7kmで2時間弱と少々距離はあったのですが、山形駅は山形城に近いので(江戸時代だと山形城三ノ丸に位置)、山形城主・最上氏視点での山形城から長谷堂城救援の行軍を体験できました。

長谷堂城に着いたので、今度は上杉軍視点に切り替えます。長谷堂城は、山形平野の南にポコンと突き出た小山で、愛知県の小牧山城くらいの規模に見えました。「こんな小山の城、落とすのに造作ないのでは?」と思って登城しましたが、実際に城山の縄張を歩いてみるとその考えははっきり打ち砕かれました。とにかく、帯曲輪・曲輪の数がべらぼうに多く、虎口で敵を防ぐ・帯曲輪から攻撃・その上の帯曲輪から攻撃・そのさらに上の帯曲輪からも攻撃可のような構造になっている所が至所にあり、こんな構造の城を力攻めで落としても、被害甚大で山形城の攻略に影響が出ていただろうなと恐怖しました。

城下に下りて、上杉軍の上泉泰綱(かみいずみ やすつな・通称 主水)公の討死の地へ。泰綱公は「剣聖」と呼ばれた上泉信綱公の孫と言われている方で、慶長出羽合戦の直前に上杉家に召し抱えられましたが、ここで討死したそうです。現在は一帯に田園が広がっているので、todo94さんのコメントにあるようにこの辺りは湿地だったのかもしれません。湿地に水堀にあの縄張のやべー城山に、山形城の最上軍と伊達氏の援軍の後詰まであると、直江兼続公も容易には手が出せなかったのかと思いました。

この後、山形城へ徒歩で向かうのですが、今度は上杉軍が長谷堂城を攻め落とした設定に切り替えます。山形城まで約2時間、甲冑具足をつけていても半日あれば、城下に殺到できる距離です。山形城に着いて、改めて長谷堂城主・志村光安公と鮭延秀綱公と城兵達が見せた武者振りに心から天晴れと思いました。長谷堂城が落ちていたら、最上氏は山形城を追われることになっていたと思います。

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ひろべえ

阿波九城の一つ (2018/04/01 訪問)

阿波国最南端の阿波九城の一つ、海部城へ。登城口がわからず小学校に行ったり、中学校に行ったりと右往左往しました。登城口は津波避難口を兼ねていました。未整備ながら小曲輪・石垣と予想以上の山城でした。整備して欲しいと願っていたましたが、有志の方々が整備にあたったいう内容が最近地元の徳島新聞で報じられていました。高速道路と連結していないので交通の便が悪いのですが、もう一度再訪してみたいと思います。

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ひろべえ

阿波九城の一つ (2017/05/27 訪問)

うだつの町並みで有名な脇町。阿波国のちょうど中間地点とも言える要衝の地。脇城とはどんな城か興味を持って攻城。案内がわかりにくいため、少し道に迷いました。何とか城址南麓の秋葉神社に到着。ここからの攻城だと車の置き場所に困りますが、短期駐車と腹を括って山道へ。山道を進んでいくので山城の雰囲気は味わえると思います。進んでいくと「脇城跡」の看板へ。一の郭と二の郭を分ける堀切の規模が竹藪だらけで未整備ですが、かなり大規模でした。一の郭は荒れ地で藪だらけですが無理やり入っていくと小規模な横堀あり。井戸を捜索しましたが見つからなかったので、たまたま二の郭付近でたけのこを取っていた方に聞くと平たいところ(一の郭の北側)にあるということで再捜索。藪の中からそれは突然現れました。囲っていないので、気をつける必要あり。たけのこ堀りの方に伺うと、私有地だから整備されていないとのこと。城跡として整備されたらもっと再評価されると思います。

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散歩 (2019/01/19 訪問)

 早朝、ホテルから散歩がてら行って来ました。遺構がもう少し残っていれば海に面した見ごたえのある城址だったのでしょうか。

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石垣の曲線美 (2019/01/18 訪問)

 沖縄の城壁に特徴でもある曲線が美しい城跡です。

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かっこいい城址 (2019/01/18 訪問)

