山形駅から徒歩で長谷堂城へ。片道7kmで2時間弱と少々距離はあったのですが、山形駅は山形城に近いので(江戸時代だと山形城三ノ丸に位置)、山形城主・最上氏視点での山形城から長谷堂城救援の行軍を体験できました。
長谷堂城に着いたので、今度は上杉軍視点に切り替えます。長谷堂城は、山形平野の南にポコンと突き出た小山で、愛知県の小牧山城くらいの規模に見えました。「こんな小山の城、落とすのに造作ないのでは?」と思って登城しましたが、実際に城山の縄張を歩いてみるとその考えははっきり打ち砕かれました。とにかく、帯曲輪・曲輪の数がべらぼうに多く、虎口で敵を防ぐ・帯曲輪から攻撃・その上の帯曲輪から攻撃・そのさらに上の帯曲輪からも攻撃可のような構造になっている所が至所にあり、こんな構造の城を力攻めで落としても、被害甚大で山形城の攻略に影響が出ていただろうなと恐怖しました。
城下に下りて、上杉軍の上泉泰綱(かみいずみ やすつな・通称 主水)公の討死の地へ。泰綱公は「剣聖」と呼ばれた上泉信綱公の孫と言われている方で、慶長出羽合戦の直前に上杉家に召し抱えられましたが、ここで討死したそうです。現在は一帯に田園が広がっているので、todo94さんのコメントにあるようにこの辺りは湿地だったのかもしれません。湿地に水堀にあの縄張のやべー城山に、山形城の最上軍と伊達氏の援軍の後詰まであると、直江兼続公も容易には手が出せなかったのかと思いました。
この後、山形城へ徒歩で向かうのですが、今度は上杉軍が長谷堂城を攻め落とした設定に切り替えます。山形城まで約2時間、甲冑具足をつけていても半日あれば、城下に殺到できる距離です。山形城に着いて、改めて長谷堂城主・志村光安公と鮭延秀綱公と城兵達が見せた武者振りに心から天晴れと思いました。長谷堂城が落ちていたら、最上氏は山形城を追われることになっていたと思います。
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