徳川家康が上洛する時に利用するためにもうけられた休憩施設で2代将軍秀忠も利用しています。西半分は中学校となってしまっていますが、東半分に土塁、堀がしっかりと残っていて県史跡に指定されています。狭い道を進まなくてはなりませんが駐車場も完備しています。
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2020/02/03 06:09
2020/02/03 03:34
2020/02/03 02:45
十数年ぶりの再訪は城山トレイルランニングに… (2020/02/01 訪問)
旅行の裏目的、スタンプの為米子城址再訪を目論む私は家族を安来の足立美術館に送り米子へトンボ返りした。
スタンプは米子市立山陰歴史館でゲット。職員の方にご丁寧な説明を受け、感激のあまり展示をくまなく見てしまった。
国道9号沿いの桝形門付近は工事のため上がれないとのことで、湊山球場(三の丸)、テニスコート(二の丸)を見た後、内膳丸、本丸と目指した。
足立美術館をゆっくり見ているはずの家族から何度も連絡があり走って見て回ったので、トレイルランニングとなった(; ̄ー ̄A汗だくとなったが、本丸から見渡せる景色は絶景だった。日本海や中海のほか天気が良ければ大山も見えるとか。
毛利方の吉川広家による築城で、岩国転封後は中村一忠により完成。五重天守閣、四層櫓は失われているが、今も石垣が残り往時を偲ばせる山陰随一の名城である。
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2020/02/02 23:41
2020/02/02 22:33
馬場信春公が築城した名城 (2020/02/01 訪問)
武田信玄が馬場信春に命じて1571年に作って、1573年に信玄が亡くなると、亀山城の奥平氏に落とされてしまったとあるが、、、「こんな凄い山城がそんな短期間で出来たのかな?」と素朴な疑問や驚きを感じる。馬場信春公が静岡県に築城・縄張りをした城だけでも1570年に江尻城、小山城が1571年で諏訪原城の築城が1573年だ。しかも1573年の三方原合戦にも参戦していると言う。その中でこの築城は凄い。これだけの城をこの保存状態で現代まで引き継いできた事は奇跡に近いと思う。
帰りに馬場信春(信房)公のお墓参りに寄った。
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2020/02/02 21:43
登米要害古き良き城下町が残ってる (2016/10/04 訪問)
姫松館を終えて以前涌谷城、佐沼城を探訪してましたが寺池館はパスして居ましたので今回の城廻りで初登城しました。
車は麓の観光物産センター駐車場へ停め昼食してから登城、本丸、二の丸跡の現裁判所まで登り、懐古館で登米要害、寺池城の資料館に成って居り見学と勉強、降って大手冠木門、大手口石垣を見学して登米市寺池地区を見学、懐古館では「みやぎの明治村・登米町」とキャッチコピーされてましたので城下町を散策、武家屋敷、武家屋敷門、教育資料館(旧登米尋常小学校)、水沢県庁記念館など古き良き時代の姿を残しています。
奥州藤原氏攻め戦功で葛西氏が領有し下向栄えるが小田原征伐奥州仕置きで改易断絶、奥州仕置で功の有った木村吉清が30万石で寺池館に入るが葛西大崎一揆で木村氏は責任を取らされ改易、以後木村領は政宗領と成り家臣白石宗直が登米要害として継承、伊達姓を賜り明治まで続く、伊達宗家筋と館主は血筋が絶えた時に養子を重ねて明治まで続く。
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2020/02/02 21:14
武田から徳川に寝返った奥平氏築城の城 (2020/02/01 訪問)
今の群馬県高崎市、上野国から出てきた奥平貞俊が築城した城。
まず奥平氏は今の作手中学東側に1424年頃川尻城を築城した。今は公園となってしまっている川尻城だが、本曲輪の南には、冠木門があり雰囲気を残している。築城してすぐに川尻城が手狭になり川尻城から二キロ南に行ったところに亀山城を築城し、川尻城は支城にして移ってきた。1570年〜1573年は武田信玄に仕えていた。その間、信玄は馬場信春に命じて1571年に亀山城の1キロ北側に奥平氏を見張るためと言われているが、古宮城を築いている。1573年に信玄が亡くなると徳川に寝返って、古宮城を落とした後は、亀山城から長篠城主になり、1575年の長篠の戦いで武田の猛攻を凌いで活躍し、出世していったヤリ手一族だ。
城の構造は、低丘稜に土塁で囲まれた楕円形の本曲輪を中心に、曲輪が段々と整然と配置されている。圧倒的迫力の古宮城と比べると、落ち着いた雰囲気すら感じた。
