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響ちゃん

(2019/07/20 訪問)

倒木で道を塞がれたぽい

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ぴーかる

水口城(みなくちじょう) (2019/05/25 訪問)

【水口城】
<駐車場他>城跡資料館無料あり
<交通手段>車

<感想>日帰り八幡山攻城の旅3城目。八幡山からは離れるが南下して予定の水口城跡へ。ご存じ徳川将軍家の上洛の際の宿館として築かれたが、家光が一度しか利用しなかった城。作事奉行は小堀遠州、城番管理下→その後2万石で加藤氏(加藤嘉明の孫)が水口藩を立藩、明治までほぼ加藤氏が続いたところだそう。加藤氏は本丸を居館として利用しなかったそうだし、名称も水口御茶屋だって、なんとも贅沢なことです。
 本丸は水堀で囲まれた方形で、東に出丸(外枡形)北に内枡形の2箇所虎口がある。北の枡形虎口は完全に取り壊され、東の外枡形の虎口に再移築乾櫓の資料館がある。資料館内は水口城の館模型・城の遺物がある。水口古城のパンフレット200円で販売されてます。その外枡形は高麗門・移築櫓・大手門を造ってお金かけているので見応えあるが、乾櫓は立派な櫓台が残っているので元の場所に再移築して資料館にすればよかったのにと思う。
 本丸内は高校のグランドとなっており、野球・サッカー共に使えるほど広い。本丸の堀を一周したが、出丸と乾櫓石垣を残して石垣は撤去され堀の上も土塁が残されているのみとなっていた。
 乾櫓台石垣は立派な隅櫓で石垣は一風変わっていて写真の通り、下部が切込接ぎ布積み、上部が谷積みとなっていて見応えあり。乾櫓は野球場の観覧側になるので櫓台上まで入れます。
 水口古城も登城する予定だったが、予想外の北之庄城でへとへとになり、午後5時だったので断念し、またの機会として日帰り旅終了とした。

<満足度>◆◆◇
 
 

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響ちゃん

曇り (2019/07/20 訪問)

案内板壊れてるっぽい

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響ちゃん

曇り (2019/07/20 訪問)

疲れてきたっぽい

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響ちゃん

曇り (2019/07/20 訪問)

お腹空いたっぽい

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響ちゃん

(2019/07/20 訪問)

取り敢えず来てみたっぽい

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響ちゃん

曇り (2019/07/20 訪問)

道中きのこいっぱいぽい

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響ちゃん

曇り時々雨 (2019/07/20 訪問)

豚さんいるっぽい

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響ちゃん

曇り (2019/07/20 訪問)

入口の草が凄いっぽい

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響ちゃん

曇り (2019/07/20 訪問)

石板割れてるっぽい

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響ちゃん

曇り (2019/07/20 訪問)

近くまで辿り着けたっぽい

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くろもり

大高城を監視する砦 (2019/06/23 訪問)

大高駅から徒歩で訪れました。10分もかからないくらいで丘の上の砦跡の公園に着きました。車での訪問の場合、大高駅の東の県道50号沿いに鷲津砦公園の駐車場?らしきスペースがありますが、狭いです。反対側にコインパーキングもあります。

想像してた以上に比高差のある砦で、大高城に対抗する為に築かれただけあり、大高城が良く見えました(木の多い公園ではなく、少し下の坂の途中から)。

丘の上の公園の奥にある城跡碑の先へ進むと、堀らしき場所があります。人力で造るのはかなりの労力だと思うので、遺構だと思いますが、説明も特にありませんでした。この道を下りると県道50号沿いの鷲津砦公園の駐車場らしき所に出ます。

丘の上の公園で子供が遊んでいましたが、向こうから挨拶してくれました。名古屋は都会なのに小学生が挨拶してくれる頻度が高いので、なかなか地域教育がしっかりしてるなと感心しています。

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うさぎ屋

山城の石垣 (2019/05/05 訪問)

