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K-ZZ

定番撮影 (2020/01/19 訪問)

犬山城は、どこからでも、どの季節にでも、最高に映える一番好きなお城です。

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天下布武

今、ときが動き出す (2020/01/19 訪問)

大桑城は美濃守護土岐氏の最後の居城として、標高407.5mの古城山に築かれた山城で山麓には城下町も構成されました。
登山口は二か所整備されており、それぞれ説明板と駐車スペースがあります。
1.椿野広場側登山口(35.553927, 136.769858)-山麓からの登山口となり山頂までは約1時間となります。
2.はじかみ林道登山口(35.561444,136.772922)-はじかみ林道経由で中腹まで上がるため時短コースとなります。

大河の影響により整備が施されたようなので確認の為椿野登山口より城址全域を再確認しようと再訪登城しました。
遺構の案内等や急勾配部にロープが新たに設置されたり、木が伐採され竪堀等の遺構がかなり見易くなっているのが嬉しいです。
今日も2018年時に登った時と比べると多くの人が訪れるようになったようですが、土岐氏×斎藤氏との国盗りがあった地として大河ドラマ関係で触れられたらさらに訪城者が増えるのでしょうね。
下山後、周辺スポットで明智光秀の墓所とされる「桔梗塚(山県市中洞1020)」へ寄ってから、本日放映開始する「麒麟がくる」を楽しみに帰路についた。

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しろちゃん

難攻不落の高城 (2019/01/19 訪問)

難攻不落の高城を是非とも訪れたかった場所である。

この高城は、北から東へ向かって切原川が流れ、南側は、小丸川が流れ、その間の細長い台地上に城が築かれている。
北、東、南側は急峻で腰曲輪が配され、防御体制を取っている。唯一、西側のみ台地が繋がっているが、
幾重も深い堀切で遮断されている。

難攻不落の高城の由来は、都於郡城の伊東氏が島津氏に追われ、大友宗麟に頼り、日向北部の軍勢を率いて南下し、この高城を
攻撃を開始した。
大友宗麟側の陣地は、切原川の北側の台地上に構え、五万の兵で攻撃するも、なかなか攻略出来ず。高城救援に来た島津軍は、小丸川の南側の台地上に構え、対峙します。

島津軍は、高城の東側に少数で大友軍に挑み、負けたフリをして軍を引き、逃げたと思った大友軍が追撃しますが、引いた先には、伏兵によって総攻撃をくらい、大敗北がしました。これが、有名な釣り野伏せです。
但し、この戦いでの大友宗麟本隊や大友義統軍は、延岡に駐屯し、キリシタンの布教の準備をしていた様です。

二次の高城の戦いは、大友宗麟が島津氏に追われ、救援を豊臣秀吉に頼み、大軍をもって、九州征伐に繰り出し、この高城を包囲さますが、島津軍本隊が敗北し、和睦するまで持ち堪えました。

いずれも、山田有信が城主として落城しなかったってことは、堅固な高城だけでなく、山田有信を中心にまとまっていたからだと思います。

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カズサン

天正期小天守台も発掘発見、駿府城天守台4年間の発掘調査報告会 (2020/01/19 訪問)

 本日1月19日駿府城三の丸静岡市民文化会館大ホールで午後1時半より4時まで「4年間の発掘調査の集大成!駿府城跡天守台発掘調査報告会」開催され出席して来ました。
 
 静岡市歴史文化課の方が4年間の発掘調査成果を発表の後、城でお馴染みの日本城郭協会理事の加藤理文氏の講演で発掘された駿府城天守台の現地展示案には関心を持ちました有意義な報告会でした。

 報告会に先立ち今月7日の静岡市よりプレスリリースされた天正期の小天守台が発掘発見されたとニュース報道されて居ましたので発掘現場に寄って天正期小天守台石垣を確認と飛び込みましたが青シートを被り見学できないとの事、「発掘情報館きゃっしる」で天正期の小天守台石垣写真、1月7日プレスリリース展示を見学確認写真保存しました。
 これらの情報は静岡市歴史文化課のホームページに掲載されてます。
 これで中村一氏時代天正期の大天守台、小天守台も発掘発見され連結型天守構造も確認され様子で大御所時代の天守台、天正期の天守台と今後の保存整備が益々複雑に成って来ましたがどちらも大切な歴史遺産知恵を絞って後世に残していきたいものです。

