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イオ

関ケ原古戦場(両軍・垂井町編) (2020/02/01 訪問)

関ケ原古戦場めぐり第3回は、両軍に関する史跡と垂井町にある陣跡です。

関ケ原古戦場開戦地

松平忠吉・井伊直政隊が、東軍先鋒の福島正則隊を出し抜いて宇喜多秀家隊に発砲、遅れじと福島隊も宇喜多隊に攻撃を掛けたたことにより関ケ原の戦いの開戦となりました。
天満山東麓の運動広場前に開戦地の石碑があり、無料駐車場も設けられています。

関ケ原古戦場決戦地

笹尾山の石田三成陣と徳川家康最後陣の間では最も激しい戦いが繰り広げられ、小早川秀秋の寝返りにより西軍が総崩れとなる中、最後まで持ちこたえていた石田隊の壊滅により決着となりました。
笹尾山の無料駐車場から西に徒歩3分の辺りに決戦地の石碑が建てられています。

東首塚

戦後、徳川家康の命により関ケ原一帯を領していた竹中重門が戦死者を埋葬するために造営した首塚で、塚の姿は残っていないものの、スダジイの古木と、江戸後期に建てられた首級墳碑、昭和前期に移築された尾張藩・徳川宗春ゆかりの唐門と供養堂が見られます。松平忠吉・井伊直政陣跡の石碑も東首塚の敷地内にあるので、併せてどうぞ。

西首塚

竹中重門が造営したもうひとつの首塚で、現在も塚は残っており、江戸後期に建立された観音堂とともに、今なお地域住民により戦死者の慰霊が行われています。西首塚の前、国道沿いに2台ほど駐められる駐車スペースがあります。

浅野幸長陣跡(垂井一里塚)

浅野幸長は岐阜城攻略の後、南宮山の諸隊に備えて中山道・垂井宿の西に布陣しました。
垂井一里塚の石碑の前に、陣跡の説明板と幟旗があります。駐車場はないので、一里塚の近くにちょっと路駐させてもらいました。

池田輝政陣跡

池田輝政は岐阜城攻略の後、南宮山の諸隊に備えて南宮山北麓に布陣しました。
墓地の手前に陣跡の石碑と説明板があります。また、隣には結城合戦に敗れて捕らえられ、京都に護送中に殺された足利持氏の遺児、春王丸と安王丸の墓があります。国道沿いの案内標識に従って、焼肉店脇の細い道を入った先にある墓地の駐車場に駐めて訪問しました。

長束正家陣跡

長束正家は南宮山の東麓に布陣し、池田輝政隊と交戦しましたが、東軍に通じていた吉川広家の妨害により攻勢に出ることができませんでした。
県道沿いの案内標識に従って進んだ先の八幡神社手前の空き地に駐車。説明板と幟旗が建てられています。

長宗我部盛親陣跡

長宗我部盛親は南宮山の背後にあたる栗原山に布陣しましたが、東軍に通じていた吉川広家の妨害により参戦することができませんでした。南宮山に陣取る毛利秀元への出陣要請をめぐってのやり取りは「宰相殿の空弁当」として知られます。
県道沿いの案内標識から未舗装の細い道を入った先にある清水寺公園に説明板と幟旗があり、公園の手前に駐車可能なスペースがあります。…というか、公園までは対向も方向転換もできず、このまま進んで大丈夫か不安にさせられました。

…ということで、本当は南宮山にも登りたかったんですが、この日はこの辺で時間切れ。道路工事中で行けなかった脇坂安治陣跡とあわせて、岐阜関ケ原古戦場記念館のオープン後にでもまた訪れたいと思います。

それにしても、これまでも一応知識としては知っていましたが、実際に関ケ原古戦場をめぐって、それぞれの陣の配置や距離感を体感したことで、関ケ原の戦いをより実感として理解できたように思います。なかなか興味深い経験でした。
 

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刑部

小さいが見応えのある城址 (2020/03/01 訪問)

農村の住宅地の中に城址はありました、軽自動車なら主郭部まで車で行けて駐車も可能です。近くの住人の方が大切にしている感じでよく整備されています。案内板、虎口・空堀・土塁・横矢・土橋と小さいながら見応えがありました。

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JPN-AZE

The martial arts show and reproduction of war (2019/05/26 訪問)

私が住んでいるところから近いにもかかわらず、ここを訪れたのは、去年5月でした。最初は見るだけでしたが、同じ月に、「第8回戦国滝の城まつり」があり、また訪れました。結構な人出でしたが、剣術披露や、城の伝説、更には豊臣方と北条方の攻防戦の再現等があり、なかなか見応えがありました。

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くじら

岩山 (2020/02/27 訪問)

橋の上から見れて、そこからの苗木城と山、川の見え方がとても綺麗です。
城跡からも四方八方見渡せて、とても素敵でした!

