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夏の雪だるま

北条征伐発端の城 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された群馬県みなかみ町の名胡桃城です。いつ頃築城されたか定かではありませんが、沼田城の支城として15世紀後半に沼田氏により築かれた伝えられます。1579年武田氏家臣真田昌幸は、北条方の沼田城攻撃のための前身基地とするため名胡桃城を改修、沼田城を攻略。しかし、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏に与えられ、北条氏は目障りな名胡桃城を攻撃落城させたため、秀吉の北条征伐の発端となっています。北条氏が滅亡すると沼田城は真田氏に与えられ、名胡桃城は廃城となっています。城は沼田城の北西5㎞程の利根川の右岸に築かれ、北・東・西に深い沢があり、深い沢に挟まれた北側からささ郭、本郭、二郭、三郭、外郭が配され、西側の沢を挟んで般若郭が配された、東西200m南北450m程の規模の天然の要害となっています。現地は開発がほとんどされず郭などの配置が残っており、国道17号沿いの般若郭に駐車場、外郭西に案内所があります。(2017.5.1訪問)

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夏の雪だるま

真田氏の城 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された群馬県東吾妻町の岩櫃城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、南北朝ころこの地を領した吾妻太郎行盛が築城したと言われます。その後子孫が斉藤氏を名乗り戦国時代までこの城を本拠として東吾妻地域を支配し上杉氏に従っていましたが、吾妻郡内の鎌原氏と領地争いを起こし鎌原氏を信濃に追い出しましが、鎌原氏は武田氏を頼ったため岩櫃城は1563年武田家家臣真田氏の攻撃を受け落城、真田氏の支配下となり信幸や幸村もこの城で過ごしたとされます。1582年織田信長の武田征伐の時、真田氏は武田勝頼に岩櫃城で再起を図るよう勧めたとされますが、勝頼は家臣小山田氏の岩殿山城へ向かい小山田氏の裏切りにあい天目山で自刃、武田氏は滅亡しています。関ヶ原の戦いでは、昌幸の叔父矢沢頼綱が城代となっています。城は吾妻郡統治の中心となっていましたが、1615年一国一城令により廃城となっています。城は、JR吾妻線郷原駅北東約1㎞の標高802mの岩櫃山から北東に伸びる標高593m付近の尾根に築かれ本丸、二の丸、中城を中心とし周辺に郭を配し、北は岩山、南は吾妻川に面した急斜面、西は岩櫃山と東西800m南北500m程の天然の要害となっています。遺構としては土塁や虎口、空堀などが残り往時を偲ばせます。城は国道145号からコニファーいわびつ方向へ入り、岩櫃山登山口へ曲がり平沢登山口駐車場へ駐車、上の観光案内所でパンフレットをもらい、城を目指します。

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まっつん

お寺っぽくないお寺のお堂の裏から! (2019/01/19 訪問)

三原市八幡町にある御調八幡宮のすぐ近くの丘に築かれた城跡で、ぱっと見、「お寺には見えないお寺」広福寺の小さなお堂の裏から登っていけます。車はすぐ近くにあるJA三原八幡出張所(現在は移転したらしい)の駐車場に駐車させていただき、城跡まで500m弱の距離がありますが、そこまで歩いて行きました。
広福寺のお堂の所から2〜3分歩くと堀切があり、その北側の斜面を数メートルよじ登ると主郭、さらにその北側下方にL字型をした曲輪がありました。
この城を築いた渋川氏は、室町幕府将軍足利氏の一門です。渋川義行は室町幕府から九州探題に任じられましたが、九州の南朝の勢力があまりに強く、九州に一歩も踏み入ることができないまま5年後に九州探題の職を解任されてしまいます(ちなみに、後任の九州探題は今川了俊)。
その渋川義行が、九州に上陸できず、所領の備後国御調郡別宮に居を構えたのがこの城のはじまりということのようです。

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真田氏の城 (2016/06/18 訪問)

