丸石の石垣が珍しい。
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2019/07/28 15:31
横須賀城 (2018/05/27 訪問)
丸石の石垣が珍しい。
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2019/07/28 15:24
久野城 (2019/06/09 訪問)
カモシカに会いました。
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2019/07/28 15:16
造山古墳…もとい毛利方の陣城跡。 (2019/07/21 訪問)
岡山市北区、造山古墳は5世紀前半に吉備一帯を治めていたと思われる一大勢力により築造されたと推定されている、全国でも第4位の規模を誇る前方後円墳です。
…何故『城びと』なのに古墳を紹介するのか?
実はここ、備中高松城攻めの際に羽柴勢に対抗すべく、毛利方が造山古墳を利用して築いた陣城だったのです。
南の日差山には小早川隆景の陣もあり、造山古墳からも割と近いです。
陣城の遺構としては、主に後円部に集中しています。
頂上部が主郭として利用され、やや方形に土塁が築かれています。斜面には竪堀や郭跡らしき小さなテラスがいくつか見受けられます。
ちなみに、誰がここを築き、守っていたのかは不明だそうです。
古墳を利用して城が築かれるというのは決して珍しい事ではなく、代表的な例としては高槻市の今城塚古墳や大阪市の茶臼山古墳などがありますね。大坂城の前身である大坂本願寺も古墳を利用したという説があります。そういえば大坂城本丸の形、どことなく古墳っぽい気が…。
『城びと』には登録されていませんが、備中高松城水攻め関連遺跡としても古墳好きとしても見所のある、面白い場所だと思います。
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2019/07/28 14:29
社山城 (2019/01/05 訪問)
遺構が複雑で面白い。
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2019/07/28 14:19
其の弐、宗治公胴塚から蛙ヶ鼻の築堤跡を探訪。 (2019/07/21 訪問)
本丸跡の北側一帯は、『家中屋敷』といわれる郭の跡です。
その一角に、清水宗治公の胴塚があります。
しかしどうみても私有地というか民家の庭先なので遠慮気味にお邪魔して、手を合わせてきました。
舟上で切腹を終えて城内へ戻った首の無い宗治公の遺体。それを見て城内の一同は嗚咽を隠せなかったそうです。そしてすぐに手厚く葬られたのですが、その際に介錯人を務めた国府市佑は自らの首を掻き切り、墓穴に落ち込んで殉死したそうです。…壮絶。
三の丸跡の駐車場に戻って…と、その前に見逃せないのは『清水宗治公自刃の地』。その名も高松山妙玄寺の境内にあります。
家臣城兵とその家族の命と引き換えに切腹に臨んだ宗治公。その前に秀吉からは酒肴と切腹の為の舟が用意され、謡曲『誓願寺』を舞った後に辞世を詠み切腹したその姿勢は秀吉をして「武士の鏡なり」と感嘆させ、後の世の切腹の作法の手本となったとか。
ちなみに、城の守護神は妙玄寺に祀られたあと、後に最上稲荷妙教寺の妙見堂に祀られているそうです。
そしてその自刃の地すぐ南に『ごうやぶ』と呼ばれる一角があります。
ここは家臣二名が「我らもお供仕る」と宗治公の後を追って差し違えた場所といいます。ここでも壮絶なエピソードが…。
そして最上稲荷の大鳥居方面にマイカーを走らせ、いよいよ蛙ヶ鼻の築堤跡へ。
築堤の規模などについては諸説あるようですが、僅か12日間で高さ約6mの堤防を築き上げ、足守川をせき止めて高松城を見る見るうちに孤立化させたのですね。
堤防は現在ごく一部が残るだけですが、発掘調査によると、土俵を積んで木杭で固定工法であったことが判明しております。土俵だと版築とか土を直接積み上げるとかよりはるかに早く高く積めます。尚且つ、現代の土嚢と同じくしっかり隙間なく積めてさえいれば決壊しにくい。よく考えられてますね。
秀吉といえば水攻めは代名詞みたいに語られていますが、実は水攻めの成功例は世界的に見てもあまり無いようで、高松城の水攻めはその数少ない成功例だそうです。今度ちゃんと調べてみようかな。
まさに物量面や資金面のみならず、人員やその士気が高かったことも、全てがかみ合って上手くいったからこその勝利と言えるでしょう。
この他にも高松城攻略関連の遺跡は数多くあるようですが、今回はここまで。
他に目的地があったので、今回行けなかった最上稲荷とともに、また次の機会に。
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2019/07/28 14:12
2019/07/28 13:42
郭は畑ですがよく整備されています (2019/07/27 訪問)
近くに駐車場はありません。
搦め手となる妙見社から登城しました。
登城道は竹藪ですが綺麗に整備されています。
しばらく登ると奥仲城の虎口、郭は畑になっていました。
さらに進むと主郭跡の碑が立っていて空堀や横矢係りが観察できます。
仲々城にも空堀がありました。
その先、大手門方面にも行けるそうですが時間がなく引き返しました。
訪問する価値はあると思います。
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2019/07/28 11:39
其の壱、舟橋跡から本丸跡を歩く。 (2019/07/21 訪問)
※先に謝っておきます。スミマセン、前編後編に分けます…m(_ _)m
以前から行きたかったのに、足守の陣屋町や吉備津神社などでタイムリミットだったりと御縁がなかなかなかったのですが、ようやく訪れる事が出来ました!
