ここのお寺さんの駐車場は城址見学も可能です。お寺さんに感謝しながら本堂の左側より登れば10分程で主郭部に行けます。
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2019/04/14 17:27
お寺の裏奥にある城址 (2019/04/14 訪問)
ここのお寺さんの駐車場は城址見学も可能です。お寺さんに感謝しながら本堂の左側より登れば10分程で主郭部に行けます。
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2019/04/14 17:22
赤木城と丸山千枚田 (2019/04/14 訪問)
赤木城と丸山千枚田は4km程しか離れていないので両方見学がお勧めです
続100名城スタンプ設置場所の紀和鉱山資料館内には紀和鉱山についての詳細な展示がありますが、最初に赤木城の展示施設もあります。
築城者である藤堂高虎は天正の北山一揆(北山征伐)で地元の一揆を鎮圧した側なのに加え、江戸時代以降の色々な評価のせいで戦国武将のなかではファンが少なめの方なので、どちらかというと地元の心証が良くないのかもしれません。施設に展示してあった藤堂高虎の楽しいフォロー記事を読みながらしみじみ感じました。
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2019/04/14 17:18
細い道をひたすら行く城址 (2019/04/14 訪問)
とにかく細い道を車で行きます駐車は浄水場の前に止められますので安心して進んでください ただし、大きい車は厳しいかも城址入口は浄水場からすぐです。
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2019/04/14 17:04
2019/04/14 16:37
桜咲くお寺が城址 (2019/04/14 訪問)
お寺さんの駐車場をお借りして訪問、お寺の周りは土塁と空堀がしっかり遺っています。駐車場は空堀を土橋で渡ります 細いですので気をつけてください。
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2019/04/14 15:51
【平成31年】平成最後のお城! 小田原城🏯 (2019/04/14 訪問)
遺構度 ★★★☆☆ 復元度 ★★★★★
施設充実度 ★★★★★ 楽しさ度 ★★★★★
3度目になる小田原城に行ってきました!
今回は天守や櫓、櫓門目的というより総構目的で行きました!
総構目的とはいえ櫓や櫓門を抜けて本丸に向かうと桜に染まった天守が見えてきてそれはもう圧巻です!
満開の時期に行ったらもっと綺麗だったんだろうなと想像しただけで心が落ち着きます!(´∀`*)
やっぱりお城と桜は最強のコンビですね!(≧∇≦)
天守の中も展示物が多く、シアターもあるので何回見ても飽きません!
また今年は小田原の開帳記念の為イベントをやっています!
センゴク権兵衛とのコラボチケットがあり、コラボチケットを購入すると缶バッチが貰えます!
少し値段は高くなるもののお得感があります!
センゴク権兵衛のファンは必見ですね!
量は先着順で1059個なので欲しい人はお早めに!
そして今回の目的である総構を見に行きました!
総構は全長9kmもあります!
見れるスポットは何個かありますが僕はその中で稲荷森に行きました!
稲荷森に行く途中東堀や西堀などがあり思っていた以上に立派で感動しました!
稲荷森の総構もすごく相当な深さがありました!
兵の気持ちになると登る気が無くなるくらいの深さです!(-.-;)y-~~~
皆さんは本丸の天守や櫓、櫓門の方に行きがちだと思いますが総構目的で来ても損がないくらい必見です!
ちなみに天守のみの入場券だと一般500円、小・中学生200円です!(普通のチケットの値段です!)
小田原に来たら小田原城、そして総構に是非寄ってみてください!