 外からの見た目だけで言えば沖縄県の中では最もかっこいい城址ではないでしょうか。眺望もすばらしい。東の曲輪などを合わせた縄張りがどうなっていたのか、気になるところです。

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じんじゃー

中山道を抑える境目の城 (2019/01/12 訪問)

妻籠宿の北にあり、城跡東南側の旧中山道が重なるY字路部分に登城口がある。
立派な登山道がついているのですぐに城域まで到達できる。出城部分の堀切を通り、谷戸部分に作られた土橋を越えると二郭と三郭の間の大堀切に出る。右側が三郭だが笹薮であまりよくわからない。左に進むと二郭、堀切・土橋を越えると小さな段郭があり主郭へと通じている。主郭は土塁で囲まれていたようだが今ではかなり低くなってしまっている、出入り口にあたる部分が数か所空いている。
徳川秀忠が関ヶ原の戦いの終了の知らせを聞いた城としても有名ですね。

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再訪▪城廻りvol.3 津山城 (1981/03/07 訪問)

津山城の今と昔(昭和56年3月7日訪問、平成30年12月21日再訪)

津山城は春は桜の名所として、秋には紅葉の名所として岡山県内外から多くの観光客が訪れる鶴山公園として今は私たちの憩いの場となっています。

城内も備中櫓などの建造物も復元されたり、発掘調査に基づき少しずつ整備されてきています。

津山市による、昭和63年よりの保存基本計画により、石垣修復や本丸内の民家の撤去などがまず行われました。
さらに平成10年度から20年計画で史跡津山城跡保存整備計画が第1期事業としてスタート。
城内を順次発掘調査し、石垣修理をはじめ、石垣を破壊しそうな樹木や景観を損ねる樹木や地下に埋もれた遺跡を破壊しそうな樹木などの整理。また明治の廃城後に設置された占有物の撤去。虎口整備(往時の通路の復元)。建造物の復元(備中櫓が平成17年に完成し公開)。
と順次整備が続行中で、現在は本丸北側の二の丸一帯が整備中のため立入禁止になっています。

38年前の写真と比べてみると、本丸内の樹木やトイレや土産物店などが撤去されスッキリとしています。
城内各所には、発掘調査時の写真や、当時の絵図面と一緒に解説文のタイルが設置されており、往時の津山城を歩いて回るだけで知ることができるようになっています。

第1期事業が終了したあと、第2期事業がどんなものになっていくのかとても楽しみな津山城です。

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刑部

世界遺産の城 (2018/05/03 訪問)

前夜、人が少ない時に訪問と次日に天守の上まで行きましたが 昔みたいに自由に見れない規制が多いのが残念! 蟻の行列で良く見られない。
昭和の改修から数年後と平成の改修中 そして平成の改修後に今回訪問です。 綺麗過ぎる城は・・・戦国時代の面影がある方が好きですね私は。

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夏の雪だるま

千葉氏の居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県佐倉市と酒々井町にまたがる本佐倉城です。平成29年4月続日本100名城に選ばれています。下総を治めた千葉氏が15世紀後半に築いたとされ、以降、千葉氏の本拠となっています。1590年の北条征伐後、北条方の千葉氏は改易となり廃城、城下に陣屋が置かれましたが、1610年小笠原氏が本佐倉城に入り佐倉藩の藩庁が置かれています。佐倉城が完成すると1616年藩庁は佐倉城へ移転、再び廃城となっています。城は、佐倉市と酒々井町にまたがる将門山に築かれ、城域は内郭群・外郭群の10の郭と衛星状に配した城下町を含む総構えの三重の同心円で構成され東西1km南北2kmの大城郭と言われています。内郭は南側に谷がある丘陵にあり、三方を湿地帯に囲まれた要害であったとされ、外郭は内郭からつながる丘陵に空堀を持つ家臣屋敷が配されたとされます。現在でも、土塁や空堀などが残り、国の史跡となっており、東山馬場に駐車場が整備され、各郭に説明板が立てられています。城跡南側100mにある本佐倉城跡根古谷の館から城地全景が良く見えます。

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夏の雪だるま

土岐氏の城 (2017/09/30 訪問)

