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エグ1394

名古屋城 (2019/08/17 訪問)

名古屋城へ行ってきました。
名古屋城は徳川家康が豊臣氏に対する最終防衛拠点として天下普請によって築城させた城です。初代城主は徳川義直で、徳川御三家のひとつである尾張徳川家17代の居城として利用されました。伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われているように、古くから名古屋のシンボルとして扱われてきました。天守台の石垣は加藤清正が担当したといわれています。大天守に上げられた金のシャチホコは築城当初のものではありませんが、同じ方法で復元製造された金板張りの木造鯱で、現在は名古屋城でしか見ることができません。また、築城当時は最上層のみ銅瓦でしたが、1755年(宝暦5年)に行われた修復工事の際にすべて銅瓦拭きとなっています。この緑青の屋根も名古屋城の大きな特徴です。2009年(平成21年)から本丸御殿を復元しており、現在公開中です。

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彦根城 (2019/08/14 訪問)

彦根城へ行ってきました。
彦根城は徳川四天王のひとりである井伊直政の子、直継によって築かれた城です。以降、多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城として用いられました。現存12天守のひとつであり、天守は国宝です。幕末に起きた「桜田門外の変」で暗殺された大老、井伊直弼は藩主となるまでをこの城下で過ごしており、当時の屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」としていまも現存しています。JR彦根駅からも徒歩でいけるほど近く、訪問しやすい現存天守のひとつであり、また人気キャラ「ひこにゃん」でも有名な城です。

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小谷城 (2019/08/14 訪問)

小谷城へ行ってきました。
小谷城は浅井氏の居城であり、日本五大山城のひとつに数えられる堅固な山城として知られています。織田信長に攻められ、浅井氏が滅亡した最後の城で、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城です。その後、小谷城は羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は長浜城をあらたに築いたため、小谷城は廃城となりました。その際、資材の大半は長浜城築城のために使われたといわれています。現在は国の史跡に指定されており、土塁や石垣などの遺構を見ることができます。

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若狭国吉城 (2019/08/14 訪問)

若狭国吉城へ行ってきました。
国吉城は若狭武田氏の重臣である粟屋勝久の居城として知られています。武田氏の内部分裂、衰退後は越前の朝倉義景によって数度にわたり攻められますが、籠城戦で撃退しています。その後、1570年(元亀元年)の織田信長による越前攻めの際には、信長はこの城を本陣としました。その後、木村定光、浅野長吉、京極高次が支配しましたが、「元和の一国一城令」で廃城となりました。現在、城址は整備されており、曲輪跡や石垣などの遺構を見ることができます。また、佐柿奉行所の跡に若狭国吉城歴史資料館が建てられており、山麓の徳賞寺には栗屋勝久の墓といわれる五輪塔があります。

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清洲城 (2019/08/11 訪問)

清洲城へ行ってきました。
清洲城は織田信長の居城として知られ、信長はこの城から「桶狭間の戦い」に出陣しています。信長の後継者を決める、いわゆる「清洲会議」が行われた城でもあり、歴史的にも大きな役割をになった城です。「関ケ原の戦い」の際には福島正則の居城となっており、東軍の後方拠点として利用されました。江戸時代に入って、徳川家康により清須から名古屋への遷府(清洲越し)が指令されると、清須城は名古屋城築城のための資材として解体されました。なかでも名古屋城の西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」と呼ばれています。現在、城跡の一部が「清洲公園」と「清洲古城跡公園」として整備されており、信長と濃姫の銅像が建てられています。また、1989年(平成元年)には町制100周年を記念して、模擬天守が築かれました。この模擬天守は東海道新幹線の車窓から見ることができます。

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吉田城 (2019/08/05 訪問)

吉田城へ行ってきました。
吉田城は戦国時代初期において三河支配の重要拠点のひとつとして、松平氏と今川氏の間で争奪戦が繰り広げられた城です。江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしました。かつては酒井忠次や池田輝政が城主を務めたこともあります。また、歌川広重による浮世絵木版画『東海道五十三次』にも描かれています。現在は豊橋公園として整備されており、本丸には隅櫓(鉄櫓)が模擬再建されています。吉田城の石垣にはさまざまな大名家の家紋などが刻まれているものがあり、土佐藩の印などはっきり確認することができますが、これは天下普請で築かれた名古屋城築城の際に余った石垣を転用したことによると考えられます。また、城全体の敷地は名古屋城よりも広いです。