群馬県の山城ということ以外知らないお城でした。
駅から30分ほど歩き、さらに案内所まで歩き、
城全体の様子を少しずつ確認しました。
関東のお城ながら立派な石垣が残り、面白かったです。
帰りも道を間違え、この城の大きさを感じました。

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赤い城

日本の道百選 (2019/07/14 訪問)

新八柱駅から徒歩で3分。
日本の百選のさくら通りに碑立っているのみで遺構はありません。

春に来たらきっと綺麗。
フォトに人を入れないのには苦労しますね。

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にのまる

試練だった。 (2019/06/29 訪問)

この日松本には松本城のほかにもう一つ目的があって出かけたのですが、そちらが中止になったので、予約していたあずさの指定席を変更して早めに帰ることにしました。

が、その前に帰りがけの駄賃で駅近(自分比)の井川城に寄ってサクッと1ポチ♪

のつもりでしたが。。。

井川城は住宅街の中にあるとの情報でしたのでナビ任せで歩き、見えたゴールは田んぼの中の小さなお山♫
思わず「かわいい♡」と言ってしまったその佇まいは控えめながらも確かな存在感。ついでに行ってみようなどと思って申し訳なかったm(_ _)m

だがしかし、かわいいお山は水路の向こうの田んぼの中で、足元には心もとない渡し板が一本。
auナビウォークは、へーきな顔して私にここを渡れと言う。
えっ?これって公道なわけ(・・?)
てか、むちゃくちゃ恐ろしい。苦手すぎる。
どこか別の入り口を探そうか…。
でも城址はすぐ目の前。
別の道を探すめんどくささと10秒くらい(で渡れそう)の恐怖体験を天秤にかけて、ここを渡ってしまおうと決意。
雨が降っていたけど傘をたたんでリュックにしまい、両手を空けて(バランスとって^^;)、息を止めて…がんばりましたᕦ(ò_óˇ)ᕤ

そして帰りは何気に道があったので敷地内を突っ切って行くと、ちゃんと「井川城コッチ→」の表示のある道路に出ました。こっちの道をナビして欲しかったよ(;_;)

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朝田 辰兵衛

恐怖! 吸血モスキート!! (2019/07/13 訪問)

ココの“丘城”という情報と,ほぼほぼ市街地ということもあり,比較的ラクな登城と決め込んでました。それがそもそものエラーでした…。
周辺の住宅は廃墟が多く,八幡町公民館からの登城口からは,フェンスが開かなくなってました。仮に開いたとしても,未整備の無法地帯に見受けられました。
ということで,さらに舗道を登り切ったところにある石段の登城口からトライしました。ここも登ってしばらくすると,ヤブ化が進んでおり,(行くべきかどうか)立ち止まったところで,一気にヤブ蚊の襲来に遭いました(雨なのに…)。首タオルしているにもかかわらず,わずかな隙間から入ってきて,首から上のみを10数ヶ所も刺されました。
すぐに登城口を駆け下り,リュックから“液体ムヒ”を取り出し,塗りまくったら,直後にプチ呼吸困難状態になりました。ヤブ蚊は2匹つきまとってましたが,監視しているカンジでした。
やむなく退散しましたが,ここは山城同様に,どっぷり冬場の登城をおすすめします。
そもそも,アップすべきか悩みましたが,私と同じ被害に遭わないように教訓としてください。

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カルビン

太田道灌と関係あるそうな (2014/04/11 訪問)

関東・甲信越では特に3名の武将と関わりのあるお城が多いです。
武田信玄と徳川家康と・・・太田道灌。。。特に太田道灌に関しては埼玉・東京・神奈川にゆかりのあるお城がずぬけて多く、そのうちの1ヶ所が事前情報で知った、今回upします岡城。

最寄り駅がJR北朝霞駅or東武線朝霞台駅(隣接してますが運営会社が違う為か別の駅名に)で、通常なら遠征に向かう際の中継地点の駅になるのですが、この日はここが目的地・・・なんか勝手が違うなw


