ひこにゃんに逢えました。
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2020/02/05 15:25
彦根城 (2020/02/01 訪問)
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2020/02/05 13:50
本丸東石垣、石段が有名な豊後高田城 (2016/10/23 訪問)
平成28年の山城サミット竹田大会当日の午前、早朝に八幡社の総本宮宇佐神宮を初参拝して高田城を初登城、情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんにて昭和の町などの看板を見ながら東追手筋の切通を登って桂陽小学校を目指して中央公民館に車を停める。
同公民館で高田城の情報を尋ねるが詳しい方が不在で情報資料無し、ただ直ぐ直下が有名な石垣、階段でしたので探訪、写真撮影、民家が密接しており撮影に苦慮、小学校が本丸、本丸水堀が写真等で在る事は分かって居たのに学校内に入るのを躊躇して確認できず残念、丘陵の高台南西隅に本丸を設け南側、西側は崖、東、北に二の丸で囲み周囲に土塁と水堀で守りを固めた城郭。
石垣は本丸東角と石段のみで他は自然地形を利用と土塁と水堀、切通。
写真は石階段と隣接石垣のみ。
この後平成28年の山城サミット竹田大会会場の竹田高校体育館へ参集、圧巻は香川元太郎画伯の岡城復元俯瞰図が大画面で印刷され体育館二階より垂れ下がって居り見事な出来、写真撮影も了解されました。
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2020/02/05 07:37
石垣 (2020/02/04 訪問)
現存天守のイメージが強かったのですが、実際に行ってみたらむしろ高石垣こそがこのお城の見所なのではと思いました。
今は南側の石垣の一部が崩れてしまっていて工事中。応援キャンペーンとして、丸亀城敷地内を回るスタンプラリーを実施されてます。途中の観光案内所で台紙を購入する必要があります。
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2020/02/05 06:26
2020/02/04 23:05
畝堀や障子堀が残る北条の城 (2020/02/01 訪問)
御殿場線山北駅から徒歩で15分くらいで登城口。
整備された坂道を登ると茶臼郭、小郭との間に畝堀(障子堀)があります。
水がたまっていてカエルのたまごがたくさん。
もう春なんでしょうか。
小郭と本郭の間にも畝堀、北条らしさを感じます。
本格の先には馬出郭、その先に西郭、北郭と続きその間にも堀切があります。
本郭東側には蔵郭、近藤郭、大庭郭と連なり、ここも堀切で区切られています。
蔵郭と近藤郭の間は障子堀になっています。
遺構もよく残っていて見応え十分の城でした。
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2020/02/04 17:18
一日市場館(岐阜県瑞浪市) (2020/01/19 訪問)
一日市場館(ひといちばやかた)は、酒呑童子や土蜘蛛退治で知られる源頼光の後裔で源頼朝の御家人の源光衡が、鎌倉初期に本拠としてこの地に築いた館で、地名にちなんで土岐氏を称したことから、土岐源氏発祥の地とされます(先日の麒麟がくる紀行でも取り上げられていました)。南北朝初期に美濃国守護に任じられた土岐頼貞が大富館に移り、さらに守護所が長森城、川手城と移る中、廃城となったと思われます。
比定地は八幡神社の境内になっていて、明確な遺構はありませんが、土岐川の段丘の南端にある位置と周辺からの出土品から、有力者が居館があったことが想定されます。また、社殿の裏手には境内の北辺沿いに土塁状の盛り土が見られます。
その他、境内に土岐源氏発祥の地の石碑や初代・光衡公の銅像があるのはわかるとしても、明智光秀も土岐一族(土岐明智氏)だというだけで「明智光秀公ゆかりの地」の石碑と石像はやりすぎでは? と思っていましたが、帰ってから調べてみると、一日市場館も明智光秀生誕地のひとつだったんですね。なんでも、この地の井戸で湯浴みして、2歳で叔父の明智光安に引き取られたんだとか。
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2020/02/04 11:04