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浜松城 (2019/08/04 訪問)

浜松城へ行ってきました。
浜松城は徳川家康の居城として知られ、家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」は信玄がこの城を無視したことがきっかけになっています。また江戸時代には歴代城主の多くが幕府の重役に出世したことから「出世城」と呼ばれています。現在は浜松城公園として整備されており、野趣あふれる野面積みの石垣を見ることができます。また、石垣の中からハート型の石を探すのがちょっとしたブームになっています。1958年(昭和33年)に再建された復興天守には家康が19歳のときに着用したといわれる金陀美具足が展示されており、最上階からは北に三方ヶ原古戦場、南に遠州灘、西に浜名湖、晴れた日には東に富士山を臨むことができます。さらに2014年(平成26年)には天守門が復元整備されました。

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掛川城 (2019/08/04 訪問)

掛川城へ行ってきました。
掛川城は山内一豊の居城として知られています。「関ケ原の戦い」の際に一豊が徳川家康に掛川城の提供を申し出た逸話は司馬遼太郎の『功名が辻』にも登場します。明治以降は、廃城令によってほとんどの建物が撤去されましたが、1994年(平成6年)に天守が再建されました。この天守は日本初の木造復元天守です。重要文化財にも指定されている二の丸御殿は二条城などと並んで全国でも数少ない完存御殿建築遺構です。

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妻木城 (2019/07/21 訪問)

妻木城へ行ってきました。
妻木城は土岐氏の一族である土岐明智氏の居城です。戦国時代に入ると土岐明智氏の一族である妻木氏の居城となりました。妻木氏は「関ケ原の戦い」で東軍に味方し、その戦功により妻木一帯を領することになります。現在城址は建造物こそ残ってないものの、石垣や曲輪、土塁等の遺構を見ることができます。さらに妻木城の城門が、麓にある妻木氏の菩提寺、崇禅寺山門として移築され現存しています。また妻木城主は代々と陶器の生産を奨励し、織部焼、志野焼など、現在の美濃焼の基礎がつくった領主として知られています。

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白鷹城 (2017/07/14 訪問)

白鷹城へ行ってきました。
明知城は日本三大山城に数えられる岩村城の城主、遠山景朝の子である遠山景重の居城として築城されました。この城も可児市にある明智長山城と同様、明智光秀生誕の城といわれていますが定かではありません。美濃と信濃の国境界に位置するため、織田氏と武田氏の間で争奪戦が繰り広げられました。武田信玄の家臣・秋山信友や、織田信長の嫡男である織田信忠などによって制圧されています。「関ケ原の戦い」の際に遠山利景によって平定され、そのまま利景が城主となりました。1615年(元和元年)閏6月の一国一城令によって明智城は廃城となり、その後は山麓に築いた明知陣屋で、明治維新による廃藩置県に至るまで、遠山氏がこの地を治めました。『遠山の金さん』のモデルとなった江戸町奉行・遠山景元(金四郎)は子孫にあたります。

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二本松城 (2019/06/20 訪問)

二本松城へ行ってきました。
二本松城は二本松氏(畠山氏)の居城でしたが、伊達政宗によって攻め落とされています。政宗は片倉景綱、次に伊達成実といった有力家臣を城代としていました。豊臣秀吉による「奥州仕置」以降は蒲生氏郷や上杉景勝が会津若松城に入城し、二本松城はその支城として城代が置かれました。江戸時代には丹羽長秀の孫にあたる光重が入城し、明治維新まで二本松藩主丹羽氏の居城となりました。現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、山上の本丸には天守台が再建されています。また麓に復元された箕輪門近くには幕末の戊辰戦争でふるさとを守るために若い命を散らした「二本松少年隊」の群像があります。

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白石城 (2019/06/20 訪問)

白石城へ行ってきました。
白石城は蒲生氏郷が会津若松城の支城として築いた城ですが、伊達政宗の右腕であった片倉小十郎景綱の居城として知られています。一国一城令が敷かれる中、特例として認められた数少ない城のひとつです。「大櫓」と呼称された天守に相当する三階櫓は明治初頭の廃城令によって壊されましたが、1995年(平成7年)に当時の姿をほぼ忠実に復元されました。戦後の木造復元天守としては高さ、広さとも日本最大級を誇ります。

