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夏の雪だるま

本多忠勝の城 (2017/09/30 訪問)

千葉県大多喜町の大多喜城です。H29年4月に続日本100名城に選ばれています。1521年上総武田氏の一族武田信清が築いたと伝えられ、武田一族の内紛により1544年安房里見氏の武将正木氏に攻められ落城、以降、正木氏が城主となっています。1578年里見氏当主義弘が亡くなると、正木氏は反乱を起こすも、義弘の跡を継いだ里見義頼の攻撃を受け城内の内通者により正木氏は殺害され、城は義頼の次男時堯が城主となり支配下に置かれます。1590年豊臣秀吉の北条攻めの際、里見氏は秀吉の許しもえず、三浦半島へ攻め込んだため秀吉の怒りを買い上総を没収され、大多喜城には徳川家臣の本多忠勝が入城。大多喜藩10万石が成立し三層四階の天守閣を持つ近代城郭に改築、城下町も整備したとされます。1617年阿部氏に城主が変わるも1619年相模小田原に転封となり城主がいなくなり城は荒廃。その後1671年阿部氏が1万2千石で城主として入り、その後も、稲垣氏、松平氏など譜代大名が城主となりますが小藩のため城は整備がいきとどかないまま、明治維新を迎えたとされます。城は、夷隅川が屈曲する部分に西から東に張り出す丘陵上に築かれ、西と北側は深い谷に、南側を夷隅川の崖と急流で守られ、東側に向かって本丸、二の丸、三の丸、堀を配した東西500m南北800mの規模の平山城とされます。本丸には三層四階の天守閣があったとされますが、1843年焼失し、その後、神殿と称する建物が建てられたとされますが、定かではありません。明治維新により城は取り壊され、本丸は削平された伝えられます。現在城跡は県史跡に指定され、本丸跡に天守が再建され博物館となっています。遺構としては、本丸に土塁、二の丸跡の大多喜高校に薬医門・日本一と言われる大井戸が残っています。また、大手門跡は駅裏の山側ですが、大多喜駅前に観光用大手門があり、県道172号との角に、城から数えて4番目の門で城に向かう最初の門である馬に乗った武士が通過できる大きな冠木門跡の石碑が建つ四ツ門公園があります。

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上総武田氏の居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県木更津市の真里谷城です。1456年上杉政憲が支配する上総国へ敵対する古河公方足利成氏の命を受けた武田氏が築いたとされます。ここを拠点に武田氏は周辺の地域へ進出、佐貫城・久留里城・大多喜城の支城を築き上総支配を進めていきます。上総武田氏五代信保が1534年亡くなると、庶子の信隆が当主となったことから、嫡子・信応との間で跡目争いが起こり武田氏は衰退する中、支城を里見氏などに奪われ、武田氏は北条氏の支配下となってゆき、1590年秀吉の北条征伐により、武田氏は滅亡、廃城になったとされます。城は、街道や集落、耕作地なども周辺にない山中にあるため、攻めにくく、房総半島の中央にあるため各地に進出しやすいという利点があり、千畳敷と呼ばれる主郭、二の郭、三の郭、四の郭を配し、東西400m、南北700m程の規模とされ、遺構としては、土塁や堀切などが残っています。
現在城跡は、城山神社や千畳敷のある主郭などが木更津市立少年自然の家キャンプ場として利用され、7月から9月のキャンプ場営業日は開放されていますが、それ以外の日はキャンプ場へ入る道路のゲートが閉ざされ入場禁止となります。

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関東攻防の城 (2017/09/29 訪問)

千葉県松戸市の小金城です。千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏により1537年築かれたとされ、関東に侵攻した上杉謙信に備え拡張が行われ、1566年上杉方に攻撃・包囲を受けるも籠城、守り切ったとされます。1590年の豊臣秀吉の北条征伐では、北条氏方であったため浅野長政らに攻められ開城。その後、徳川家康の関東移封に伴い、家康五男武田信吉が入城、信吉は1592年下総国佐倉城主に転封、小金城は1593年廃城となっています。城は、標高20m程の丘陵地帯に築かれ、古利根川・中川・荒川流域の低地帯を望み関東平野を一望できる、東西800m南北700mの規模とされ、北に金杉口、南に大谷口、東に達摩口、西に横須賀口など12の郭を備えて、東西に家臣屋敷、南北に寺社を配し当時の下総国北西部において最大規模を誇った平山城とされます。江戸川の水運により城下は市が立ち並び、周辺の本土寺や東漸寺が領主高城氏の保護を受けて城下は栄えていたとされます。現在城跡は、ほぼ全域が住宅地に開発され、城の北側金杉口が大谷口歴史公園として障子堀・畝堀・土塁などの遺構が、公園東側の達磨口跡が残るのみで、本丸跡の北小金住宅団地付近の交差点角に本丸城址碑が置かれています。公園の障子堀などはほとんど埋まってしまっていて残念な状態となっています。城跡は、流鉄流山線小金城址駅と常磐線北小金駅の北側に広がる丘陵地にあり、公園に駐車場がないため北小金駅北口パーキングに駐車し城域を歩くと、丘陵住宅地特有の坂が多く、狭い曲がりや行き止まりが多く迷路のような道路が続き、要害であったことを感じさせる地形となっています。