千葉県いすみ市の万木城です。築城については不明ですが、15世紀後半には里見三羽ガラスの一将として剛勇をはせた土岐氏が万喜城主と言われます。しかし、1564年第二次国府台合戦で里見氏が北条氏に敗れると、北条氏に従い里見氏から離反。以降、里見氏や上総武田氏から攻撃を受けるようになりますが、剛勇をはせる土岐氏は寡兵ながら撃退しています。土岐氏家臣には、後に徳川将軍剣術指南役となる御子神典膳もおり1589年の里見氏との戦いでは里見軍の関八州に名声が高い豪傑正木大膳時堯と互角に戦ったことから一躍名を馳せたとされます。しかし1590年の北条攻めで、北条方の土岐氏は本多忠勝率いる徳川軍に攻め落とされ、一時、本多忠勝が大多喜城に移る前に居城としたとされますが、1591年、廃城となっています。城は、東・西・北の三方が夷隅川の急峻な崖に囲まれた要害の地の標高50mの山頂部分に一の郭、二の郭、三の郭が配された東西500m南北800mの規模の山城です。現在、城は万木城跡公園となっていて山頂に上る道路は車1台分の幅しかないため信号機の交互通行となっていて、山頂の三の郭に駐車場、妙見台と呼ばれる見張台跡に天守閣風の展望塔が整備され、二の郭に井戸跡があり、その先の台地の杉林が一の郭とされます。

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カルビン

次期100名城あれば選ばれなければおかしい場所 (2014/12/06 訪問)

静岡県のお城巡りしてきた際に二俣スタートで東京方面に戻りながら5番目に立ち寄ったのが丸子城。
静岡県にある武田式の名城のうちの1ヶ所で、個人的には高天神や諏訪原に劣らないお城だと思ってます。

誓願寺の駐車場に車を停めさせて頂き、そこから登山道へ。

遺構が素晴らしいのは噂に聞いていたものの、その急斜面はキイテナイヨ~(涙)

登り序盤はそのキツさに、途中からは急角度と道の細さの怖さに大変でした。。。足が疲労と怖さでリアルに震えましたから・・・個人的に山城攻略した中では岩殿城以上に怖かったのがここ丸子城の誓願寺側からの登山道でした(怖)


やっと登り切ったところはいきなり主郭附近・・・やはりこっちは搦手だったか(汗)
そこから緩やかに下りながらダイナミックな遺構だらけの山城を見学。。。やはり一番すごかったのは複数あった三日月堀・土塁でした。。。よくこんな高い所に設けたもんですよw

逆側から登れば凄く効率良く見学できると思います。。。自分は車を停めた方向の都合で戻る際にまた登って再度恐怖の急坂を下りる事になりましたが(;Д;)


ちなみに誓願寺には片桐且元と横山城城主(名前が検索しても引っかからずに不明)のお墓があります。
片桐且元は徳川と豊臣の手切れの原因となった方広寺大仏鐘銘事件弁明の際にここに滞在されたとされております。

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夏の雪だるま

本多忠勝の城 (2017/09/30 訪問)

