天正9年(1581年)暮れに武田勝頼は、躑躅ヶ崎館から新府城に本拠を移します。
新府城は甲府盆地の西部に位置した、八ヶ岳の山体崩壊に伴う岩屑流が釜無川と塩川の侵食により形成された七里岩台地上の小山に築かれた連郭式平山城です。
約70mの高さの急崖を城壁に、東西を南流する両河川を天然堀とした要害堅固の地です。釜無川の対岸には、甲斐武田氏初代信義公が眠る願成寺や館跡がある、所縁の地であり、この地が選定されたのも偶然ではないと思います。
武田氏の守護館を踏襲して造営された新城も、織田・徳川軍の侵攻を受け、わずか2ヶ月余りで自落の運命を辿ることになります。新府城退去後、数日で勝頼主従は自決することに。
近年の調査により、城の大手口には門が無かった事が判明したようで、城門が無い状態では籠城の選択がある訳もなく、立ち退くことも致し方ないと思います。
何故、勝頼さんは未完成な新府城への転居を急いだのでしょうね? そんな事を思いながら、悲劇の歴史となった城跡を歩きました。駐車場から、搦手口にまわり、二の曲輪、本丸を目指すと様々な遺構を見つつ、登城を楽しむことが出来ます。甲斐守護名門武田家に相応しい大規模で見所の多い、素敵なお城です。周囲の山々の景観も素晴らしく、きっと満足すると思います!
+ 続きを読む