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コバトン

佐伯湾を見渡せる絶景 (2019/12/08 訪問)

佐伯駅から徒歩20分くらい。お城の麓は城下町の面影を残すきれいな街並み。鳥居をくぐって少し登ると道が三方向に分かれている。天守を目指すので迷わず「登城の道」を進んだら、かなり険しい山道が続き、雨上がりのぬかるみもあって一苦労。頂上付近に石垣が見えてくる。2万石の豊後佐伯藩にしては立派な石垣で曲輪の配置も実践的。また本丸から佐伯湾の見晴らしは最高!一通り天守や廊下橋、曲輪を堪能した後、帰りは比較的緩やかな独歩碑の道を通って帰りました。

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ぴちょまる

小田原城 (2020/02/29 訪問)

二度目の小田原城。
残念ながら、またも曇り空……
蒲鉾を買って帰るに留まる。

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ヨッシー

相変わらず素晴らしい (2020/02/25 訪問)

太鼓櫓が初公開ということで、3回目の訪問です。
相変わらず、その規模に圧倒されますね。
※参考までに写真アップしておきます。

今回は2日間滞在して、シルバーガイド(2000円)の方に案内して頂きました。
詳しく・面白く・丁寧に解説して頂き、とても勉強になり良かったです。
はやりその価値はあると実感出来ました。
未公開のエリアはまだ存在するようなので、
今後がまだ楽しみとなりました。
また、「勘兵衛の石垣(Ⅰ期)」は、看板のところ意外にも、
沢山ある事が分かりました。


晴天天守ショットを狙っていたのですが、収穫は1枚だけでした(T_T)
またリベンジしたいと思います(西の丸からが撮りたいですね)。

城郭センターにも伺って来ましたが、
興味深い資料が沢山あってとても面白かったです。
研究所出版の本が特に分かりやすくていいですよ!
これはオススメです。

それと、レンタサイクル。
これもとても使いやすくてこれもオススメです!



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ひろべえ

光秀・高虎ゆかりの城 (2020/02/23 訪問)

周山城から国道477号線をハラハラしながら移動してついに丹波亀山の地へ。明智光秀ゆかりの城であり、高虎が築いた初の層塔型天守がそびえていた城。明治期に建物はおろか、石垣まで撤去されて見る影もない城址を大本教祖の出口王仁三郎師が城址を買い取り聖地とした。昭和初期の弾圧を経て、石垣を再構築するところまでは知識として知っていたので、どんなところか興味を持ちつつ攻城。大河ドラマ放映を記念して、来年1月17日まで聖地として制限されていた天守台に上がることが可能になり、とてもラッキーでした。みろく会館で受付の際はとても丁寧な説明を受け、パンフレットを戴く。2Fでビデオを視聴し、出口師の亀山城再建への思いと信者達による石垣積み直しの歴史に触れる。石垣積み直しに取り組んでくれて感謝です。その後、南側内堀跡(万祥池)→本丸石垣→天守台へ。伝明智光秀公手植えのイチョウの木を間近に見る。万祥殿の石垣から刻印を探し、保津門跡付近から北側堀跡(南郷公園)を見て攻城終了。大河ドラマ館は駐車場満車のため、諦めました。秋にもう一度イチョウの木を見たいと思います。

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姫街道

東三河の要衝 (2020/03/01 訪問)

今川7代目の氏親の命により牧野氏築城だが、三河支配権を巡って入れ替わりが激しく、今川氏の統治時代は一旦落ち着いたに見えるが、桶狭間の戦いで義元が倒れると徳川支配下の酒井忠次が城主となり、豊臣政権時の池田輝政時代に大改修が行われたようだ。三重堀の84万m2というから広大だ。
豊川による後ろ堅固の城だが、豊川から本丸までの高低差が小さいのが、弱点ともとらわれたのか、徳川家康は自らの居城としなかったようだ。言われてみれば、犬山城や二俣城と比べても川の水面まで近いかも。。しかし堀はどれも立派で、本丸は高い石垣に囲まれて堅固であった事がわかる。

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姫街道

武田信玄公最後の城攻め、野田城 (2020/03/01 訪問)