 今回発掘発見された天正期の小天守台の発掘現地説明会は2月22日に開催。

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ぜろきゅう

古宮城とセットで (2020/01/20 訪問)

作手歴史民俗史料館で古宮城と併せて説明していただきました。
縄張り図もいただけます。
お互いの城が見える最前線です。

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ぜろきゅう

ぜひ亀山城とセットで (2020/01/19 訪問)

歴史民俗史料館で古宮城(武田方)と亀山城(徳川方)について教えていただきました。
ほとんど整備されてないので史料館で縄張り図をいただいてからいくらよいかと思います。
武田×徳川の最前線を感じました。

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BUGTI

宇都宮氏が改修した城 (2020/01/18 訪問)

多気山の全山が要塞化された、規模の大きな城となっている。東の峰の上部から主郭にかけて、木が切り払われて眺望が良くなっている。それ以外の峰にもたくさんの曲輪があるようだが、藪となっていた。山頂の主郭にはしっかりとした土塁が残されていました。時間をかけてじっくり探索したい城です。

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しろちゃん

日向三城の一つ (2019/01/19 訪問)

塩見城は、南側が塩見川が西より東へ流れて、台地の上に山があり、その山頂に築かれた山城です。

塩見城の築城は、土持氏によって築かれた城で、戦国時代、伊東氏の勢力下に入りますが、島津氏との高城の戦いによって大敗北をきっし、島津氏の所領となりますが、その後、豊臣秀吉の九州征伐により、延岡の高橋氏の所領となり、廃城になりました。

塩見城へは、日向市街地から国道327号線を西へ進み、水月寺を目標にして、国道から、右折『交差点名、覚えてないので、後で調べます』し、水月寺に向かって登りになります。城山墓園を通過し水月寺の後方の山が塩見城です。水月寺の左側の車道を進むと、右前方に登る道があるので、そこを登ると城跡に到着。
車3台程停めれそうでした。

城跡は、冬場であった為か、草刈もされていて遺構の状態も把握しやすかったです。
本丸と思われる一段高い所は、細長く、その本丸から東側は、駐車した場所になり、一方で南側へ降る道があり、虎口がありその下はL字型の曲輪がありました。
見晴らしは良いです。

この、城びとには出てませんが、塩見城の麓にある国道327号を更に西へ10キロ弱進むと、山陰城の出城と思われますが、西城があり公園化され曲輪と堀切が残っています

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カルビン

雪の為予定変更 (2020/01/19 訪問)

昨日新潟遠征を予定していたものの関東地方雪の予報だったので、今日に延期したんですが・・・今日は新潟が雪予報で・・・
急遽早朝に遠征先変更して宮城県に行ってきました。

で、JR仙山線には伊達家に関する居館がいくつかありますが、今日そのうちの1ヶ所・西館に訪問しました。

陸前落合駅から徒歩15~20分で西館の場所に到着すると、大々的に工事をしてまして・・・これは時期を誤ったかな。。。と思ったら工事していたのは史跡の横で、西館は無事でしたw

それほど遺構が多いわけではありませんが、曲輪の他に虎口・横堀・蔀土塁・切岸等を見る事が出来ました。

仙台駅近郊には未訪問で行ってみたい場所多いので、今度は宿泊してお城・居館を根こそぎ訪問したいものです。


ちなみに1つ隣の愛子(あやし)駅には南館跡がありますが、こちらは田んぼになっており、遺構は見当たりませんでした(標柱のみだった)

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todo94

いさじょう (2020/01/11 訪問)

福知山駅の京都寄り、隣の駅が石原駅。駅から至近の石原城です。洞玄寺の周りに、すてきな空堀と土塁が残っています。

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チェブ

麒麟がくる前に。 (2020/01/02 訪問)

お正月、東京から浜松方面に向かう途中、新東名高速道路を降りて寄った「間門城」です。
2020年は「浜松城」からスタートするはずだったのですが、急いでも100名城スタンプが押せる時間に到着できないと分かり富士市からスタートする事にしました。
北条氏が築いた「間門城」、新東名高速道路の下にありました。赤淵川が流れる立地です。
写真の3枚目、竹林になっている所をナビは「目的地周辺です」と言いました。
確かに写真の1枚目のような土塁が見られます。
「間門城」の石碑等はありません。
近くに間門浅間神社があり、「史跡 蝦夷城跡」の石碑があるそうです。すいません、行ってません。
「間門城」=「蝦夷城」かもしれませんね。