秀吉による指揮の元、黒田官兵衛の献策による水攻めで余りにも有名なお城なので、細かい歴史や経緯は割愛。しかしここから秀吉の天下取りに向けての進撃が始まり、歴史の一大転換の地となったと思うと、もうそれだけで胸熱です!
そして大河ドラマ『軍師官兵衛』における岡田准一さん演じる官兵衛の、あの狂気を帯びた表情で竹中直人さん演じる秀吉に対し「御運が開けたのですぞ!!」と焚き付けるシーンが脳裏に浮かびます(笑)。
まずは『舟橋』から。
今はコンクリートの小さな橋ですが、当時は川船を並べてその上に板を渡して橋とし、有事の際は撤去して防御を固めた構造だったとか。
四方が田畑や沼地だったという高松城らしい軍事設備です。
そして三の丸跡の駐車場にマイカーを停め、早速城内へ。
午前10時半到着の時点で車はイッパイ。なかなかの人気振りです。蓮の花がもうすぐ見頃を迎えるということで、多くの方々がカメラを構えていらっしゃいました。
現在城域の大半は民家や田畑と化していますが、当時は本丸の南に二の丸が連なり、それらを家中屋敷群や三の丸が北から東にかけてコの字状に囲み、西一帯を広い蓮沼で防御を固めていたようです。
その蓮沼は史跡公園として美しく整備された際に復元されましたが、そのうち蓮が『勝手に生えてきた』そうです。蓮凄い。宗治公も堀一面に咲く蓮の花を見ていたのでしょうか。
てか、攻め手側にしてみれば、蓮がこれだけ密集していればなかなか容易に近づけないことでしょう。
あと、三の丸と二の丸との間の堀跡に位置(推定)する資料館は必ず訪れてみて下さい。パンフレットや展示物などなどしっかり情報収集出来ますし、スタッフの方々が親切に教えてくれますよ。また、撮影OKとのことで、昭和60年の水害の時の写真パネルを撮らせていただきました。水攻めの時の様子を彷彿とさせます。高松地域の地理がとてもよくわかります。
ちなみにこちらにて『備中高松城 水攻めの史跡を歩く』の冊子を購入しました。200円也。
大半が民家となっている二の丸跡を抜け、いよいよ本丸跡へ。
やはり本丸跡周辺が当時の面影を一番残しているのではないでしょうか。僅かながら周辺より少し標高が高く感じます。
本丸跡に来れば、清水宗治公の首塚に手を合わせておきましょう。
元々は秀吉の本陣だった石井山に、首実検を終えた後に家臣に命じて造らせたのを、明治になって本丸跡に移したのだとか。
宗治公にとっては敵陣から城を見下ろすよりも、城に里帰りしたほうが安らかに眠れるのでしょう。胴塚も近いですし。
いろんなことを考えながら、蓮沼越しに本丸跡をしばし眺めた後、家中屋敷跡と胴塚へ向かいました。
後編へ続かせていただきますm(_ _)m
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2019/07/28 11:29
浜松城 (2017/02/19 訪問)
周辺の木が少しずつ伐採されていて、よくなってきました。
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2019/07/28 11:23
中世宇土城 (2019/07/25 訪問)
横堀が残ってますが風化を防ぐためモルタルで固めてあります。
宇土城(近世宇土城)はすぐそばにあります。
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2019/07/28 11:15
近世宇土城 (2019/07/25 訪問)
破却され遺構は少ないですが石垣が残ってます。
駐車場は墓所を抜けたところにあるので夜に通るのはちと怖いかも…
宇土古城(中世宇土城)はすぐそばにあります。
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2019/07/28 11:13
堀江城 (2019/07/21 訪問)
ホテルの駐車場からの眺めです。足湯があります。