千葉県大多喜町の大多喜城です。H29年4月に続日本100名城に選ばれています。1521年上総武田氏の一族武田信清が築いたと伝えられ、武田一族の内紛により1544年安房里見氏の武将正木氏に攻められ落城、以降、正木氏が城主となっています。1578年里見氏当主義弘が亡くなると、正木氏は反乱を起こすも、義弘の跡を継いだ里見義頼の攻撃を受け城内の内通者により正木氏は殺害され、城は義頼の次男時堯が城主となり支配下に置かれます。1590年豊臣秀吉の北条攻めの際、里見氏は秀吉の許しもえず、三浦半島へ攻め込んだため秀吉の怒りを買い上総を没収され、大多喜城には徳川家臣の本多忠勝が入城。大多喜藩10万石が成立し三層四階の天守閣を持つ近代城郭に改築、城下町も整備したとされます。1617年阿部氏に城主が変わるも1619年相模小田原に転封となり城主がいなくなり城は荒廃。その後1671年阿部氏が1万2千石で城主として入り、その後も、稲垣氏、松平氏など譜代大名が城主となりますが小藩のため城は整備がいきとどかないまま、明治維新を迎えたとされます。城は、夷隅川が屈曲する部分に西から東に張り出す丘陵上に築かれ、西と北側は深い谷に、南側を夷隅川の崖と急流で守られ、東側に向かって本丸、二の丸、三の丸、堀を配した東西500m南北800mの規模の平山城とされます。本丸には三層四階の天守閣があったとされますが、1843年焼失し、その後、神殿と称する建物が建てられたとされますが、定かではありません。明治維新により城は取り壊され、本丸は削平された伝えられます。現在城跡は県史跡に指定され、本丸跡に天守が再建され博物館となっています。遺構としては、本丸に土塁、二の丸跡の大多喜高校に薬医門・日本一と言われる大井戸が残っています。また、大手門跡は駅裏の山側ですが、大多喜駅前に観光用大手門があり、県道172号との角に、城から数えて4番目の門で城に向かう最初の門である馬に乗った武士が通過できる大きな冠木門跡の石碑が建つ四ツ門公園があります。

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夏の雪だるま

上総武田氏の居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県木更津市の真里谷城です。1456年上杉政憲が支配する上総国へ敵対する古河公方足利成氏の命を受けた武田氏が築いたとされます。ここを拠点に武田氏は周辺の地域へ進出、佐貫城・久留里城・大多喜城の支城を築き上総支配を進めていきます。上総武田氏五代信保が1534年亡くなると、庶子の信隆が当主となったことから、嫡子・信応との間で跡目争いが起こり武田氏は衰退する中、支城を里見氏などに奪われ、武田氏は北条氏の支配下となってゆき、1590年秀吉の北条征伐により、武田氏は滅亡、廃城になったとされます。城は、街道や集落、耕作地なども周辺にない山中にあるため、攻めにくく、房総半島の中央にあるため各地に進出しやすいという利点があり、千畳敷と呼ばれる主郭、二の郭、三の郭、四の郭を配し、東西400m、南北700m程の規模とされ、遺構としては、土塁や堀切などが残っています。
現在城跡は、城山神社や千畳敷のある主郭などが木更津市立少年自然の家キャンプ場として利用され、7月から9月のキャンプ場営業日は開放されていますが、それ以外の日はキャンプ場へ入る道路のゲートが閉ざされ入場禁止となります。

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夏の雪だるま

関東攻防の城 (2017/09/29 訪問)

千葉県松戸市の小金城です。千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏により1537年築かれたとされ、関東に侵攻した上杉謙信に備え拡張が行われ、1566年上杉方に攻撃・包囲を受けるも籠城、守り切ったとされます。1590年の豊臣秀吉の北条征伐では、北条氏方であったため浅野長政らに攻められ開城。その後、徳川家康の関東移封に伴い、家康五男武田信吉が入城、信吉は1592年下総国佐倉城主に転封、小金城は1593年廃城となっています。城は、標高20m程の丘陵地帯に築かれ、古利根川・中川・荒川流域の低地帯を望み関東平野を一望できる、東西800m南北700mの規模とされ、北に金杉口、南に大谷口、東に達摩口、西に横須賀口など12の郭を備えて、東西に家臣屋敷、南北に寺社を配し当時の下総国北西部において最大規模を誇った平山城とされます。江戸川の水運により城下は市が立ち並び、周辺の本土寺や東漸寺が領主高城氏の保護を受けて城下は栄えていたとされます。現在城跡は、ほぼ全域が住宅地に開発され、城の北側金杉口が大谷口歴史公園として障子堀・畝堀・土塁などの遺構が、公園東側の達磨口跡が残るのみで、本丸跡の北小金住宅団地付近の交差点角に本丸城址碑が置かれています。公園の障子堀などはほとんど埋まってしまっていて残念な状態となっています。城跡は、流鉄流山線小金城址駅と常磐線北小金駅の北側に広がる丘陵地にあり、公園に駐車場がないため北小金駅北口パーキングに駐車し城域を歩くと、丘陵住宅地特有の坂が多く、狭い曲がりや行き止まりが多く迷路のような道路が続き、要害であったことを感じさせる地形となっています。