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2020/02/02 20:01
古川城
姉小路(古川)氏の本拠に金森長近が手を加えたことにより、小さいながらもハイブリッドなお城が出来上がった、ということか。
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2020/02/02 19:53
仏坂の戦における主戦場 (2020/02/01 訪問)
井伊家の家臣で井伊谷三人衆の一人と言われた鈴木家が家康の名により1568年に築城した、比較的新しい城だ。
井伊家が活躍していたのは南北朝時代で、井伊家が実権を失ったのも1568年だから、井伊家亡き後、井伊谷三人衆を今川や徳川が担いでこの地を治めようとしていた。
三方原合戦のニケ月前、長篠城から出陣した武田方山景氏に1572年10月攻められた。世に言う仏坂の戦だ。井伊谷三人衆や伊平氏は徳川家康の援軍もさみしく惨敗。三方原合戦後の武田軍侵攻時には井伊谷城を無血開城したようだ。三方原合戦ばかりクローズアップされるが、旧鳳来寺街道沿いでは激しい前哨戦が繰り広げられていた。
国道257号線沿いの道の駅から登城出来て、足元もよく整備されている。縄張りはシンプルだが、ここは本丸や曲輪に柵が設けてあり、嬉しい。本丸までさほどの時間も要せずに登城できる。ちょっと寄るには丁度良い感じだ。
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2020/02/02 19:32
井伊家の本城である三岳城における東の支城 (2020/02/01 訪問)
今から600年ほど前、三岳城の西側には千頭峯城、東側には大平城が三岳城の支城として鶴翼型山城で配置されていたようだ。カッコいい!大平城は県道に駐車し、階段を残っていくとすぐに山道に入り、その足元はかなり険しい。所々遺構は確認できるが、今はかなり木々が生い茂っている。縄張りは非常に大規模な鶴翼型なので、これからの整備や散策を楽しみにしたい。
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2020/02/02 18:32
西都市北部の台地上に築かれた城跡 (2019/01/19 訪問)
西都市の北方に一ツ瀬川の流れの北側の台地があるのですが、西端の崖上に築かれた城跡です。
都於郡城の伊東氏四十八城の一城に挙げられている城で、伊東氏が敗北した時には、長倉洞雲斎が城主であった様です。
城跡は、九州南部に多く見られる構造で、曲輪は、周辺より一段高く切り立っています。
穂北城の碑のある曲輪へは、曲輪と曲輪の間にある堀底を通り、道なりに進むと着きます。眺めは眼下に西都市の中心部を眺められ良いです。
この時は、夏の大雨で道がかなりデコボコしてました。
城跡の殆どが、竹林で覆われ遺構をクッキリ見る事が出来ませんでした。
この城跡へは、西都市の方から行くと、小さい看板があるのでわかりやすいと思います。県道313号線で茶臼原台地へ上がり切る手前で小さな看板があるので、それを頼りに左へ曲がり、看板に沿って行くと穂北城の駐車場があり、3台分くらい停められます。
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2020/02/02 18:03
井伊家の本城である三岳城における西の支城 (2020/02/01 訪問)
本曲輪を中心に、まずニの曲輪が北側に左右対のように配置され、
東は第一から第三曲輪と段々に尾根沿いに曲輪が伸び、西は本曲輪と西側曲輪の間に堀切があり、西側曲輪からは南側に帯状曲輪が段々に配置されている。
南は、綺麗な縦堀が残っており、南曲輪には土塁が丸馬出しのように配置されている。
それぞれ各方向で曲輪の作りも違っていて凄く楽しい!保存状態や整備状況も適当に良く、個人的に好きなお城だ。
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2020/02/02 17:42
一迫川断崖に聳え立つ山城 (2016/10/04 訪問)
伊治城を終えて国道4号線を南下し県道17号線を西へ一迫運動公園を目指す、情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんによる。
近くに来ると川沿いの北側に断崖が続いて居りその上部が城跡と分かるが導入路が分らない県道17号線を少し北上し道路脇東に案内看板が出てる、そこを東に入りし林道を走行すると城域に入るのですが、心配で若干広い林道脇に停めて徒歩で初登城とする。
