茨城県水戸市の百名城の一つ徳川御三家水戸藩の居城水戸城です。鎌倉時代馬場氏が築城、以来約200年馬場氏の居城となっていましたが、室町時代に江戸氏が攻略、戦国時代に入り江戸氏が戦国大名化するにつれ城も規模が拡大、しかし、小田原の北条征伐後、佐竹氏の常陸支配が認められると1590年佐竹氏が江戸氏を滅ぼし入城、佐竹氏は本拠を太田城から水戸城へ移し大改修を行ったとされます。しかし、関ヶ原の戦いにより佐竹氏は秋田へ国替えとなり、城は徳川家康の五男信吉に与えられますが亡くなり、10男頼宣が城主となりますが駿府へ転封、のちに紀州和歌山へ移り紀州徳川家となります。水戸城には11男頼房が城主となり再び大改修を行い徳川御三家のひとつ水戸藩の居城として明治維新まで続いています。城は北を那珂川、南を千波湖に挟まれた丘陵に築かれ本丸、東二の丸、二の丸、三の丸が配され、天守はなく二ノ丸に御三階櫓が建てられ天守閣の代わりとなっていたとされます。石垣を用いず土塁で造られ御三家の中では質素なつくりとなっています。現在城跡は水戸市の中心部、水戸駅の北側丘陵の文教地区にあり、各種学校が立ち並び本丸跡は県立水戸第一高等学校となっており、水戸城唯一の遺構薬医門も本丸堀跡を走るJR水郡線の線路に掛かる橋を渡り第一高等学校敷地内の校門を入ったところにあります。また、二の丸にある第二中学校校門などの校舎や校門もお城風に造られ、三の丸に藩校の弘道館が立っています。城の遺構はあまり残っていませんが、現在鉄道や道路となっている巨大な堀跡がかつての城を偲ばせます。
+ 続きを読む