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夏の雪だるま

戦国期の里見氏居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県富津市の佐貫城です。15世紀中頃総州長尾氏が築いたとも上総武田氏が築いたとも伝えられますが、上総武田氏の城として武田氏家臣の加藤氏が城代を務めていた1537年、里見氏の攻撃により里見氏の城となります。以降、北条氏と里見氏の攻防の場となり、数度、北条氏の城となったり里見氏が奪還したりしますが、1563年里見義弘が北条氏より奪還以降、里見義弘の本拠となっています。1590年秀吉の北条征伐で里見氏が上総を減封となると、、関東を与えられた徳川家康の家臣である内藤家長が入城、以降、数々の城主が入れ替わったり、廃藩廃城となったりしましたが、1688年五代将軍徳川綱吉の側用人として重用された柳沢吉保が一万五千石で立藩、1694年柳沢氏が武蔵川越へ転封となると再度廃城。1710年阿部氏が三河刈谷から移封され、佐貫城を再興し、明治維新まで続いています。城は、北上川と染川に挟まれた丘陵に深い谷が入り込んだ地形となっており、丘陵の尾根に本丸、二の丸、三の丸を配し、本丸と二の丸の間に大きな空堀と、幅4m高さ3.3m長さ10mの土橋が架けられ、城は東西400m南北500mの規模であり、佐貫は古くから複数の街道が交わる交通の要衝であり港町があったことから経済・交通の中心となっていたとされます。遺構としては、土塁や空堀、井戸等が残り、また、上総国では珍しい大手櫓門跡の石垣も残っています。佐貫中学を過ぎ県道を東に進むとカーブ付近に案内板が立ち、大手門跡へ上がる階段があり、大手櫓門跡の見所の石垣があります。

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夏の雪だるま

北条・里見氏の攻防の城 (2017/09/30 訪問)

千葉県君津市の久留里城です。城は室町時代に真里谷城を本拠とした上総武田氏により1456年築かれたとされます。戦国時代に入ると武田氏の内紛により弱体化した機に乗じて里見氏が久留里城を攻略。その後、1564年国府台の戦いで里見氏は北条氏に敗れ一時久留里城を奪われるも、二年後里見氏が奪還しています。1590年の豊臣秀吉の北条征伐時、里見氏は秀吉の命に従わず怒りを買い上総を没収され、久留里城は松平氏が3万石で城主となり、城下町を整備しています。1601年松平氏に替わり土屋氏が2万石で入城、土屋氏に仕えていた新井白石も青年期久留里で過ごしたとされます。しかし1679年土屋氏は改易となり一時廃城となりますが、1742年黒田氏が3万石で入城、3年の歳月をかけ城を再建し、明治維新まで続いています。城は、標高145mの山頂本丸に二層二階建の天守が建ち、本丸の周囲に弥陀曲輪・波多野曲輪・天神曲輪が配され、本丸の西側の一段下がった尾根に二の丸・薬師曲輪・波多野曲輪、二の丸から北西に続く尾根に幅10m程の空堀と郭が幾重にも設けられ、山麓の御屋敷と呼ばれる三の丸で構成され、東西700m南北500mの規模とされます。現在城は、本丸に模擬天守が建てられ展望台として利用され、二の丸に資料館が建ち、土塁や堀切、井戸などが残っていますが、三の丸は水田などになっています。

