関ケ原古戦場めぐり第3回は、両軍に関する史跡と垂井町にある陣跡です。
関ケ原古戦場開戦地
松平忠吉・井伊直政隊が、東軍先鋒の福島正則隊を出し抜いて宇喜多秀家隊に発砲、遅れじと福島隊も宇喜多隊に攻撃を掛けたたことにより関ケ原の戦いの開戦となりました。
天満山東麓の運動広場前に開戦地の石碑があり、無料駐車場も設けられています。
関ケ原古戦場決戦地
笹尾山の石田三成陣と徳川家康最後陣の間では最も激しい戦いが繰り広げられ、小早川秀秋の寝返りにより西軍が総崩れとなる中、最後まで持ちこたえていた石田隊の壊滅により決着となりました。
笹尾山の無料駐車場から西に徒歩3分の辺りに決戦地の石碑が建てられています。
東首塚
戦後、徳川家康の命により関ケ原一帯を領していた竹中重門が戦死者を埋葬するために造営した首塚で、塚の姿は残っていないものの、スダジイの古木と、江戸後期に建てられた首級墳碑、昭和前期に移築された尾張藩・徳川宗春ゆかりの唐門と供養堂が見られます。松平忠吉・井伊直政陣跡の石碑も東首塚の敷地内にあるので、併せてどうぞ。
西首塚
竹中重門が造営したもうひとつの首塚で、現在も塚は残っており、江戸後期に建立された観音堂とともに、今なお地域住民により戦死者の慰霊が行われています。西首塚の前、国道沿いに2台ほど駐められる駐車スペースがあります。
浅野幸長陣跡(垂井一里塚)
浅野幸長は岐阜城攻略の後、南宮山の諸隊に備えて中山道・垂井宿の西に布陣しました。
垂井一里塚の石碑の前に、陣跡の説明板と幟旗があります。駐車場はないので、一里塚の近くにちょっと路駐させてもらいました。
池田輝政陣跡
池田輝政は岐阜城攻略の後、南宮山の諸隊に備えて南宮山北麓に布陣しました。
墓地の手前に陣跡の石碑と説明板があります。また、隣には結城合戦に敗れて捕らえられ、京都に護送中に殺された足利持氏の遺児、春王丸と安王丸の墓があります。国道沿いの案内標識に従って、焼肉店脇の細い道を入った先にある墓地の駐車場に駐めて訪問しました。
長束正家陣跡
長束正家は南宮山の東麓に布陣し、池田輝政隊と交戦しましたが、東軍に通じていた吉川広家の妨害により攻勢に出ることができませんでした。
県道沿いの案内標識に従って進んだ先の八幡神社手前の空き地に駐車。説明板と幟旗が建てられています。
長宗我部盛親陣跡
長宗我部盛親は南宮山の背後にあたる栗原山に布陣しましたが、東軍に通じていた吉川広家の妨害により参戦することができませんでした。南宮山に陣取る毛利秀元への出陣要請をめぐってのやり取りは「宰相殿の空弁当」として知られます。
県道沿いの案内標識から未舗装の細い道を入った先にある清水寺公園に説明板と幟旗があり、公園の手前に駐車可能なスペースがあります。…というか、公園までは対向も方向転換もできず、このまま進んで大丈夫か不安にさせられました。
…ということで、本当は南宮山にも登りたかったんですが、この日はこの辺で時間切れ。道路工事中で行けなかった脇坂安治陣跡とあわせて、岐阜関ケ原古戦場記念館のオープン後にでもまた訪れたいと思います。
それにしても、これまでも一応知識としては知っていましたが、実際に関ケ原古戦場をめぐって、それぞれの陣の配置や距離感を体感したことで、関ケ原の戦いをより実感として理解できたように思います。なかなか興味深い経験でした。
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