入り口が封鎖なのでここで車を止めて城址の登り口まで徒歩で1400メートルを登りました20分かからず到着、そこからまた困難な山城でした落ち葉が行く手をさえぎるように足がとられました。
倒れ木がなくなってきたのでもう少しで車可能になりそうです。
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2019/11/20 10:20
山深い城址 (2019/11/17 訪問)
入り口が封鎖なのでここで車を止めて城址の登り口まで徒歩で1400メートルを登りました20分かからず到着、そこからまた困難な山城でした落ち葉が行く手をさえぎるように足がとられました。
倒れ木がなくなってきたのでもう少しで車可能になりそうです。
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2019/11/20 06:35
土塁残存 (2019/11/02 訪問)
光明寺がその故地に当たります。説明板や城址碑はありませんでしたが、土塁が視認でき嬉しい限り。
この後に訪れた黒部市の長安寺館にももっと立派な土塁がありましたが、善念寺館には遺構は見当たりませんでした。
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2019/11/19 22:38
浜松城
天守台に余計なスペースが生まれるほどに小柄な天守の傍らに、史実に基づき復元された富士見門。黒い天守と白い門。これは不協和音ぎりぎりの調和だ。
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2019/11/19 21:46
本丸の方が低い? (2019/11/17 訪問)
お寺さんより低い位置に本丸があるようです、普通 本丸が1番高い位置になるのですがここはお寺から道路を挟み本丸を見下ろす感じです。本丸周りの堀は見事に遺されています。
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2019/11/19 21:28
林田陣屋跡(兵庫県姫路市) (2019/10/30 訪問)
姫路市と宍粟市を結ぶ国道29号線の中間に位置する陣屋跡。
藩祖建部政長は大阪の陣の功により、元和3年(1617)に播磨林田の地に陣屋を築いた。
この地はかつて窪山城のあった場所で、以後10代明治維新まで続きます。
国道29号線(宍粟市から)林田川の手前を左折して、南に行くと県道435線あたります。
この県道435線を左折すると、直ぐに藩校の敬業館講堂が見えます。
敬業館講堂の西横の林田中学校の北側が林田陣屋跡です。
現在本丸跡は梅園になっていますが、雑草が生えて荒れています。
本丸に行く途中の石垣、東側にある建部神社の東には水堀が残り、錦鯉が泳いでいます。
また435線を南に行くと大庄屋の旧三木家住宅があります。
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2019/11/19 20:55
2019/11/19 20:50
叶堂城 (2019/11/09 訪問)
【叶堂城】
<駐車場他>感応寺内の駐車スペースあり。
<交通手段>車
<見所>石垣
<感想>日帰り淡路島攻城の旅3城目。元々は感応寺の西300㍍行ったところ城跡碑があるところに城があったようだ。(添付写真の城跡碑10枚目参照)移築復元の石垣は寺の南側と西側に主にあり、きれいに積み直されていた。感応寺のお堂にお参りしたあと、東の城跡碑を見て終了した。
<満足度>◆◆◇
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2019/11/19 18:53
船上城跡散策地図 (2019/10/13 訪問)
天正の国替えにより摂津国高槻から移ってきた高山右近により築城(改修)されましたが、右近はバテレン追放令にともなう改宗を拒んだことで追放されて、豊臣秀吉の直轄領となり、姫路藩の支城を経て、明石藩・小笠原忠政の居城となったも束の間、明石城の完成により廃城となりました。
田んぼの中の台地が本丸跡で、その北側を南東方向に流れる古城川が内堀代わりだったようですが、本丸跡は私有地のため立ち入りできず、船上城跡散策地図が設置されている船上西公園から古城川越しに眺めるだけです。
その他、明石城の南西には船上城から移築された織田家長屋門が現存し、明石城の巽櫓は廃城となった船上城の建材を用いて建てられたと伝わります。
この日は、明石城周辺をさんざん歩き回った上に、明石港から宮本武蔵の作庭とされる円珠院を経由して25分ほど歩いて登城したため、着いた頃にはそれ以上散策する気力がありませんでしたが、次の機会には船上城跡散策地図(現在と過去を対比してなかなか良くできてます)をもとに、かつての城下を歩いてみたいものです。
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2019/11/19 18:49