いきなり北と南を間違え、15分くらい無駄に歩きましたが、途中からやっと地図の立ち位置が解り、駅から15分程度で岡城へ。

下り坂沿いに城址公園があり、公園内にあった予想してたものより全然良質な堀と土塁が見られました。

お城としての城碑や解説は無いと思っていました(城址公園としての解説や碑石はある)が、何故か1ヶ所、物見櫓の解説だけが公園内に存在してました。
なぜ他の遺構に解説を置かなかったのか?逆になぜ物見櫓跡だけ解説を設置しようとGOサインを出したのか・・・謎ですww


堀切のところにかかるコンクリート製の階段橋がちょっと見た目残念ですが、基本お城の地形をほぼ崩すこと無く公園化している所に好感が持てます。
同じJR武蔵野線沿線にある滝の城とのセット訪問が良いのでは?


城域内では獲物を狙う猫武将を見ましたが。。。合戦さながらの顔にちょっとひきました(汗)

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ヒロケン

朝駆け (2019/07/15 訪問)

高嶺城は、大内氏最後の当主、大内義長が築いた城です。毛利軍の侵攻に備え1556年春から築城を始めましたが、翌年2月、大内義直は内藤隆世と共に長門国に逃れました。そして最後は長福寺で自刃しました。
その後、1557年秋には毛利氏の支城として築城が始まり、冬に完成しました。城番は、市川経好・柳沢元政・佐世元嘉らが担いました。
 高嶺城は最終的に1615年の一国一城令により破却され、城としての役割を終えました。

この日は時間に余裕がなく、「朝駆け」で高嶺城の攻略を決め、朝4時に宿泊先を出て高嶺城へ向かいました。まだ、薄暗く人っ子一人居ない山城ヮ(゚д゚)ォ! 街中の城跡へはよく使う戦術ですが、山城の朝駆けは初めてで少々ビビリ気味。
皆さんの投稿でもお馴染みの細く狭く暗い山道(舗装はされています)心細〜(°д°)テレビ塔横の駐車スペース(無料)に着いてもまだ、薄暗い。意を決して、車を出て主郭部へ向け出発するも、物音で車に引き返す。今の心境は、小鳥のさえずりも、そよ風になびく木々の音さえ「やめてくれ〜」って感じでした。結局、5時30分頃テレビ塔を出発。(○p>ω<)尸"

登り始めて直ぐに、休憩所がある郭に。テレビ等から10分程で主郭部下に到着。到着して直ぐに「ん〜ん」「凄い」主郭部を囲む石垣がなんともまた、自分の好きな戦国後期の石垣そのもの(((o(*゚▽゚*)o)))もう、夢中でシャッターを押し続け大満足。
結局、1時間程主郭部に居座り、テレビ等下側の郭も堪能しホテルに戻り何もなかったかのように、朝食を頂きました。

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トーダイ

土塀囲みの屋敷地が残されています (2019/07/18 訪問)

土豪神前(かむさき)氏の屋敷があった場所に、1543年ころ根来衆の支城として畠中城が築城される。江戸時代は庄屋を務めた要家の屋敷(本丸跡)となり、現在も広い土塀囲みの屋敷地が残されている。

屋敷地北スペース(20台)<34.437802,135.353172>に駐車、約100m四方の土塀囲みの屋敷地を一周する。現在も住んでいるので立派な門構えだが、古い門跡は補修中が多い。側溝の石積みが往時のモノか、興味深い。

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トーダイ

土塁跡は風化しています (2019/07/18 訪問)

元久年間1204年頃、佐藤忠信の子小治郎重治が地頭となり住みつき、淡輪氏を名乗る。戦国時代、淡輪徹斎の娘「おこよ」は豊臣秀次の妾となって小督(ここ)の局と呼ばれたが、文禄4年(1595)豊臣秀次の切腹に連座して淡輪氏も没落、三条河原で斬首される。また、徹斎の次男六郎兵衛重政は大阪夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」で討死する。(案内板ほか)

西林寺駐車場(10台)<34.331996,135.175861>を利用、約50m離れて案内板、後方に風化した土塁跡が確認できます。土塁の端に石碑と祠があるらしいが、資材置き場と畑地で入るのを躊躇い、確認していない。

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