山麓は成羽陣屋 (2016/10/22 訪問)
平成28年の山城サミット竹田大会前の岡山県広島県未踏の城廻りと2日前に出発して美作勝山城、同城下町散策して備中鶴首城山麓の成羽陣屋を探訪、車は陣屋前の駐車場に停め、鶴首城は高く急峻で体力に自信なく登る気力も無く麓の登城口のみ確認。
成羽陣屋を囲む石垣城塁は素晴らしい、流石因幡若桜城山頂の石垣曲輪群、肥後富岡城の石垣、讃岐丸亀城の高石垣を築いた名築城者山崎家治の息子、山崎豊治と感心した。
旗本交代寄合5千石にしては立派過ぎる石垣城塁です、同美術館、成羽小学校と周辺を探訪、石垣門で御作事門、大手門、御庫門の造りも素晴らしく、御庫門を入って小学校には武者走りも残っている。
終わって近くの三村氏居館跡、備中松山城を見ながら山中鹿之助の墓、常山城の登城口、鞆の浦、鞆城、同博物館、因島に渡り因島水軍城を雨の中廻りました。
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2020/02/04 06:26
2020/02/04 02:13
広い! (2020/02/02 訪問)
名前の通り、二つの山を利用した城郭です。広いです。
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2020/02/04 00:17
柳之御所遺跡 (2020/01/19 訪問)
古代城柵官衙(蝦夷征討)の時代、奥州藤原氏の時代、秀吉の奥州仕置の時代、どの時代にも苦難や悲哀の歴史がありますが、その中にも心惹かれる物語があり、東北地方に行くのが楽しみな昨今です。
到着したのが正午少し前。どこまでも澄みわたり、抜けるような冬の青空の下で柔らかな日の光を全身に浴びているととても贅沢な気持ちになりました。
みなさまのご投稿を拝見すると長い間整備中のようですが、この日もまだ一部整備中でした。でも解説板や館の平面復元、井戸や廃棄穴の復元など充分に楽しめました。
資料館は閉館中でしたが、2021年にリニューアルオープンというtodo94さんのご投稿を読んでいたのでがっかりせずにすみました。情報ありがとうございますm(_ _)m
その頃には館跡の整備もきっと終わっていると思いますので、再訪できたらいいのですが。
グーグルマップの“便所遺構”、何でここだけ載せた?っておもしろがってしまいましたが、歴史を繙く上で貴重な史料なので「すごいものがここにたくさんあるぞ!」ともっとアピールしてもいいくらいなんですよね。
近くに伽羅御所跡入口の案内標柱があったので駅に戻る途中に寄ってみましたが、民家の塀際に説明板があるだけだったのでググってみたら『歴史公園えさし藤原の郷』に行き着きました。すごく楽しそうなテーマパークで、行きたくてたまらんです(((o(*゚▽゚*)o)))
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2020/02/03 22:08
今川方が対徳川のために築いた城 (2020/02/03 訪問)
堀川城と刑部城、井伊谷城に近いから井伊家に関係するお城かと思っていたが、どうやら違うようだ。桶狭間の戦いで今川義元が亡くなった為、今川方が対徳川のために都田川の河口に、左岸に刑部城を、右岸に堀川城を築いて徳川に対抗したとの事。刑部城は三方を都田川に囲まれた要塞だったようだ。当時のこの地方では、徳川方が嫌われていたようで、堀川城の戦いでは、地元民が堀川城に立てこもり徹底抗戦したとの事。城の形跡が全く残ってない事からも、家康に完膚なきまでに玉砕された様子が伝わってくる。家康の人生で最も残忍な攻撃だったようだ。またその後の刑部城だが、三方原合戦後に西に向かう信玄が病に倒れた所と言われている。
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2020/02/03 20:37
2020/02/03 20:28
境水道大橋のたもと (2020/02/01 訪問)
城びとを見て鳥取藩台場跡があると知り立ち寄りました。
美保湾から松江城下に直結する境水道の抑えに造られ、鳥取藩最大の敷地に近くの反射炉で鋳られた12門の大砲が据えられていた台場とのこと。
敷地内には境港灯台が復元されているが築造は明治期で復元は山形のものをモデルにしたそうな。