何かありそうで何もない。 (2019/10/20 訪問)
昨日、投稿した「笹下城」の後に「野庭関城」に行きました。
鎌倉幕府、初代 侍所別当の和田 義盛さんが築きました。
侍所別当、調べました。
侍所は軍事・警察を担った役職。
別当は職務全体を統括・監督する役職。
和田 義盛さん、とても偉い方だったんですね。オマケに弓の名手だそうです。
「野庭関城」は野庭中央公園や団地一帯がお城跡です。
団地が近い事もあり、たくさんのチビッ子が遊んでいました。
公園には土がむき出しになっている所もありますが遺構ではなさそうです。
石碑や説明板もありません。
野庭関城下のチビッ子に和田 義盛公を伝えてあげなくて良いのでしょうか。
そして、ここに「野庭関城」の石碑でもあるとテンションが上がるのですが(笑)
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2019/11/19 16:37
2019/11/19 16:29
2019/11/19 16:24
2019/11/19 12:56
横堀に唖然 (2019/11/04 訪問)
一説によると伊達政宗の家臣がいたようです。
市指定文化史跡。
方形の広い主郭に連なるように方形の曲輪、その間を深い堀が分断。周囲に二重横堀が巡ってます。登城口など無く藪の中です。城好きでもよほどのマニアでないと厳しいですね。方位磁石と感に頼るしかありません。しかしたどり着くといぶし銀的な渋みのある堀を見ることが出来ます。
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2019/11/19 08:00
秋も深まる城址 (2019/11/17 訪問)
展望台駐車場から要害神社までほぼ階段で上がります 頂上は神社、そこが主郭部のようです。遺構は分かりづらいですが帯曲輪は分かりやすい。麓では菊祭りが行われてました。
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2019/11/19 06:46
小出神社 (2019/11/02 訪問)
小出神社がその故地に当たります。遺構は存在しませんが、説明板が存在するだけでも嬉しいものです。
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2019/11/19 00:59
2019/11/18 22:45
2019/11/18 22:26
中泉御殿
陣屋より以前、徳川家康の鷹狩御殿として天正年間に作られ、家康が関東にいる間も家康の御殿として存続したという、隠れた「すごい歴史」を持っている。今はなーんにもないけれど。
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2019/11/18 20:27
人工的な遺構も、残した努力を買いたい (2014/05/07 訪問)
埼玉高速鉄道・新井宿駅から歩いて約1.5kmの所にある赤山陣屋こと赤山城へ。
赤山日枝神社側(南東側)から入った細い道の奥、ものすごく解り辛い所に駐車場がありました・・・車で訪問したら解らないですね。こりゃ(汗)
赤山陣屋の売りは、広い敷地内にそれこそ売る程ある堀なんですが・・・公園化の影響か、ものすごく浅くなってます。
その為か、生垣で囲んで解りやすく整備されておりました。
他に遺構を探すも、本当堀しかありません(笑)
でも外環道等が分断している等開発の手によって消滅してもおかしくなかった地域に、これだけ広範囲に遺構を残したっていう努力は素晴らしいですね。
開発の名の元に史跡を破壊する、最近叩かれまくっている某県知事に爪の垢煎じて飲ませたいくらいです(⌒-⌒)
お城見学というより、公園に散歩しに行った感の強い赤山陣屋でした。
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2019/11/18 18:38
おしゃれな住宅街。 (2019/10/20 訪問)
横浜市の「笹下城」に行きました。
北条家の家臣、間宮氏のお城です。
間宮氏は早雲さんの時代に戦功を立て、相模衆十四家の筆頭になるような武将です。
秀吉さんの小田原征伐の時は「山中城」で活躍します。
家康さんは素晴らしい戦いをした間宮氏の一族(笹下に残っていた方々)を家臣に取り立てました。
その間宮氏は間宮 林蔵さん、杉田 玄白さんのご先祖様だそうです。
成就院辺りがお城跡のようです。
新しい住宅や住宅展示場があり遺構は分かりません。
ただ、広くなったり細くなったりする道路や、波打つような登り坂が「笹下城」と関係しているかもしれません。住宅もすごい高低差があります。
高い場所にあったのは確かです。
水軍にも備えていた「笹下城」。
今は住宅しか見えないけど海の睨みも万全だったと想像できます。
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