備中高松城を語るうえで、清水宗治の存在は欠かせない。
西暦1582年。時は戦国。
のちの天下人・羽柴秀吉は西国の大大名毛利氏を討つべく中国地方に侵攻。備中高松城の城主清水宗治と対峙した。
備中高松城は周囲を沼地に囲まれていて、非常に攻めづらい。そこで秀吉の軍師黒田官兵衛は「水攻め」を決断する。足守川を決壊させる一方で、3㎞以上に及ぶ堤防を築いた。そして降雨により、瞬く間にお城は湖に浮かぶ孤島となってしまった。
結局この戦は宗治の切腹をもって決着。毛利氏は織田の軍門に降り、秀吉は「本能寺の変」で討たれた主君信長の敵を討つため、即座にこの地をたった。
宗治は秀吉から、寝返りなど命を保証する話を持ちかけられていたが、これをすべて固辞。毛利氏への忠義を尽くすため、そして領民の命を守るために自らの命を散らした。
私はここに日本人が古くから育んできた「武士道」の精神を感じる。戦国時代は武士同士が時には農民や僧侶なども巻き込んで覇権を争った時代。その争いの多くは己自身ではなく、他の誰かのためであったのではないかと思う。だからこそ強くなれたのだと。
そしてこの精神は、単なる歴史の1ページで終わるものではなく、現代の日本人に脈々と受け継がれている。
時は流れ20世紀。日本による真珠湾攻撃を目の当たりにしたアメリカ兵は、決して民間人を巻き込まぬように、軍事施設のみを攻撃した日本軍の技術の高さとその心に驚き、敵であるにも関わらず今も「リスペクト」している。
その証に、当時真珠湾で亡くなった日本兵の亡骸を、アメリカ人と同様に海に手厚く葬っている。
人が人を想う心に国も時代も関係ないのだ。
備中高松城は今では城址公園となっているが、清水宗治を祀る場所は4つある。
舞を舞い切腹したとされる自刃の地、秀吉が陣を敷いていた石井山に残る供養塔跡、その供養塔を本丸跡に移築した首塚、そして家臣が宗治の遺体を埋めたとされる胴塚。
備中高松城には天守はなく、石垣もない。しかしそこには日本人の魂が静かに眠っている。
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