群馬県沼田市の沼田城です。沼田城は1532年三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰がそれまでの幕岩城から南西600mの地に築城、居城を移したことにはじまります。当時は蔵内城と称し、関東管領上杉氏に従っていました。城は戦国時代、上杉・北条・武田氏勢力の境目にあり、越後から関東へ通ずる交通の要衝のため幾多の争奪戦が繰り広げられています。1551年関東管領上杉憲政は北条氏の攻撃を受け居城の平井城を捨て、越後上杉謙信に亡命。そのため、沼田家中は上杉派と北条派に分裂、上杉派であった顕泰が北条派を倒しますが、北条氏の攻撃を受け顕泰は越後に逃亡、城には北条氏家臣康元が入り沼田氏を称しています。しかし、1560年上杉謙信が関東に出陣してくると、沼田康元は敗れ沼田城は上杉氏直轄となり、上杉家臣本庄秀綱が城主として配されます。1578年謙信が死去すると沼田城は北条氏が制圧、城代を置きます。しかし、上杉景勝と武田勝頼が同盟し、沼田城の支配を武田氏に認めると、1580年武田氏家臣の真田昌幸が沼田城を調略、真田氏が城主となります。武田氏滅亡後は、織田家臣滝川氏の支配下となりますが、本能寺の変で、滝川氏が退去すると沼田城をめぐって北条氏と真田氏は争うようになり、同じ頃、旧武田領を北条氏と争っていた徳川氏は沼田城を北条氏へ渡す条件に和平を結び、真田氏に従うよう命令します。しかし、これを真田氏が拒否。これにより徳川氏と真田氏の第一次上田合戦が勃発することとなります。戦いは上田城で徳川軍を撃退した真田氏が勝利、沼田城も城代矢沢氏が寡兵をもって北条軍を撃退しています。しかし、強国徳川氏や北条氏に対抗するため真田氏は豊臣秀吉に従属。秀吉の裁定により結局沼田城は北条氏に割譲となります。その後、秀吉の小田原北条攻めにより北条氏は滅亡。沼田城は真田氏に戻され真田昌幸の長男信之が2万7千石の城主となり拡張整備、五層の天守閣を築いています。1600年関ヶ原の戦い後は、西軍方となっていた父昌幸の上田領も合わせ真田信之は9万5千石の大名となり沼田城を居城としますが、1616年沼田城を長男信吉に譲り、上田城に移り、さらに1622年松代城に居城を移しています。その後、隠居することとした信之は、信吉が亡くなったため次男信政に藩主を譲り、沼田城は信吉の次男信利が城主となり、その後1658年独立し沼田真田藩となっています。しかし、1681年用材調達の幕命に対する不手際により沼田真田藩は改易、沼田は天領となり城は幕命により破壊されています。1703年本多氏が2万石で領主となり再び沼田藩が立藩。本多氏は三の丸に館を建てこの地を治めたとされます。続いて1732年黒田氏3万石、1742年には土岐氏が3万5千石で入封、明治維新を迎えています。城は、沼田盆地の中央、利根川と薄根川により形成された段丘台地に築かれた城で、川に面した側70m程の崖となっていて、東西550m南北600mの規模で本丸の北側に保科郭・捨郭、東側に二の丸・三の丸、その南側に外郭を配していたとされます。現在城跡は、外郭を除き沼田公園となり本丸跡に復元鐘楼や西櫓台石垣があり、二の丸・三の丸は野球場などや駐車場になり、沼田小学校グランドの市役所道路側の大手門跡に冠木門があります。また、本丸跡に鐘櫓が復元され、この鐘櫓の鐘は1634年に真田信吉が鋳造させた城鐘となっています。

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駿河大納言忠長自刃の城 (2016/06/18 訪問)

群馬県高崎市の高崎城です。この地には1428年和田氏が築いた和田城があったとされます。和田氏は戦国時代上杉謙信に従い1561年北条攻めに従軍しましたが、謙信が北条氏攻略の目的を達せず引き上げると、武田信玄方に離反、信玄は鉄砲隊を送り和田城を固めさせたと言われます。1564年上杉謙信は離反した和田城を攻めますが、鉄砲隊や和田氏軍勢の奮戦により撃退したとされます。また、和田氏は1575年の長篠の戦にも出陣、鳶ケ巣砦を守り徳川軍の酒井忠次の攻撃により和田当主業繁は討死したと言われます。のち、和田氏は武田氏滅亡後北条氏に従い豊臣秀吉の小田原攻めにとない和田城も落城、廃城となっています。関東は徳川家康に与えられ、この地には井伊直正が12万石で箕輪城に入城しますが、1598年中山街道と三国街道の分岐点の交通の要衝である和田城跡に築城し高崎城と命名し居城としてます。井伊氏の後、城主は数々替わり1717年大河内氏が城主となり明治維新まで続いています。この城では1633年3代将軍の座を家光と争い幽閉されていた駿河大納言忠長が自刃しています。城は鳥川に沿って築城された平城で、本丸を西の丸・梅の木郭・榎郭などが囲み、二の丸、三の丸が梯郭式で配され、土塁と水堀に囲まれた東西500m南北1000m程の規模とされます。現在城址跡は市街化に呑み込まれ市役所などが立ち並び、土塁や水堀が一部残るのみでしたが、民家に移築されていた本丸乾櫓が三の丸模擬石垣に復元、同じく東門が移築復元されています。