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2019/07/28 08:11
雨上がり (2019/07/20 訪問)
戸次川の戦いでこの城側から鶴賀城救援のために、仙石秀久が渡河を強行して島津家久に大敗を喫します。小規模な丘城で見るべき遺構は殆どないと言って良いかと思いますが、大野川の対岸に古戦場の表示、そして長宗我部信親の墓が建っています。
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2019/07/28 07:42
前期と後期 (2019/07/10 訪問)
真田城に続けて岡崎城へ行きました。
約3.8㎞離れていましたが、手っ取り早い徒歩で。
真田義忠は岡崎四郎義実の嫡子、という関係のある二城です。
目指す無量寺は結構な坂道を上ったところにありましたが、入り口の『岡崎城址』の大看板を見た瞬間、疲れも吹っ飛びました。
看板や城址碑の疲労回復効果は絶大です。
ところが、説明板を読むと岡崎城には前期と後期があり、無量寺は後期岡崎城。
岡崎四郎時代の前期岡崎城はここではなく、岡崎神社とのこと(゚o゚;;
岡崎神社もあとで行くことにして、まずは無量寺周辺を偵察。
郭があったと推定される裏山の奥に四郎さんのお墓があるようで、入り口はすぐに見つかったのですが、お墓はここから360m入った先ですと。(写真④)
裏山の遺構を見ながらお墓まで行けそうだったのですが、見るからに藪。
行きたい<行きたくない
自分の気持ちには正直に。撤退。
そして前期岡崎城の岡崎神社に向かったのですが、そちらでは城址を示すものは何も見つけられず、ただでさえ遠い駅までの道のりがさらに約1km遠くなっただけでした_| ̄|○
…でも何もないということがわかったので行ってよかったです(^-^)/
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2019/07/27 23:41
2019/07/27 20:59
谷山本城 (2019/07/22 訪問)
谷山隆信が南北朝時代、懐良親王を迎え島津氏と戦った城
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2019/07/27 20:50
2019/07/27 19:57
2019/07/27 19:38
2019/07/27 17:43
関ヶ原の戦い (2019/07/15 訪問)
岩国城は慶長6年に吉川広家入国後、築城が始められ現地調査の後、山麓の御土居建設から着手されました。続いて山上の城郭工事が計画され、慶長8年から開始されました。岩国城の縄張りは山頂部の本丸を中心として北東側に北の丸、東西側に二の丸、西側に水の手郭4つの曲輪で構成され、本丸には山陽道側に天守が設けられていました。
吉川広家といえば何と言っても思い出されるのが「関ヶ原の戦い」ではないでしょうか?最初、石田三成率いる西軍に属していましたが、徳川家康率いる東軍への寝返り組の一人として記憶しています。
西軍の総大将 毛利輝元 毛利一門でありながら、小早川秀秋・吉川広家が寝返ったことにより、西軍が負け、東軍の大勝利となりました。(諸説あるようですが、戦う以前から徳川家康と密約ができており、毛利家領土112万石安堵を条件に決戦前夜に寝返りを決心したと伝わっていますが、結局、毛利輝元が西軍総大将であったことから、密約が反故にされ周防国の東部と長門国30万石に厳封されてしまいます。)毛利元就公の「三本の矢」は生かしきれていなかったと言えますよね(o゚ω゚)チーン
もし、毛利家一門の裏切りがなく、石田三成・毛利家家臣の安国寺恵瓊等と一緒に戦っておれば、歴史は大きく変わったのではないかと
妄想しながら城跡を堪能させて頂きました。
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