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白河小峰城 (2019/06/19 訪問)

白河小峰城へ行ってきました。
白河小峰城は日本100名城のひとつで、東北では珍しい総石垣造りの城です。盛岡城、会津若松城とともに東北三名城のひとつにも数えられています。天守相当の御三階櫓は戊辰戦争の際に焼失しましたが、1991年(平成3年)に復元されました。この御三階櫓は数少ない木造復元天守のひとつで、JR白河駅のホームからもよく見えます。

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会津若松城 (2019/06/19 訪問)

会津若松城へ行ってきました。
会津若松城は蒲生氏郷や上杉景勝など著名な大名が城主をつとめた城です。1643年(寛永20年)に保科正之が入封して以降は明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城として用いられ、幕末の戊辰戦争の際には会津戦争の舞台となりました。城址内には会津藩士である西郷頼母、秋月悌次郎らの石碑や銅像があります。現在の天守は1965年(昭和40年)に外観復元されたものですが、さらに2011年(平成23年)に黒瓦を当時と同じ赤瓦に復元しました。また、天守にあるシャチホコは瞳には2カラットのダイヤモンドが埋め込まれています。なお地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれています。

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会津さざえ堂 (2019/06/19 訪問)

会津さざえ堂へ行ってきました。
会津さざえ堂は寛政8年(1796)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます。(重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」)当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。 また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。

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大垣城 (2019/05/26 訪問)

大垣城へ行ってきました。
大垣城は「関ケ原の戦い」の際に石田三成らが入城して西軍の根拠地となった城です。その天守は戦前に国宝(旧国宝)に指定されていましたが、1945年(昭和20年)の大垣空襲により焼失しました。現在ある天守は1959年(昭和34年)に外観復元されたもので、中は「関ケ原の戦い」についての資料館になっています。

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岐阜城 (2019/05/26 訪問)

岐阜城へ行ってきました。
金華山(きんかざん)山頂に位置し、1201年に鎌倉幕府執事二階堂行政により初めて砦が築かれたといわれています。岩山の上にそびえる岐阜城は、難攻不落の城としても知られ『美濃を制すものは天下を制す』と言われるほどでした。戦国時代には小説「国盗り物語」の主人公である斎藤道三の居城でもありました。その後、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略し、城主となりました。信長は「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。
天正4年(1576年)に岐阜城を息子信忠に譲るまでの間、「天下布武」の朱印を用いて天下統一の志をかかげ、城下町の復興に力を注ぎました。楽市楽座の保護など当時としては斬新な政策により岐阜城下は大変な賑わいでした。
1600年、関ヶ原合戦の前哨戦の際、信長の孫 秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城し、天守閣・櫓等は加納城に移されました。
現在の城は、昭和31年に復興され、鉄筋コンクリート造り3層4階構造で、岐阜市のシンボルとなっています。城内は史料展示室、楼上は展望台として多くの人に親しまれています。
日没~夜11時まで岐阜城はライトアップされ暗闇の中にその姿が浮かび上がります。

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美濃金山城 (2019/05/19 訪問)

美濃金山城へ行ってきました。
美濃金山城は1537年(天文6年)、斎藤正義が「烏峰城」として築城したのが最初です。その後、織田信長が森可成にこの城を与えた際に「金山城」と改名しました。信長とともに本能寺で討たれた森蘭丸はこの城で生誕しています。安土城の天守とほぼ同時期に建てられたとみられる複合式層塔型2重2階の天守がありましたが、「関ケ原の戦い」直後の1601年(慶長6年)に破城されました。遺構の保存状態も良く、山裾にある公園「蘭丸ふる里の森」からは遊歩道が整備されています。

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岩村城 (2019/05/12 訪問)

岩村城へいってきました。
岩村城は日本三大山城のひとつに数えられる城で、その本丸はもっとも高い海抜717mに位置していました。織田信長の叔母にあたり、絶世の美女だったと伝わる「おつやの方」が女城主として守っていたことでも知られます。岩村城は織田氏と武田氏との境界にある城であったため、たびたび戦火に巻き込まれた城でもあります。遺構の保存状態は良く、現在も石垣や井戸を見ることができます。1990年(平成2年)に表御門や太鼓櫓が復元されました。

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お土産屋 福岡城 (2019/05/12 訪問)

中津川のお土産屋 福岡城へいってきました。

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