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戦国期の里見氏居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県富津市の佐貫城です。15世紀中頃総州長尾氏が築いたとも上総武田氏が築いたとも伝えられますが、上総武田氏の城として武田氏家臣の加藤氏が城代を務めていた1537年、里見氏の攻撃により里見氏の城となります。以降、北条氏と里見氏の攻防の場となり、数度、北条氏の城となったり里見氏が奪還したりしますが、1563年里見義弘が北条氏より奪還以降、里見義弘の本拠となっています。1590年秀吉の北条征伐で里見氏が上総を減封となると、、関東を与えられた徳川家康の家臣である内藤家長が入城、以降、数々の城主が入れ替わったり、廃藩廃城となったりしましたが、1688年五代将軍徳川綱吉の側用人として重用された柳沢吉保が一万五千石で立藩、1694年柳沢氏が武蔵川越へ転封となると再度廃城。1710年阿部氏が三河刈谷から移封され、佐貫城を再興し、明治維新まで続いています。城は、北上川と染川に挟まれた丘陵に深い谷が入り込んだ地形となっており、丘陵の尾根に本丸、二の丸、三の丸を配し、本丸と二の丸の間に大きな空堀と、幅4m高さ3.3m長さ10mの土橋が架けられ、城は東西400m南北500mの規模であり、佐貫は古くから複数の街道が交わる交通の要衝であり港町があったことから経済・交通の中心となっていたとされます。遺構としては、土塁や空堀、井戸等が残り、また、上総国では珍しい大手櫓門跡の石垣も残っています。佐貫中学を過ぎ県道を東に進むとカーブ付近に案内板が立ち、大手門跡へ上がる階段があり、大手櫓門跡の見所の石垣があります。

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北条・里見氏の攻防の城 (2017/09/30 訪問)

千葉県君津市の久留里城です。城は室町時代に真里谷城を本拠とした上総武田氏により1456年築かれたとされます。戦国時代に入ると武田氏の内紛により弱体化した機に乗じて里見氏が久留里城を攻略。その後、1564年国府台の戦いで里見氏は北条氏に敗れ一時久留里城を奪われるも、二年後里見氏が奪還しています。1590年の豊臣秀吉の北条征伐時、里見氏は秀吉の命に従わず怒りを買い上総を没収され、久留里城は松平氏が3万石で城主となり、城下町を整備しています。1601年松平氏に替わり土屋氏が2万石で入城、土屋氏に仕えていた新井白石も青年期久留里で過ごしたとされます。しかし1679年土屋氏は改易となり一時廃城となりますが、1742年黒田氏が3万石で入城、3年の歳月をかけ城を再建し、明治維新まで続いています。城は、標高145mの山頂本丸に二層二階建の天守が建ち、本丸の周囲に弥陀曲輪・波多野曲輪・天神曲輪が配され、本丸の西側の一段下がった尾根に二の丸・薬師曲輪・波多野曲輪、二の丸から北西に続く尾根に幅10m程の空堀と郭が幾重にも設けられ、山麓の御屋敷と呼ばれる三の丸で構成され、東西700m南北500mの規模とされます。現在城は、本丸に模擬天守が建てられ展望台として利用され、二の丸に資料館が建ち、土塁や堀切、井戸などが残っていますが、三の丸は水田などになっています。

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里見氏の居城 (2017/09/30 訪問)

千葉県館山市の館山城です。1580年里見義頼により築城されています。1614年里見氏は大久保忠隣事件で嫌疑をかけられ改易となり館山城も廃城・破却されています。その後1781年稲葉氏が館山藩主となるも城を再建することなく、城の麓に陣屋を構えたとされます。城は、標高75mの城山山頂に天守閣を持つ本丸、二の丸の外、複数の郭を配し、麓の総構に、飛び地の鹿島領民が造ったとされる鹿島堀が廻らされていたとされます。現在城跡は、里見氏改易後破却され、さらに、本丸・二の丸が戦時中高射砲陣地を築くため大きく削られたため、遺構はほとんど残っておらず、現在、本丸跡に模擬天守が建てられ博物館として利用され、有名な架空の物語の南総里見八犬伝関係が展示されています。里見氏関係の歴史は、麓の市立博物館に展示されています。また改易後、伯耆国倉吉に配流となった里見氏は倉吉で死去、このとき殉死した八人の忠臣の遺骨が密かに持ち帰られ葬られた、八遺臣の墓が模擬天守から南側の義康御殿跡の梅園の先の城山中腹にあり、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」はこの八人をモデルにしたと言われています。その先の麓には、館山藩陣屋跡に古く小さな神社が祭られ、その先の城山の南東の慈恩院門前に鹿島堀が一部残って言います。

