千葉県大多喜町の大多喜城です。H29年4月に続日本100名城に選ばれています。1521年上総武田氏の一族武田信清が築いたと伝えられ、武田一族の内紛により1544年安房里見氏の武将正木氏に攻められ落城、以降、正木氏が城主となっています。1578年里見氏当主義弘が亡くなると、正木氏は反乱を起こすも、義弘の跡を継いだ里見義頼の攻撃を受け城内の内通者により正木氏は殺害され、城は義頼の次男時堯が城主となり支配下に置かれます。1590年豊臣秀吉の北条攻めの際、里見氏は秀吉の許しもえず、三浦半島へ攻め込んだため秀吉の怒りを買い上総を没収され、大多喜城には徳川家臣の本多忠勝が入城。大多喜藩10万石が成立し三層四階の天守閣を持つ近代城郭に改築、城下町も整備したとされます。1617年阿部氏に城主が変わるも1619年相模小田原に転封となり城主がいなくなり城は荒廃。その後1671年阿部氏が1万2千石で城主として入り、その後も、稲垣氏、松平氏など譜代大名が城主となりますが小藩のため城は整備がいきとどかないまま、明治維新を迎えたとされます。城は、夷隅川が屈曲する部分に西から東に張り出す丘陵上に築かれ、西と北側は深い谷に、南側を夷隅川の崖と急流で守られ、東側に向かって本丸、二の丸、三の丸、堀を配した東西500m南北800mの規模の平山城とされます。本丸には三層四階の天守閣があったとされますが、1843年焼失し、その後、神殿と称する建物が建てられたとされますが、定かではありません。明治維新により城は取り壊され、本丸は削平された伝えられます。現在城跡は県史跡に指定され、本丸跡に天守が再建され博物館となっています。遺構としては、本丸に土塁、二の丸跡の大多喜高校に薬医門・日本一と言われる大井戸が残っています。また、大手門跡は駅裏の山側ですが、大多喜駅前に観光用大手門があり、県道172号との角に、城から数えて4番目の門で城に向かう最初の門である馬に乗った武士が通過できる大きな冠木門跡の石碑が建つ四ツ門公園があります。
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