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信玄上野侵攻に抵抗した城 (2016/06/18 訪問)

群馬県高崎市の百名城の一つ箕輪城です。この地の豪族長野氏が1500年頃築城、長野業政の時山内上杉氏の柱石となって弱体化する山内上杉氏を支え北条氏や武田氏に対抗し、数度の武田信玄の西上野侵攻に対して箕輪衆を率いて撃退、信玄をして「業政がいる限り上野を攻めとることはできぬ」と言わしめたとされます。業政が亡くなると1566年武田信玄が箕輪城を攻略、家臣の内藤昌豊を配置しています。この時の攻城戦では、長野氏の家臣として剣聖上泉信綱(柳生石舟斎の師)も籠城戦に参加しており、落城が近づくと城から出撃、武田軍の中を切り抜け落ち延びたとされます。武田氏滅亡後は、北条氏、そして織田氏家臣滝川氏、本能寺の変の後は北条氏、そして豊臣秀吉の北条征伐後は、徳川家康の家臣井伊直正が12万石で入城しています。しかし、9年後の1598年交通の要衝の地である高崎に高崎城を築城し居城と定め、箕輪城は廃城となっています。箕輪城は高崎駅西北8kmにあり、榛名白川東岸の標高280mの独立丘陵に南北1000m東西400mの規模で国指定史跡範囲19ha、深さ20mの堀や本丸、二の丸、三の丸、など20に余る郭が見事にのこっている中世を代表する平山城となっています。近世城郭のような天守閣や石垣はありませんが、訪問した時に郭馬出西虎口城門の復元工事が行われていました。

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関東七名城 (2016/06/19 訪問)

群馬県太田市の百名城と関東七名城の一つ金山城です。1469年岩松氏が築城。その後岩松氏の重臣横瀬氏が1529年城の実権を握り城主となり後に由良氏と名乗っています。金山城は小田原北条氏や越後上杉氏、甲斐武田氏勢力の狭間にあり、その時々で北条氏や上杉氏に従い生き残りを図ります。その間、北条・上杉・武田氏に10数回も攻められますが、難攻不落の堅固さを誇っています。しかし、1584年北条氏政は由良氏に軍略についての面談のため小田原に年賀に来るよう使者を送り、金山城主由良国繁は兵2百を率いて小田原に赴きますが、氏政は国繁を小田原城に抑留。金山城へ軍を送り明け渡しを迫ります。金山城では国繁の母妙印尼が城兵を励まし北条軍に抵抗、北条軍は5百の兵を失い撤退・和睦し国繁を帰しますが、国重は北条の圧力に負け城を明け渡し桐生に移っています。1590年豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏の命により由良国繁は小田原城へ籠城。しかし、妙印尼は国繁の子貞繁を大将として兵2百で豊臣軍の前田利家軍へ参陣。これにより戦後、妙印尼は上総牛久に5千石を与えられこれを国繁に譲り由良の家名を残しています。北条軍が籠城した金山城は前田利家・上杉景勝軍が攻略、廃城となっています。城は、渡良瀬川右岸の標高239mの独立丘陵に築かれた山城で、頂部の実城と周囲に北城・西城・八王子山ノ砦があり、東西1600m南北1200mの規模で全山要塞化され、水の確保のため日の池・月の池が造られています。最頂部は現在新田神社となっていて、城がある尾根まで車道があり終点に駐車場があります。麓には史跡金山城ガイダンス施設があり金山城の無料で説明展示がありますが、9時開館で5時半頃訪れたため見学できませんでした。

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関東七名城 (2017/05/01 訪問)