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北条氏関東の重要拠点 (2017/09/29 訪問)

千葉県野田市の関宿城です。室町時代に利根川と江戸川の分岐点の関東の水運を押さえる地に古河公方家臣簗田氏により築かれたとされ、戦国時代に入ると関東の制圧を目指す北条氏康より「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評された関東中心部における重要拠点と言われます。簗田氏が守る関宿城を1565年から北条氏は再三攻撃、しかし、簗田氏は城の堅固な守りや上杉謙信などと結ぶことで抵抗、何度か撃退しています。しかし、1574年3万余の北条の軍勢の攻撃を受け籠城の末、矢玉・兵糧が乏しくなり城を開け渡します。その後は、北条方の城となりますが、1590年豊臣秀吉の北条攻めにより無血開城したとされます。北条氏滅亡後、関東に徳川家康が入ると関宿城には松平康元が2万石で入城。以降、譜代大名が次々と城主となり1705年久世氏が城主となると明治維新まで続いています。城は、利根川・江戸川・逆川に挟まれた微高地に築かれ、北・東・西が河川で守られ、本丸、二の丸、三の丸、発端曲輪、天神曲輪などを配し、河川以外に各曲輪に土塁・築地塀、水堀を回し、武家屋敷などが配された外郭部も水堀が回された堅牢な守りの東西800m南北1300の規模の平城とされます。現在城跡は、河川改修により半分以上が河川や堤防の下となり、その他は市街化により、遺構はほとんど残っておらず、河川改修後の河川分岐点に関宿城博物館が建てられ、本来の本丸跡に城址碑と、水堀跡に説明板があるのみです。移設された遺構では、本丸御殿の一部が博物館から南1km半の実相寺に、埋門が博物館から南3km半に、大手門が栃木県下野市に、薬医門が茨城県坂東市の逆井城にあります。

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百名城 (2016/08/26 訪問)

千葉県佐倉市の百名城の一つ佐倉城です。戦国時代、下総を領地とし本佐倉城を居城とした千葉氏当主親胤がこの地に1556年築城を命じますが、家臣に造反され自害し築城中止となり、親胤の孫の千葉邦胤の代にも再び築城しようとしましたが、家臣に暗殺されてまたもや工事は中止。その後、千葉氏は小田原征伐時に北条氏に味方したため領地を没収され滅亡。徳川家康が関東を領すると松平忠輝、小笠原吉次、土井利勝が千葉氏の居城であった本佐倉城跡の陣屋に入ったとされますが、1610年家康の命を受けた土井利勝が佐倉城築城を命ぜられ1617年完成させています。その後の城主は入れ替わりが激しく、1746年堀田氏が城主になると明治維新まで続いています。城は、鹿島川右岸丘陵に造られ、西を鹿島川、南を高崎川、北を広大な印旛沼を堀とし、本丸、東側に二の丸、三の丸、西側に出丸、その外多くの曲輪を配し、石垣を使用せず土塁づくりの土から成る城です。本丸には天守閣の代わりに三階櫓があったとされます。明治に入ると日本陸軍の駐屯地が置かれたため建物等が撤去されています。現在は、佐倉城址公園として整備され、寺に移築されていた藥医門が場内に移され、再現された馬出し空濠や土塁などの城址遺構とともに、陸軍駐屯時の軍遺構もあり、また、国立歴史民俗博物館も公園内に建設されています。

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徳川御三家の城 (2016/07/17 訪問)

茨城県水戸市の百名城の一つ徳川御三家水戸藩の居城水戸城です。鎌倉時代馬場氏が築城、以来約200年馬場氏の居城となっていましたが、室町時代に江戸氏が攻略、戦国時代に入り江戸氏が戦国大名化するにつれ城も規模が拡大、しかし、小田原の北条征伐後、佐竹氏の常陸支配が認められると1590年佐竹氏が江戸氏を滅ぼし入城、佐竹氏は本拠を太田城から水戸城へ移し大改修を行ったとされます。しかし、関ヶ原の戦いにより佐竹氏は秋田へ国替えとなり、城は徳川家康の五男信吉に与えられますが亡くなり、10男頼宣が城主となりますが駿府へ転封、のちに紀州和歌山へ移り紀州徳川家となります。水戸城には11男頼房が城主となり再び大改修を行い徳川御三家のひとつ水戸藩の居城として明治維新まで続いています。城は北を那珂川、南を千波湖に挟まれた丘陵に築かれ本丸、東二の丸、二の丸、三の丸が配され、天守はなく二ノ丸に御三階櫓が建てられ天守閣の代わりとなっていたとされます。石垣を用いず土塁で造られ御三家の中では質素なつくりとなっています。現在城跡は水戸市の中心部、水戸駅の北側丘陵の文教地区にあり、各種学校が立ち並び本丸跡は県立水戸第一高等学校となっており、水戸城唯一の遺構薬医門も本丸堀跡を走るJR水郡線の線路に掛かる橋を渡り第一高等学校敷地内の校門を入ったところにあります。また、二の丸にある第二中学校校門などの校舎や校門もお城風に造られ、三の丸に藩校の弘道館が立っています。城の遺構はあまり残っていませんが、現在鉄道や道路となっている巨大な堀跡がかつての城を偲ばせます。