徒歩で歩きましたが車でも西館櫓台下まで行け駐車可能、草刈りの方々作業され車で来られてました。
西館8曲輪に櫓台、ここらが本丸かと探訪してましたら地元同好の士と遭遇会話して城域を案内して頂く事が出来ました、姫松館保存会に関係してる方ではないかと思いましたが約1時間案内戴きました。
上下二段の横堀、畝状竪堀、大竪堀、土橋と次々目を輝かせるばかりすっかりこの山城を堪能しました、山城廻りでは殆ど人に会う事が無く同好の士の方に会え案内説明頂き感謝感激です、ありがとうございました。
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2020/02/02 17:26
南朝方の支城を四方向に持つ井伊家の本城 (2020/02/01 訪問)
間違いなく、当国一の眺望だ。遠州灘と浜名湖が同方向にこれだけ綺麗に見えるところは他にない。
井伊家は、南北朝時代に南朝に付き、宗良親王を迎えた事が、歴史上重要だ。また、城としては東に大平城、西に千頭峯城、北に天山城(田沢城)、南に鴨江城(今の鴨江神社)を支城としていた。
さて、本城まで三岳神社の駐車場から徒歩30分程度と記載されていたが、徒歩ではなく登山であった。国指定の山城だけど、整備は手をかけすぎずにちょうどいい。三岳神社を出てすぐに奥院跡に出る。石で積んだ階段、良い雰囲気が出ている。途中は、かなりの急勾配でキツく、木の根も階段変わりに登る。登山道を登りきると桝口虎口に出る。虎口から西が一の城、東はニの城だ。一の城には、本丸とニの丸がある。本丸からさらに西に入っていけば様々な遺構があるようだが、一人で入っていくには遭難しそうで危険だ。
ニの城の東端は傾斜は緩やかだが、どこまででも歩いて行ってしまいそうなため、こちらもそこそこで切り上げ。よく見ると、両城とも数段の帯郭が確認出来る。
南北朝時代以降も、その時々の権力者が城を収めて増築したたようだ。
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2020/02/02 17:02
2020/02/02 16:49
古代城柵は国道4号線沿いにひっそりと (2016/10/04 訪問)
鶴丸城を終えて国道4号線に出て南下し道沿いに在る伊治城遺跡と案内看板を見るがただ広い野原を見るだけ、ここが阿弖流為との抗争の場所なのかと思考するが頭に浮かばず、近くの築館町出土文化財管理センターを訪ねて勉強と内部見学、立派な資料を頂く。
センターは伊治城政庁を復元した様な建物、柱が朱で趣が在る。
伊治城は多賀城と胆沢城の中間に当たり阿弖流為抗争時代は多賀城の最前線基地、以降胆沢城、志波城が築城され陸奥奥深く律令国家版図に成って行く。宮城県岩手県秋田県山形県は古代城柵の宝庫です。
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2020/02/02 16:06
栗駒小の北に聳える立派な山城 (2016/10/04 訪問)
秋田の大館城を終えて秋田能代方面の檜山城、脇本城を計画して居たのですが雨が激しくホテルの予約も取れず雨に強い高速道SAでもう一泊車中泊と決め翌日宮城県栗原市周辺の城廻り、若柳金成ICを降りて情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんにより栗駒小学校を目指し直ぐ上の山が鶴丸城と分かるのですが登る道が分らず近くの方に伺って車で登る。
1曲輪の北に駐車場、初登城は1曲輪、2曲輪を眺めて南東の曲輪群が在るのですが眺め草深く困難かなと諦め下城したが余湖図コレクションさんの図を良く見て無かったのかもう少し行った所に畝状竪堀群が描かれて居り見ずに下城した事を後で気付き残念でならない。
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2020/02/02 15:52
2020/02/02 15:32
佐賀城 (2020/02/01 訪問)
佐賀空港から空港バスで途中下車。
かつて4重5階の天守があったとされる佐賀城。
何故か本丸側からは天守に上ることはできず、二の丸側からしか上れない。
幾度か焼失したらしく有名な鯱の門、続櫓は、1838年に再建されたものとのこと。
本丸御殿は2004年に木造復元。
最近では、ゾンビランドサガに登場。
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2020/02/02 14:35
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