ところで、
前に「岩櫃城」のガイドさんと大河ドラマの主役は誰がいいか、という話題で盛り上り 明智 光秀さんがいいが、話が1年はもたないだろうからガラシャちゃんと2代は?等々、「岩櫃城」の真田家そっちのけで話したのを思い出しました。
「麒麟がくる」
私もですが、ガイドさんも喜んでいるでしょう。
皆さんの光秀さん関連のお城の投稿をチェックしながら楽しみたいと思います。

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のん

きらびやかな二の丸御殿と櫓の公開 (2020/01/03 訪問)

お正月に念願の名古屋城に行きました。

天守は改築が決まり内部は見学できませんが、壊すためには、国宝になっている天守石垣が崩れたりしないための方法を国からお墨付きをもらわねばならず、時間がかかっているそうです。そのおかげで外部はそのまま見ることができました。
2018年から公開されている本丸御殿は、非常に豪華絢爛。入り口から奥に進むに従って、襖絵、天井、欄間、釘隠しにいたるまで、豪華に変化していく点など見所満載。当時の人々の技術力の高さに圧倒されました。表裏で欄間の絵柄が異なるように掘る技術は、現代では復元不可能だそうです。一体どうやって掘ったのでしょう。



1月は江戸時代から現三ヶ所全ての櫓内部の公開をしており、江戸時代の方と繋がってるような思いで見てきました。大手門近くの西南隅櫓だけは、瓦屋根の御紋が菊になっており、明治に入り天皇の御所として使われた時期の修復に菊にしたそう。

お城に来た時ガイドさんに毎回有料でお願いしているのですが、名古屋城ではなんと無料でした。門を入って黄色の法被を着ている方がガイドさんです。スタート時間までに他の方からの希望がなかったため、うちの家族のみでガイドしてくださいました。
何十年もガイドをされてる方で、お城や知識だけでなく、歴史への造詣も深く、様々なことを教えていただきました。ありがとうございます。



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赤い城

雪のない会津 (2020/01/18 訪問)

今年は暖冬すぎて会津に雪がないとのことで行ってみました(熊も冬眠中だし・・・)。
公共交通機関だと会津本郷駅から徒歩で20分。
麓の向羽黒山城跡整備資料室前に続100名城スタンプがあります。
この時期はここから上は車の進入が出来ないのでここに駐車し徒歩で本丸を目指します。
白凰山公園を過ぎしばらくで三曲輪、その先にトイレと駐車場があり、ここから登城。
すぐに空堀や虎口を見ることができます。
水手曲輪を経て二曲輪、駐車場もあります。
一曲輪への登城口に説明板が立っていて登るとすぐに長い竪堀。
資料室から主郭までは40分くらい。
見所もたくさん、本気で見ると半日~1日かかりそうです。
主郭からは古城の道を下りましたがこちらにも大きな堀切がありました。
本当に広い城域で、来て良かったと思える城でした。
時期によっては熊に注意ですが・・・。

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勝野武士

未完成の近世城郭。 (2019/10/20 訪問)

※日頃私の拙い投稿をご覧頂き、誠にありがとうございますm(_ _)m
いつの間にかフォロワー数が50名となりました!『城びと』始めたての頃はここまでフォローしていただけるとは想像だにしていませんでした。感謝感激でございます。
相変わらずの不定期投稿になりますが、これからもどうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m

宍粟市の山崎城(山崎陣屋)、ようやく訪れることができました!
『宍粟』と書いて『しそう』と読みます。読めねーよって方もいらっしゃるのではないでしょうか(笑)。

山崎城のルーツは、北側の篠の丸山頂に築かれた山城『篠の丸城』です。
天正八年(1580)羽柴秀吉の宍粟攻めによって落城後、神子田正治、黒田孝高(『軍師官兵衛』でもこのあたりが描かれてましたね)、木下勝俊(長蕭子)が城主となりました。
木下勝俊時代の天正十五年(1587)に篠の丸城の南側の山麓に広がる鹿沢の地に城を移し、宍粟における新たな統治の中心としました。
鹿沢の地は、揖保川と菅野川に挟まれた河岸段丘上にあり、築城に適した土地です。