関東七名城の一つで、今年続百名城に選定された栃木県佐野市の唐沢山城です。900年代平将門を滅ぼした藤原秀郷によって築かれたとの伝承もありますが、室町時代に秀郷の子孫佐野氏によって本格的に城として改修されたとされます。佐野氏は山内上杉氏に属し、のちに上杉氏を継いだ上杉謙信に従い北条氏に敵対、1559年北条軍3万5千に包囲されるも、城は耐え抜き謙信の援軍により北条軍を撤退させています。その後、佐野氏は謙信と不仲になり、1576年謙信軍1万5千により攻められますが、落城することなく天下の堅城として名を高めています。1587年佐野氏は北条氏から養子を迎え北条氏に従いますが、1590年豊臣秀吉の北条征伐では、秀吉に従っています。1600年関ヶ原の戦いでは、徳川家康に従い所領を安堵され、3万5千石の佐野藩となり近世大名の居城として石垣等を築き改修しています。しかし、家康から廃城命を受け新たに佐野城が築かれ1602年廃城となっています。城は東武佐野線田沼駅南東2.5㎞の標高242mの唐沢山の急峻な山頂を本丸とし、各方面に伸びる尾根に曲輪を配し、東西900m南北500mの規模とされます。城は現在県立自然公園の一部となり石垣や桝形虎口、堀切などの遺構が残り、本丸跡に唐沢山神社が置かれています。

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足利氏の館 (2016/08/27 訪問)

栃木県足利市の百名城の一つ足利氏館(鑁阿寺)です。源義家が新田・足利の領主となり、義家の子義国の長男義清が新田氏となり、二男義康が足利氏となり12世紀半ばに義康がこの地に居館を構えたとされます。義康の子義兼は1196年館の内に持仏堂を建立、自ら剃髪して鑁阿と称し、これが鑁阿寺の始まりであり、その後、13世紀頃に鑁阿寺は足利氏の氏寺となり、足利氏は両崖山城を本拠としたとされます。14世紀前半新田氏と足利氏は鎌倉幕府を滅ぼす立役者となりますが、その後南北朝で敵味方に分かれ争う間柄となり、のちに足利氏が室町幕府を開いています。鑁阿寺は四方を土塁と水堀で囲まれ、四方に門があり、鎌倉時代の武士の館の風情が色濃く残っています。また、隣接する足利学校にも土塁と水堀があります。

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那須氏の城 (2017/04/30 訪問)

栃木県那須烏山市の烏山城です。1417年那須氏一族の資重により築かれたとされます。それ以後那須氏の居城となり北の葦名氏、東の佐竹氏からたびたびの侵略を受けるも小田原の北条氏と結び勢力安定を図っています。1590年の豊臣秀吉の小田原征伐では、下野で唯一参陣せず、所領没収・蟄居となっています。その後、信長の次男で秀吉の命による尾張からの国替を拒んだ織田信雄が秀吉の怒りを買い佐竹氏預かりの身として2か月烏山城主となり、のちに秋田へ流罪。そして、のうぼうの城で有名な忍城の成田氏が2万石で城主となりますが、お家騒動により改易、その後は数々の領主が入れ替わり1728年大久保氏が領主となると明治維新まで続いています。城はJR烏山線烏山駅北西1.5㎞の那珂川西岸の標高206mの八高山に築かれ本丸(二の丸)、古本丸(本丸)、中城、北城、西城、常盤曲輪、若狭曲輪、大野曲輪の郭が配され、五城三郭と呼ばれる8つの曲輪が置かれ東西350m南北600mの規模とされます。江戸時代に入り麓に三の丸が増設され藩主の居館が置かれています。現在は那珂川県立自然公園の中にあり本丸入口付近の石垣、常盤曲輪の石垣、各丸の間の堀切などの遺構が残り往時を偲ばせます。国道294号沿いの寿亀神社(三の丸)入口から入り、神社前を左に進み道路終点に車を止め、山道を歩き本丸を目指せます。

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宇都宮氏重臣芳賀氏の城 (2016/07/17 訪問)

栃木県宇都宮市の飛山城です。鎌倉時代の1290年代宇都宮氏の重臣芳賀氏が築いたとされ、宇都宮城から東8kmにあり北と西に流れる鬼怒川を天然の堀とし、東と南を二重の堀で守られた平山城で、中央の堀により大きく北と南に分かれ、北側に主郭を配し内部は3本の堀により守られ、全体の規模は14ha東西240m南北420mと言われています。芳賀氏は益子氏とともに「紀清両党」と呼ばれた宇都宮氏を支えた武士団です。戦国時代宇都宮氏内紛の混乱に乗じ宇都宮氏家臣壬生氏が宇都宮城を占領。このため1557年宇都宮氏・芳賀氏による宇都宮城奪還作戦が行われ、佐竹氏が支援し飛山城を前進基地として宇都宮城を奪還しています。1590年小田原の北条征伐では宇都宮氏は豊臣秀吉に味方し、宇都宮城に入城した秀吉から宇都宮領18万5千石を安堵されますが、「いらざる城は破却せよ」との命から飛山城は廃城となっています。現在城跡は飛山城史跡公園となっていて土塁や堀、木橋などが整備され、とびやま歴史体験館が設置され、城などに関係する展示がされています。当日は、6時半ごろ訪れた所、歴史体験館は当然しまっていましたが、公園も周囲を囲った土塁に城門があり閉まっていたため、土塁周りだけの探訪となりました。

