日本の城は日本の歴史に深く関係しているのだが、八幡山城ほど歴史の渦に翻弄された城はないのではないかと思う。
八幡山城が築かれたのは、豊臣秀吉が柴田勝家を倒して、ほぼ天下を手にした後のこと。城主には甥の豊臣秀次を据えた。
本能寺の変の後、安土城は火災により消滅。秀吉は、信長の楽市楽座の政策によって栄えた城下町を、そこに住む町人商人とともに八幡山城の城下にそのまま移動させた。今日「安土桃山文化」とも呼ばれる安土城下で発展した文化を、八幡山城は引き継ぎ発展させることとなった。
城主の秀次は、この城下町の発展に力を注ぎ、八幡堀という琵琶湖から水を引いた水運を作った。しかし秀吉に実子の秀頼が生まれたことで、秀次の運命に暗雲が立ちこめる。秀吉に冷遇された秀次は切腹という末路を辿ることとなる。そして八幡山城は築城からわずか10年で廃城となった。
八幡山の山頂のある本丸には元々天守があったが、現在は秀次の母・日秀尼が建立させたとされる瑞龍寺が移築されている。そしてその下には、堅固な石垣が現存している。苔むして木々が生い茂った姿が約400年もの歴史を感じさせる。
山頂部からは安土城や観音寺城を遠景に臨むことができる。山麓には日牟禮(ひむれ)八幡宮が建つ。そしてもっともオススメしたいのが八幡堀だ。
再建された範囲は、決して広くないが京都を連想させる素晴らしい景観と風情がある。城が存在した期間はわずかに10年であったが、その間にこのような素晴らしい文化を築いた秀次の功績は非常に大きかったのではないかと思う。
歴史の荒波に翻弄された城は、安土桃山文化を継承した名城だった。
+ 続きを読む