本格的な築城が始まったのは元和元年(1615)。当時の姫路城主池田輝政の子輝澄が山崎三万八千石で入封した時です。
河岸段丘上の南端に本丸、その東に二の丸、西側に下屋敷、それらの北側に三の丸を設置し、揖保川から水を引いた内堀と中堀が巡らされ、その北側には大手口と武家屋敷街、更に外堀を挟んだ北側には城下町と寺町が形成されました。
しかし幕府の意向もあってか城は未完成のままに終わり、旧本丸に新たに陣屋の設置が許されたのも本多氏が一万石で入封した延宝七年(1679)以降のことだったそうです。
本多氏の治世は九代、明治まで続きました。

廃藩後は二の丸跡に学校が設置され、下屋敷跡に市民会館が建つなど当時の面影を探るのは一見難しいですが、街角の所々に『大手口』や『中堀跡』などの石碑や説明板が建ち、また町割りも当時からそんなに変わっていないために、地図などを片手に当時を想像しながら歩けるように整備されています。
また、本丸跡は本多公園として保存され、幕末期の建築という表門の役割を果たした紙屋門や角櫓台、また北側にも当時のものと思われる石垣や堀の名残である水路が残り、当時の城郭を想像することができます。

城跡だけでなく、寺町や古い町並みも良く残っており、思っていた以上に楽しめました。
マイカーでないとなかなか行けないところですが、こちらもオススメです。

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刑部

詰の城 金山城 (2020/01/16 訪問)

専用の駐車場から物見台跡まで20分程で登れます、そこから曲輪・堀・土塁・石垣などが見られ頂上の本丸 結構見所がある山城でした。かなり急な山で落ち葉が足を滑らします秋からこの時期はトレッキングシューズがオススメです!

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うっちー幸村

にぎやか大阪城🏯 (2019/03/21 訪問)

大阪城🏯は外国人観光客に大人気!特に天守閣は凄い人数の外国人観光客が押し寄せ、色々な人に愛されてました

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RARA

池田恒興 (2017/11/27 訪問)

池田恒興がいたお城

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RARA

ご先祖様 (2015/02/27 訪問)

ご先祖様のいらっしゃったお城に思いをはせています

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RARA

ご先祖様 (2014/09/23 訪問)

ご先祖様がいらっしゃったお城に
思いをはせています。
どんなことを思い 事を解決して生きていかれたのか、廃藩置県の時どんな思いで、ご両親と別れ遠いところへ行ったのか。

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ぴーかる

神楽尾城 (2019/12/28 訪問)

【神楽尾城】
<駐車場他>神楽尾公園駐車場を利用するといいです。私は不精して登城口周辺が畑を切り開いているので、畑の間に車を停めました。
<交通手段>車

<見所>馬場・曲輪・虎口
<感想>城跡にある説明板の抜粋・まとめるとこの城は「室町時代、山名氏と赤松氏が戦いをくりひろげましたが、その後1566年毛利元就が尼子義久をやぶると、毛利方のだいじな城として2人の武将が守っていました。その後、宇喜多方の花房職秀との戦いに負けて落城したといわれています。」とあります。

 城は尾根を切り開いた典型的な中世山城で1~3の曲輪群に分かれていて規模は大きい。登城口から行くと土橋・切通しを通って二の曲輪群に入る。二の曲輪群の中心曲輪は仕切り土塁があり櫓跡の表示があるが遺構はよくわからず。次に広く長い馬場に入って三の曲輪群は中心に円形の削平地に帯曲輪で囲んでいる。虎口は整備され明確。一の曲輪群は山頂に本丸、多数の腰曲輪を配して、一の曲輪群入口に馬場と繋がる広い武者溜りの曲輪がある。本丸は「山の頂上をスパット切りました」といった感じの形の円形の曲輪で中心に櫓台の土塁が残る。案内板の縄張り図にある泥田堀というのは堀というより谷になっています。三の曲輪・一の曲輪にある竪掘り群は笹で埋まっており遺構は全くわからずでした。
 一応ハイキングコースになっており、運動で山頂の往復をされている地元であろう年配の方が何名もおられました。登城後車で下山していくと狭い山道、途中側溝にはまってしまっている車があり対向車が数台つまっていましたが、ちょうど手前で切り返せるスペースがあり、地元の方に別ルートをおしえてもらい助かりました。

<満足度>◆◆◆

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