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芭蕉の城 (2017/04/30 訪問)

栃木県太田原市の黒羽城です。城は那須七騎と呼ばれる那須氏の家臣団の一人大関氏が1576年築きそれまでの白旗城から本拠を移したとされます。1590年豊臣秀吉の小田原征伐に主人那須氏は家臣の説得にも参陣しようとしなかったため、他の家臣とともに大関氏は参陣し所領を安堵されています。1600年関ヶ原の戦いでは、黒羽城は会津の上杉景勝に対するため、徳川家康から岡部・服部氏などの援兵や鉄砲が送られ城は改修されています。戦後、大関氏は1万8千石の大名となり明治維新まで続いています。城は東北新幹線那須塩原駅南東約12㎞の那珂川に沿って南北に伸びた丘陵に築かれ本丸を中心に北に中丸・二の丸、南に三の丸を配し南北1500m東西250mで栃木北部では最大規模といわれます。城は現在黒羽城址公園となり本丸に文化伝承館・展望台、二の丸に黒羽体育館、三の丸に奥の細道で芭蕉が滞在したことから芭蕉の館が建っていますが、土塁や空堀などの遺構が残り往時を偲ばせています。

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関東七名城 (2016/07/17 訪問)

栃木県宇都宮市の宇都宮城です。関東七名城の一つで平安時代後期に宇都宮氏がこの地に館を置いたのが始まりとされます。益子氏を中心とする紀党武士団、芳賀氏を中心とする清党武士団を家臣に組み入れ勢力を拡大したとされます。戦国時代に入ると17代当主宇都宮成綱は反抗的な家臣を討伐して家臣団を再編、西の鹿沼城を攻略し領土を拡大、北の塩原の地をめぐり芦名氏と争い片角原の戦いで破り自領としてます。1514年佐竹・岩城氏連合軍が2万の大軍で宇都宮氏の下野国に侵攻するも撃退。さらに1516年再度佐竹・岩城氏は大軍を率いて侵攻。宇都宮氏は大いに破り逆に佐竹領へ侵攻。北関東の実力者となっています。しかし、成綱死後、跡を継いだ忠綱は無謀な戦いを行うようになり家臣の謀反が起こり家中は混乱。家臣の壬生氏が宇都宮城を占領。これに対して宇都宮氏は忠臣芳賀氏に支えられ1557年宇都宮城を奪還。1558年には上杉謙信が、1572年には北条氏政、1574年には武田勝頼が攻撃してきますが、これらをすべて撃退。その後小田原北条氏に対抗するため佐竹氏・結城氏らとともに反北条連合を結成、北条軍と戦っています。そして、1590年豊臣秀吉の北条征伐に参陣、本領を安堵されています。その後理由は不明ですが1597年突如宇都宮氏は改易処分を受け、宇都宮領には蒲生氏が入封。1601年には奥平氏、さらに1619年には本多正純が15万5千石で城主となり、城を大改修しています。しかし、1622年釣天井事件と呼ばれる謀反の疑いにより改易。その後、城主はめまぐるしく替わり江戸時代後期戸田氏が城主となり明治維新を迎えています。戊辰戦争では官軍の攻撃により城は炎上灰燼に帰しています。城は本丸を中心に堀を廻らし二の丸、三の丸、外曲輪を配した東西・南北1kmの規模の平城で、現在城跡は開発により市街地となり、本丸の一部が宇都宮城址公園として富士見櫓、清明台櫓、土塀、土塁などか復元されています。今後も、復元計画があるようです。

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赤い城

説明板があります (2019/01/19 訪問)

市川大野駅から徒歩で10分。
市川五中が跡地で遺構はありません。

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赤い城

長福寺の裏手 (2019/01/19 訪問)

船橋駅体徒歩で20分。
長福寺の本堂裏手に遺構が残っています。
以前は中に入れましたが柵が置いてあり入口までしか行けませんでした。

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赤い城

意富比神社が建っています (2019/01/19 訪問)

最寄りは飯山満駅。
畑の中に建つ意富比神社が跡地。

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赤い城

住宅地に土塁が少し残っています (2019/01/19 訪問)