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2019/04/14 14:51
特別公開 (2019/04/06 訪問)
坂下門
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2019/04/14 14:14
忽然と姿を現した大土塁。 (2019/04/13 訪問)
金つるべ城をあとにして、前々から気になっていた豊地城跡に行って参りました。
豊地城の歴史は少々複雑です。
ただでさえ長い私の文章、説明すると余計長くなるので、皆様におかれましてはWikipediaを読んでいただいたほうが良いかと思いますw
豊地城の別名がやたらとあるのは、勢力争いに絡んで城主がコロコロ変わった事によります。
そして、秀吉の命により豊地城は廃城となるのですが、直接破城処理をしたのが後に一万石で小野藩を立藩する一柳氏の先代である一柳直末というのも、何か因縁めいたものを感じます。
さて現地に行ってみますと、道路沿いに堂々とした土塁の姿がいきなりドドンと出てきます。
説明板によると、高さ5メートル、幅11メートルもあるのだとか。確かにデカい!どうやらここは主郭の土塁だそうです。
説明板にもあった八幡神社とみやま保育園付近にも行ってきました。こちらは豊地城の東端にあたるようですが、こちらは土塁と外堀跡が残っております。
集落に埋もれながらも、こうしてハッキリと痕跡が残っているのは嬉しいですね。
このお城、必見ですよ!
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2019/04/14 13:07
眺望良好!…『金つるべ』は何処に? (2019/04/13 訪問)
河合城から南西に位置し、車で10分もかからなかったと思います。『夢の森公園』として整備され、駐車場も完備されており、とても行きやすい城跡です。
何度か行ったことあるのですが、何せ河合城からご近所であるし、ついでに寄ってみました。
そしたら、行楽日和とあって15台分ぐらいの駐車場はほぼ満車!それでも何とか一台分が空いてたので駐車。沢山の行楽客の方々で賑わってましたよ。
見所といえば、何といっても西郭と主郭の間を分断する大堀切でしょう!幅は何と20メートル、深さは11メートルにもなるといいます。三方を急な傾斜で囲まれ、唯一の弱点となる西側を堀切で補うといった形ですね。とはいえ、大群で囲まれたらひとたまりもなさそうですが。
そして見晴らし!山麓の河合郷はもちろん、当時重要な水運路線だった加古川も一望出来ます。山上の風、やっぱり気持ち良いですね。
今建っている門や柵、物見櫓などの建物群は、復元というよりイメージ再現ととらえたほうがよいかもしれません。それでも平面表示などもあって当時の様子がよくわかります。
あと、現状では西郭から木橋を渡って主郭に入るのですが、当時はこんな便利なところに虎口なんてありません。当然真っ直ぐには入れません。
木橋を渡りきってすぐに左に、右から来る攻撃に晒されながら細い細い道を歩かされた先に本来の虎口があるのです。
あと、城の名の由来となった『金つるべ』があったであろう水の手が、発掘調査でもまだ見つかってないようです。したがって、主郭にある井戸は一切関係ありません。
ちなみに、この城の歴史ですが、実はあまりはっきりしません。
築城年代は不明、廃城年代も不明。
わかっていることといえば、国人領主中村氏の居城で、防御の場であり、生活の場でもあったようです。
その中村氏は赤松氏の家臣で、嘉吉の乱(1441年)で赤松満祐に従った故に一時没落したが、後に赤松氏再興に尽力した結果、河合郷を与えられたという。おそらくこの頃に築城されたのでしょうか。
しかし、天文八年(1539年)赤松晴政によって中村与次郎の西河合の所領が別府源三郎に与えられ確執が発生、中村氏と別府氏との争いの結果、金つるべ城は落城し中村氏は滅んだという。
以後は別府氏の持ち城となったらしいが、それからは不明。おそらく播磨攻めの際に落城したと思われます。
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2019/04/14 13:01
(゚Д゚;)三(;゚Д゚)・・・∑(゚∀゚;) (2019/04/14 訪問)
昨日ガッツリ出かけていたので、今日はその体をほぐす程度に午前中出かけ、ついさっき帰ってきましたw
東京近郊でまだ訪問していない、駅近でかつ史跡の証拠がある針ヶ谷陣屋を訪問。
