石打城は稲垣氏の城とされており、城郭大系には添上郡の「稲垣氏城」と記載があります。江戸時代初期に城主の家系と見られる稲垣家が火災にあい、古文書を焼失したため城郭の経緯の詳細は不明です。鎌倉時代には当地は大安寺の荘園で、荘園の名主が幕府から地頭に任じられていたとされ、やがて幕府や寺院の力が弱まってくると武力で周辺を支配するようになったと考えられています。
先人方の投稿にあるようにソーラーを目印に付近に駐車し、細い舗装された道を城址に向かって進みます。それほど距離が有るわけでもないので歩いたほうが無難でしょう。ほどなくして案内板と城址碑が目に入ってきます。
伊賀の築城形式の影響を受けていると案内板や大系には記載があります。城址に入ってすぐに三の郭となり、枡形か馬出のような小さな郭が大手に続いています。坂を登って行くと右手に二の郭が控えており、中央が盛り上がっています。形状は余湖くんのお城のホームページさんの縄張り図を参照にされると良いと思います。
二の丸とは逆手に本郭の虎口があり、本郭の周囲は高い土塁で囲まれています。北側と西側は堀切で遮断され、これが「一の堀」とされています。土橋がかかっていて、その先には西の郭があり、さらに西に土橋のかかった浅い堀があります(二の堀)。
最近だいぶ涼しくなってきて朝は少し冷えるくらいですが、それでも日中はけっこう暑さを感じ、城址の中はどこも蜘蛛の巣だらけです。なんとなく奈良の城跡を巡るようになってから体に小キズが増えてきたような気がします。
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