高根寺と秋葉神社から県道8号線の反対側の住宅地に土塁が残っています。
説明板等はありません。
跡地の多くは私有地になっているようです。

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百名城甲府城 (2016/09/18 訪問)

山梨県甲府市の百名城の一つ甲府城です。武田一族一条氏の一条小山城があったと言われますが、1582年武田氏滅亡後、豊臣氏時代に甲府城の築城が始められ、豊臣秀勝、加藤光泰をへて浅野長政により1600年頃完成したとされます。関ヶ原の戦い後、徳川領となり城番制がしかれますが、1704年柳沢氏が城主となり、1724年再び幕府領となり甲府勤番制となります。城は本丸、二の丸の外各種曲輪を配し、その周囲を堀で囲んでいます。現在城は、舞鶴城公園となり、天守台や高さ17mの高石垣、水堀が遺構として残り、稲荷櫓や鉄門、鍛冶曲輪門などが復元されています。また、舞鶴城公園からJR中央線を挟んで歴史公園に山手御門が復元されています。無料駐車場はないため、民間の有料駐車場を利用しました。

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信玄の居城 (2016/09/18 訪問)

山梨県甲府市の百名城の一つ躑躅ケ埼館です。1519年甲斐を統一した武田信虎(信玄の父)が館を建て、1年後、背後の石水寺丸山に詰めの城要害山城を築城しています。1521年駿河の今川氏が甲斐に侵攻。信虎は臨月の妻を要害山城に避難させ、そこで信玄が生まれています。武田軍は世継ぎ誕生に決起し今川軍を打ち破ったとされます。以来、武田氏は滅亡まで外敵を一歩も甲斐に入れず、躑躅ケ埼館は、信虎・信玄・勝頼三代の居館となっています。館は一辺約200mの方形の主郭を中心に土塁と堀で囲み、その周りにいくつかの副郭が造られた平城です。館の周りには家臣の屋敷が建てられ格子状に整備された城下町があったとされ、正面には裏切りにより武田氏滅亡を早めたとされる御親類衆筆頭と言われた穴山信君の屋敷跡があります。現在、館跡は武田神社となり地元の人々の信仰の場となっています。

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武田最後の城 (2016/09/18 訪問)

山梨県韮崎市の武田氏滅亡前に最後に築いた新府城です。城は、1575年長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗後、武田親族筆頭の穴山信君が甲斐国内に新たな城の築城を武田勝頼に献策(武田家の疲弊と家中分裂を狙った策略とも言われます)、1581年正月勝頼が真田昌幸に織田徳川軍を迎え撃つ堅固な城づくりを命じたのが始まりです。昌幸は躑躅ケ埼館の西15kmの七里ケ岩と呼ばれる釜無川に侵食され断崖となった台地上に1月末から昼夜兼行で築き11月頃には9割方完成、12月末に勝頼は躑躅ケ埼館から移住したとされます。しかし、1582年新府城普請の負担への不満から木曽義昌が謀反・織田軍が武田侵攻をはじめたため、勝頼は1万を率いて迎え撃ちますが、穴山氏などの裏切りが発生したため、武田軍は新府城へ籠城するため引き上げますが、兵の逃亡が相次ぎ新府城へ着いた時は兵2千までに減少。新府城を守るには兵が少なく、勝頼は城に火をかけ重臣小山田信茂の岩殿城へ向かいますが小山田氏も裏切り、途中の天目山で僅か家臣40名程と3月11日最後を迎えています。同年6月本能寺の変で織田信長が亡ぶと徳川対北条の旧武田領の覇権争いが勃発、徳川家康が要害である新府城跡を修復本陣とし、1万の徳川軍に対し兵力で勝る北条軍5万相手に戦線を維持、和睦に至っています。北条氏滅亡後、甲府城が築かれると新府城は廃城となっています。城は釜無川と塩川に挟まれた台地に築かれ西側は断崖絶壁で、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪を配した東西550m南北600mの規模で、甲州流丸馬出しや三日月堀、鉄砲出構などが確認できるようです。訪問日、到着時で小雨でしたがスマホの雨雲レーダーで豪雨となる予報で登城は断念しました。全体を回る場合は県道17号線沿いの駐車場から道路を渡り歩道を釜無川方向へ進み、搦手から二の丸、本丸と回り三の丸から車止めの有る車道を県道17号線へ戻る約50分コースとなるようです。本丸だけなら県道から藤武神社の階段を上りますが、県道付近でもやぶ蚊が多く、虫よけスプレーは必須です。

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