情報だと道沿いのコンクリートの壁に解説があると確認していたのですが・・・付近に到着して探すものの、どこにも無く・・・
それっぽいコンクリートを良く見ると・・・壁に解説のあった跡が・・・無くなっているぢゃありませんかorz
が、その先の公園に、見るからに公園関連の物ではない解説版があるのを発見。
行ってみたら・・・当りでした(^ω^;)
以前の解説よりカラフルで詳細になっておりました。
丁度リニューアルに当たったんですね(笑)
ま、遺構が残っている訳では無いので、近場の方が気軽に行くか、何かのついでに寄るくらいで十分です。
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2019/04/14 11:51
2019/04/14 11:42
平成31年 (2019/04/11 訪問)
平成最後の登城が松江城でした。ワンコも一緒に天守閣も入れるので楽しさ2倍です。
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2019/04/14 11:25
圃場整備で姿を消した赤松氏の拠点。 (2019/04/13 訪問)
朝から小野陣屋を訪れたら、小野市内のお城、見に行きたくなりますよねー。
というわけで、初めて訪れてみました。
室町時代のいつ頃築城されたのかは不明ながら、播磨守護職である赤松氏によって、東播磨の拠点として築かれたようです。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の時には、室町幕府第六代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐が、その首をもって入城したのが、この河合城とのこと。
余談ですが、近くにある成相寺(←今回未訪問)に昔『首洗い井戸』があったそうな。
城の規模は東西約400メートル、南北約300メートルの城域を有し、土塁と堀で四方を固めた主郭の東西にそれぞれ東郭と西郭を配し、主郭は「源氏屋敷」と呼ばれていたそうです(←赤松氏は源氏の流れを汲む家だからそう呼ばれたのでしょう)。
んで、これは後で知ったのですが、至近距離にある小堀城(←『城びと』未登録、今回未訪問…知ってたら行ってたのに!)と堀井城(←ここも今回未訪問。どうせなら行っときゃよかった…)を水路で結んで連携をとっていたという話もありますから、まさに当時は東播磨屈指の大城館といった感じでしょうか。
もしかしたら本城である姫路の書写坂本城よりも大きいかもしれません。
そんな河合城も、いつの頃からか廃城になってたようです。赤松氏の没落と運命を共にしたのか(←早くとも坂本城を捨てて置塩城に移った頃?)、もしくは秀吉の播磨攻めで周辺の城と同じく落城したのか…。
かくして、河合城は長い年月の間に農地化され、更に昭和五十年頃の圃場整備により、その遺構の大半は失われてしまったようです。
室町・戦国期の平城は、やはりこういう末路を辿るのか…。
ということは、いろんなサイトで説明板のすぐ後ろにある水路が当時の堀跡や土塁跡として紹介されてますが、これらも正直ちょっと怪しく見えます。…今から紹介する土塁も含めて。
で、その土塁ですが、説明板から推察するに西郭の西端にあたる部分でしょうか。
スミマセン、本物かどうかあまり自信が持てません。
形状からして、いかにも土塁っぽいなと思うのですが
、どうでしょう?
そんな感じで、今となっては一面田畑や集落となっていますが、立地的なものも含めていろいろ想像してみると、面白いと思います。資料をある程度見てから行く方が良いかもしれませんね。自分もそうしますw
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2019/04/14 11:19
2019/04/14 10:19
桜には少し早かった (2019/04/06 訪問)
桜には1週間くらい早かったかな。
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2019/04/14 09:50
遺構も有るようですが・・・ (2019/04/13 訪問)
木更津駅から徒歩で40分。
霊園の前に石碑が建っています。
周囲は住宅地となっています。
石碑の南西側の藪に遺構が有るようですが中には入れません。
石碑の位置からは東京湾の工業地帯も見渡せます。
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2019/04/14 07:49
一柳氏の陣屋跡、駅から徒歩3分。 (2019/04/13 訪問)