松江からベタ踏み坂を通り水木しげるロードとともにお楽しみください。
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2020/02/03 20:00
国宝天守閣は何度見ても美しい✨ (2020/02/01 訪問)
こちらも若い頃から何度も訪れております。スタンプもとっくに終わっています。
今回は城北側の塩見縄手沿いで小泉八雲に触れたかったのです。大人になったら余裕のある文化的な旅を、と思い行きましたがそば食っただけで次の目的地に(T^T)
情けなさのあまり立ち止まって松江城をパシャリ📷
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2020/02/03 19:57
土岐氏繁栄の地 (2020/01/11 訪問)
【川手城】
<駐車場他>駐車場なし。
<交通手段>徒歩 加納城跡駐車場から徒歩で行った。
<感想>加納城跡を見学後、近いのでそのまま歩いて来た。城跡碑は済美高校の一角にありますが、一般道の脇にあるので許可なく自由に見学できます。現在は城跡碑・説明板・祠・遊具があるのみです。
川手城(革手城)は第3代守護職土岐頼康が1353年に長森城から移り築城し斉藤道三が稲葉山に城を移すまでの11代土岐頼芸までの間、土岐氏の本城としていた所。荒田川と木曽川の間に挟まれた地形を利用して、城というよりは神社・仏閣を建て、本殿も御殿風の建物だったらしい。応仁の乱後、京より逃げてきた公家たちが守護土岐氏を頼り繁栄したそうです。
繁栄した川手城だが江戸時代には加納城築城の為家康に土塁の土まで持っていかれたそうです。
この日はこの後岐阜城の売店にて御城印を購入して全工程を終了できた。岐阜城2016年に行った時は全然居なかったのに中国人の多さにびっくり!この旅走行距離記録忘れにて不明。
<満足度>◆◇◇
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2020/02/03 19:05
下から見ただけです。 (2020/02/01 訪問)
月山富田城について、テレビで航測したとか見てしまった。。。
足立美術館への道すがら、かなり遠方から城が見えてますやんー。
てことで、下から見上げられる位置まで行きました。ただそれだけです。スタンプはとっくに終わっています。何回か来ています。(家族の監視により登れませんでした)
ちょこっと立ち寄った安来私立歴史資料館では、ギリギリのパロディーポスターが。笑いの分かる職員さんがいきさつを熱心に説明してくれました(笑)
何度来ても素晴らしい山城です。
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2020/02/03 18:04
名古屋城🏯✨\('ω')/ (2020/02/01 訪問)
やっと名古屋城に行ってきた!
ほとんどの人がマスクしてたのに
中国か台湾かワカンナイけど
その団体(家族?親戚とか?)がマスクしてなかった(*`Д´)ノ!!!
しかも 食べ物屋さんで座った席では前も後ろもで日本語じゃなくて・・・
それなのにマスクもしないでむっちゃ喋ってて
ホントにめちゃくちゃ怖かった><
こんなに新型肺炎が流行ってるのに
なんで無関心なんだろうこわい
お城は 工事だか何だかで
中に入れなくて残念だったな( •᷄⌓•᷅ )
てか お城の中に入れないのに
入場料?500円かかったどゆこと( ゚д゚)ポカーン
・・・と そいえばο
名古屋城の御城印 なんかビミョーに大きくて
ちょっと切らないと御城印帳に入らなかった 汗
何にしても 天守閣行けなかったから
また行かなきゃ(˙꒳˙ )
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2020/02/03 17:34
落合砦(岐阜県恵那市) (2020/01/19 訪問)
落合砦のほか、千畳敷砦、土岐明智城、多羅砦とも呼ばれます。
鎌倉中期、遠山景重が明知城を築いた際に出城として築いたと伝わり、天正年間には串原遠山氏の遠山経景が守備にあたるも、武田氏に落とされたようです。