今日は、三方原合戦後の武田軍の侵攻路、井伊谷から宇利峠を超えて野田城へ向かった。
1月〜2月は最も寒い頃、既に病を発病していた信玄公には宇利峠超えはキツかったと思う。さて、野田城は伊那街道が城の北側に通る要所にあり、城は東西両側が谷で自然の川を堰き止めて堀としている。本丸・二の丸・三の丸と大堀切によって形良く仕切られ、中央で土橋により接続されている。南北には侍屋敷が配置されており、500人程度の兵力で30,000人の武田軍に対抗出来るだけの構造であったという事であろう。武田との戦い以前は、菅沼氏が今川氏に離反・開城させられたが、夜襲してまでも取り返したという城だ。遠江地方では、馬伏塚城に感じが似ている。この堅固な「平山城」に来て、南北朝時代や戦国時代初期はそれほどの大人数の戦いではなく「山城」が守るに圧倒的に有利だが、それ以降は武器の進歩や、戦いに動員する人数も増えて一概には山城有利とは言えなくなったのではないかと感じる。「武田信玄 最後の城攻め」が有名で看板にも大きく出ているが、菅沼氏が築城し、今川・徳川と仕えてきた城であり、武田に落とされはしただろうが、武田方の城の雰囲気は無く、独自性のある良い城だと感じた。

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

本日一番苦労した山城ぽい。登城中に鉄砲持った狩人に熊出るから気を付けてと言われたっぽい。苦労したけど、山頂に近づくにつれて石墨現れてテンション上がって何とか登れたぽい

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

お弁当持って行きたい山城ぽい

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

鳥獣侵入防止柵の扉が中々開けれなかったぽい

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

神社に参拝したぽい

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

整備されて登りやすい山城ぽい

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響ちゃん

晴れ (2020/03/01 訪問)

本郭の神社の登城ノートにカメムシいっぱいいるっぽい

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響ちゃん

少し曇り (2020/03/01 訪問)

櫓門口から登城、米山城跡→砥石城跡→本城跡→桝形城跡と巡ったぽい

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城好きのメガネ

「佐野城」 (2020/02/29 訪問)

<オススメ>★★★★☆
下野の名族・佐野氏は堅固な山城である唐沢山城(続日本100名城)を居城としていた。家名と所領を保つため小田原北条氏から養子(北条氏忠)を迎えていたため、小田原征伐の際には滅亡の危機を迎えた。一族の佐野房綱が豊臣秀吉に仕えていたため、小田原征伐後に房綱が当主に就くことで断絶を免れたとされる。その後、房綱は豊臣氏家臣の富田氏から信吉を養子に迎え、地位を保った。一説にいよると関東に移封された徳川家康を牽制するためとされる。関ヶ原の戦い後は、豊臣家恩顧の佐野信吉の立場は不安定となる。 1602年、徳川家康の意向を受けて、上杉謙信の攻撃をもしのいだ名城・唐沢山城を廃して、山麓に佐野城を築城するよう命じられた。唐沢山城の廃城の理由として江戸大火展望説、山城禁令説、豊家縁故説など諸説ある。整備半ばの1614年に佐野氏が改易されたために、わずか14年で廃城となった。 現在、堀切や土塁、曲輪などが遺されている。

<アクセス>
JR佐野駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「下館城」 (2020/02/29 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
藤原秀郷が平将門追討のために築いたとされる。1478年に、水谷勝氏が結城氏広から下館領を与えられ、水谷氏代々の居城となった。戦国時代には「結城四天王」として名高い水谷蟠龍斎正村が改修したとされる。小田原征伐では、豊臣秀吉から下館領と下野芳賀郡をあわせた水谷領4万7000石を安堵される。関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、所領を安堵された。水谷勝隆は城下町や社寺の建設、検地の実施などを行い、藩政の確立に努めたが、1639年に備中成羽藩に移封となる。 その後、松平頼重(徳川光圀の兄)が入封する。1642年の松平頼重転封後は一時天領となるが、井上正岑、黒田直邦などの支配を経て、石川総茂が2万石で入封する。石川氏9代の治世が続き明治維新を迎えて、廃城となった。現在、曲輪などが遺されている。

<アクセス>
JR下館駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「鷲城」 (2020/02/29 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
鎌倉時代に下野国守護をつとめた小山氏の居城である。室町時代には小山義政が鎌倉公方・足利氏満に対して反乱を起こし17年にわたって一進一退の攻防が繰り広げられた城である。本丸には名の由来となった鷲神社がある。現在、土塁が遺されている。

<アクセス>
JR小山駅 徒歩30分

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