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夏の雪だるま

里見氏の居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県館山市の館山城です。1580年里見義頼により築城されています。1614年里見氏は大久保忠隣事件で嫌疑をかけられ改易となり館山城も廃城・破却されています。その後1781年稲葉氏が館山藩主となるも城を再建することなく、城の麓に陣屋を構えたとされます。城は、標高75mの城山山頂に天守閣を持つ本丸、二の丸の外、複数の郭を配し、麓の総構に、飛び地の鹿島領民が造ったとされる鹿島堀が廻らされていたとされます。現在城跡は、里見氏改易後破却され、さらに、本丸・二の丸が戦時中高射砲陣地を築くため大きく削られたため、遺構はほとんど残っておらず、現在、本丸跡に模擬天守が建てられ博物館として利用され、有名な架空の物語の南総里見八犬伝関係が展示されています。里見氏関係の歴史は、麓の市立博物館に展示されています。また改易後、伯耆国倉吉に配流となった里見氏は倉吉で死去、このとき殉死した八人の忠臣の遺骨が密かに持ち帰られ葬られた、八遺臣の墓が模擬天守から南側の義康御殿跡の梅園の先の城山中腹にあり、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」はこの八人をモデルにしたと言われています。その先の麓には、館山藩陣屋跡に古く小さな神社が祭られ、その先の城山の南東の慈恩院門前に鹿島堀が一部残って言います。

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夏の雪だるま

北条氏関東の重要拠点 (2017/09/29 訪問)

千葉県野田市の関宿城です。室町時代に利根川と江戸川の分岐点の関東の水運を押さえる地に古河公方家臣簗田氏により築かれたとされ、戦国時代に入ると関東の制圧を目指す北条氏康より「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評された関東中心部における重要拠点と言われます。簗田氏が守る関宿城を1565年から北条氏は再三攻撃、しかし、簗田氏は城の堅固な守りや上杉謙信などと結ぶことで抵抗、何度か撃退しています。しかし、1574年3万余の北条の軍勢の攻撃を受け籠城の末、矢玉・兵糧が乏しくなり城を開け渡します。その後は、北条方の城となりますが、1590年豊臣秀吉の北条攻めにより無血開城したとされます。北条氏滅亡後、関東に徳川家康が入ると関宿城には松平康元が2万石で入城。以降、譜代大名が次々と城主となり1705年久世氏が城主となると明治維新まで続いています。城は、利根川・江戸川・逆川に挟まれた微高地に築かれ、北・東・西が河川で守られ、本丸、二の丸、三の丸、発端曲輪、天神曲輪などを配し、河川以外に各曲輪に土塁・築地塀、水堀を回し、武家屋敷などが配された外郭部も水堀が回された堅牢な守りの東西800m南北1300の規模の平城とされます。現在城跡は、河川改修により半分以上が河川や堤防の下となり、その他は市街化により、遺構はほとんど残っておらず、河川改修後の河川分岐点に関宿城博物館が建てられ、本来の本丸跡に城址碑と、水堀跡に説明板があるのみです。移設された遺構では、本丸御殿の一部が博物館から南1km半の実相寺に、埋門が博物館から南3km半に、大手門が栃木県下野市に、薬医門が茨城県坂東市の逆井城にあります。

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夏の雪だるま

百名城 (2016/08/26 訪問)

千葉県佐倉市の百名城の一つ佐倉城です。戦国時代、下総を領地とし本佐倉城を居城とした千葉氏当主親胤がこの地に1556年築城を命じますが、家臣に造反され自害し築城中止となり、親胤の孫の千葉邦胤の代にも再び築城しようとしましたが、家臣に暗殺されてまたもや工事は中止。その後、千葉氏は小田原征伐時に北条氏に味方したため領地を没収され滅亡。徳川家康が関東を領すると松平忠輝、小笠原吉次、土井利勝が千葉氏の居城であった本佐倉城跡の陣屋に入ったとされますが、1610年家康の命を受けた土井利勝が佐倉城築城を命ぜられ1617年完成させています。その後の城主は入れ替わりが激しく、1746年堀田氏が城主になると明治維新まで続いています。城は、鹿島川右岸丘陵に造られ、西を鹿島川、南を高崎川、北を広大な印旛沼を堀とし、本丸、東側に二の丸、三の丸、西側に出丸、その外多くの曲輪を配し、石垣を使用せず土塁づくりの土から成る城です。本丸には天守閣の代わりに三階櫓があったとされます。明治に入ると日本陸軍の駐屯地が置かれたため建物等が撤去されています。現在は、佐倉城址公園として整備され、寺に移築されていた藥医門が場内に移され、再現された馬出し空濠や土塁などの城址遺構とともに、陸軍駐屯時の軍遺構もあり、また、国立歴史民俗博物館も公園内に建設されています。

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