最高所が主郭で北側の頂部に出丸、その間に三の曲輪を配した縄張りで、主郭の東側は一段低くなっており、枡形のような構造が見られます。東端には虎口があり、こちらが大手道のようです。周囲には腰曲輪を配し、切岸もなかなかの高さがあります。出丸は展望台やアンテナ設置による改変で遺構は見られませんが、眼前の明知城と仲深山砦とともに眼下の街道に睨みを利かせる立地であることがよくわかります。三の曲輪には、明智光秀公産湯の井戸と伝わる井戸があり、この井戸から得られた宝珠が主郭の恵比寿神社に祀られているとか、底の横穴が抜け穴になっているなどの伝説もあるようです。
ところで、ぴーかるさんの投稿にあるように、恵那市観光協会の案内図やパンフレットには「室町時代には明知城は明智遠山氏、土岐明智城と仲深山砦は土岐明智氏の勢力圏」とありますが、土岐明智氏の勢力圏だった時期はあったとしても、武田勝頼の侵攻を受けた時点では遠山氏が守備しているようですし、立地条件や歴史的背景から考えても、私もぴーかるさん同様に落合砦は仲深山砦と併せて明知城の出城として機能していた(時期がある)ように思います。
また、土岐明智城や多羅砦という名称にしても、従前からの説明板には落合砦や千畳敷砦の表記はあっても土岐明智城や多羅砦はなく、近年になってにわかに使われだした(ように思える)ことから、ひねくれた見方をするなら、大河ドラマにあわせて産湯の井戸がある落合砦を土岐明智氏とされる明智光秀の生誕地として売り出す上で、落合砦が明知遠山氏の砦であっては都合が悪いので、ことさら「土岐明智」の名を使っているのかなぁ、とも。多羅砦についても、光秀を「濃州多羅城誕生」とする史料があるからでしょうし。
…まぁ、実際のところはわからないわけで、ゆかりの地がいろいろあるほうがめぐり甲斐があっていいんですけど、いくら光秀が前半生不詳だからといって、生誕地だけで岐阜県内に5箇所(滋賀県にも1箇所。もっとあるかも)というのはさすがに…(笑)
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2020/02/03 17:29
吾妻川河岸段丘を活用した城 (2016/10/05 訪問)
名胡桃城を終えて関越道経由し渋川伊香保ICを降りて国道17号線を北上し吾妻川を渡り白井宿を通り少し迷いましたが情報はガイドは何時もの城郭放浪記さん、余湖図コレクションさんにてナビに本丸辺りを入れてそのまま三の丸二の丸の畑の真ん中の道を奥に進んで本丸に駐車、本丸も一部畑に成っています、雨上がり草は深く人踏道、土塁上を歩き探訪。
二の丸三の丸は畑ですが北郭間夫々の曲輪間には堀跡の痕跡が有ります、本丸は周囲が土塁、塁上に散策道が付いてる、城域西は吾妻川の断崖で本丸の先に小曲輪の笹郭が在る。
小田和征伐後家康関東移封後本多康重が2万石で入って居り転封の約10年で近世城郭に修復改造したのではないかと考えたりするのですが?
結構見応えの有る城郭です、渋川市の城の有効活用を期待したいものです城域は私有地の様子。見学させて頂き感謝です。
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2020/02/03 14:07
小田原征伐要因を作った真田の城 (2016/10/05 訪問)
大河ドラマ真田丸も放映中探訪しようと群馬県北部の真田の城名胡桃城を初登城、青森、宮城城廻りの翌日拠点にしてる宇都宮から日帰りで名胡桃城を始め周辺の白井城、前橋城を探訪しました。
宇都宮から北関東道、東北道、関越道経由して月夜野ICを降りて国道17号線を新潟県方向へ利根川を渡り坂を登ると名胡桃城案内板及び案内所有、般若郭の駐車場に停める。
発掘調査され復元整備され大変歩きやすき案内解説板が各曲輪に設備され見やすく理解しやすく成って居ります若干整備し過ぎ感も有りますが大河ドラマ真田丸で大勢の人出で遺跡が壊れる事を考えると致し方無し。
三郭前の三日月堀も地表展示、三郭の丸馬出三日月堀展示、土橋、左右の堀、二郭内部の建物地表展示、二郭枡形復元土塁、櫓台、本郭土橋、左右の堀、復元木橋、笹郭土橋に仮設通路、笹郭先端から沼田方面が眺望できます。
武田氏滅亡後真田氏北条氏の領地争いを秀吉の裁定で沼田城は北条氏、利根川を隔てて名胡桃城は真田氏と成りましたが北条氏が名胡桃城を攻略して裁定違反の北条氏征伐の契機となり、秀吉のよる小田原征伐、奥羽仕置き秀吉による天下統一と成ったきっかけの城。
名胡桃城案内所で資料展示見学し資料を頂く。
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