さて、久々に小野藩の陣屋に行って参りました。
以前に『城びと』で画像無しの投稿をしたのですが、やはり画像はあったほうが良いなと思いましてw
ここはオススメですよ。何がオススメって、神戸電鉄小野駅から徒歩3分弱というかなりお手頃な駅近物件なのです。本当に目の前にありますからね。
今回行ってみたら、陣屋跡の桜が満開でございまして、やはり散り始めておりましたが、なかなか綺麗でしたよ。
厳密に言うと、小野駅のロータリーに足を踏み入れた時点で既に陣屋跡だったりします。
小野陣屋は河岸段丘を利用し、周りに堀と見立てて人工の池を作って防御とした陣屋です。
それを示すかのように、駅前には『雁又池跡公園』の石碑があります。
現在は池の大部分は埋められておりますが、唯一、中の池の一部が残っており面影をしのぶことができます。
陣屋跡の中心地には現在小野小学校が建っており、その南隣の小野市立好古館のある場所は当時の馬場跡のようです。
好古館から踏切を跨いで真っ直ぐ延びる道は当時のメインストリート、所謂大手道でしょうか。武家屋敷や家老屋敷、藩校などが並んでいたそうです。今は小野高校や住宅街となっています。
好古館のすぐ斜め向かいには磐代神社が鎮座しています。ここは小野藩一柳氏の氏神様だそうで、場所は当時と変わらないようです。
このように、当時とはかなり様変わりしてしまった小野陣屋ですが、とってもわかりやすい説明板のおかげでいろいろ想像しやすくなっております。
ちなみに、最寄り駅の小野駅がある神戸電鉄粟生線は近年存廃問題に揺れておりまして、自治体からの補助で首の皮一枚繋がっている状態です。
将来、小野陣屋跡の駅近な魅力が無くなってしまうかもしれません。
三木城跡の最寄り駅である三木上の丸駅も粟生線にあります。何気にここも駅近物件。
更に、小野駅のお隣の葉多駅から北へ徒歩5分ぐらいに、『城びと』未登録の葉多城跡があります。
ってことで、『乗って残そう粟生線』。
…今回私はマイカーでしたがw
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2019/04/14 02:12
山城 (2019/04/13 訪問)
初の八王子城に行ってきました🏯
石垣や土塁などがしっかりと残っていました、ガイドさんもいて詳しく説明をしてくれます
山道は木の根っこが剥き出し、石ころが落ちていて歩くのはかなり疲れたし転びそうになったが無事に天守に到着
櫓や道から眺める東京都は絶景でした
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2019/04/14 01:23
2019/04/14 00:21
薩摩義士の絆 (2014/12/30 訪問)
鶴丸城の御楼門の復元が2020年3月完成予定で進められていますが、御楼門建設のために岐阜県産のケヤキが提供されています。何故、岐阜県が提供するのかは、以前の三重県の桑名城の投稿でも触れさせてもらいましたが、薩摩藩士が多くの命を落とした「宝暦治水」が関係しています。
以下、鹿児島県のHPより
贈呈された岐阜県産ケヤキは,樹齢約300年以上,幹周り4メートル・長さ8メートルもある立派なものであり,所有者の御先祖が宝暦治水工事の幕府方水奉行の関係者であったことから,鶴丸城御楼門復元の事業主旨に賛同され,提供していただいたものです。
以下、岐阜県のHPより
江戸時代中期の1755年(宝暦5年)、薩摩藩は岐阜県南部を流れる木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)流域の治水工事を完成させました。宝暦治水といわれるこの工事は、徳川幕府が薩摩藩に命じた堤防を作る工事で、非常に困難なものであったため、薩摩藩は多額の借金を抱え多くの犠牲者を出しました。
流域に住む人々は、洪水に苦しむことが少なくなったことを喜び、工事に従事した薩摩藩士を「薩摩義士」と敬い、その偉業をたたえました。
その精神的な絆をもとに、岐阜県と鹿児島県は、昭和46年7月27日に姉妹県盟約を結びました。
姉妹県は他に聞いたことがないので、岐阜県が鹿児島県に恩義を感じているのが分かるような気がします。
北御門跡から城山である上山城への登城途中に薩摩義士の碑がありました。碑の下に木曽三川の水がペットボトルに入れられて供えられており、胸が熱くなりました。
岐阜県との絆の形でもある御楼門の復元。本当に楽しみです。
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