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幕閣の城 (2016/07/16 訪問)

茨城県土浦市の土浦城です。1430年頃小田氏に属する在地領主の若泉氏が居館を置いたのが始まりとされます。戦国時代1516年同じ小田氏の武将菅谷氏に攻め落とされ菅谷氏の本城となっています。小田氏は佐竹氏と争い本城の小田城を奪われるたび土浦城へ逃れてきますが、1583年佐竹氏の軍門に降っています。しかし豊臣秀吉の小田原北条攻めでは、菅谷氏は北条氏と結んだため滅亡。関東に入封した徳川家康は結城秀康に土浦城を与えますが、結城氏が転封すると藤井松平氏が入城、近世城郭に改修しています。1618年西尾氏が城主となり本丸御殿をはじめ本丸二層櫓二基などを構築、その後城主はめまぐるしく替わり1687年土屋氏が6万5千石で城主となり、明治維新まで続いています。歴代城主は老中など幕閣となった者が多く、この城は水戸・奥州への要地として重視されたとされます。城は霞ケ浦近くの低地に築かれた平城で、本丸・二の丸・三の丸・外丸を有し、東西600m南北600m程で霞ケ浦の水害でも水没することなく水に浮かぶ亀のように見えたことから亀城とも呼ばれています。現在は本丸と二の丸の一部が亀城公園として太鼓櫓門・東櫓。西櫓・霞門・高麗門など整備され往時を偲ばせます。隣接する土浦市立博物館に城関係の展示もあり料金105円で入館・駐車場も利用できますので便利です。

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小田氏の居城 (2016/07/16 訪問)

茨城県つくば市の小田城です。常陸南部に勢力をもつ名族小田氏の居城です。いつ頃築城されたか定かではありませんが、鎌倉初期には築かれたとされ、南北朝の頃、南朝方の北畠親房を迎え入れ北朝方と戦っており、北畠親房が「神皇正統記」を著した城としても有名です。戦国時代に入ると結城氏や佐竹氏と抗争、戦いのたびに小田城は落城し、小田氏は一族の土浦城に逃れ小田城を奪還・帰城を繰り返しています。しかし1569年佐竹氏の武将太田氏の攻撃による落城後は城を奪還することなく、小田城は太田氏が城主となり、大規模に改修し防御力を高めたと言われますが、1602年佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となっています。城は本丸周辺に複数の曲輪を配し東西1000m南北700mの規模の周囲が湿地帯に築かれた平城です。現在堀に囲まれた東西130m南北145mの本丸が復元され周辺施設も含め平成28年「小田城址歴史ひろば」となって公開されています。

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風磨忍者が配された城 (2016/07/16 訪問)

茨城県坂東市のBS日本の城見聞録でも紹介された逆井城です。1450年頃小山氏の五男がこの地を領し逆井氏を名乗り築城したとされます。1536年古河公方方だった逆井氏は小田原北条氏方の大道寺氏に攻められ逆井城は落城し、逆井氏は滅亡。この地は常陸佐竹氏・結城氏・多賀谷氏との領国の境目にあり1577年跡地に北条氏が佐竹氏などの常陸・下野への侵攻の拠点として大規模な城を築城し北条氏家臣北条氏繁が城主として入城してます。氏繁没後は子の氏舜などが城主となりますが、1590年豊臣秀吉の北条征伐に伴い廃城となっています。江戸時代の軍記「関東古戦録」には風磨忍者300名が配されていたされます。城は西仁連川により形成された南北30kmに渡る飯沼を北側の堀とし、西側は蓮沼があり、南側に大軍も収容できるよう曲輪を連ねた平城で本丸、二の丸、三の丸の東西420m南北300mの規模とされます。現在城跡は逆井城跡公園として二層櫓・土塀・櫓門・木橋・堀などが復元され中世城郭の姿を偲ぶこときができます。また、公園内に近隣の関宿城の薬医門、大安寺の天正時代の観音堂を移築、大台城の主殿を復元などされています。

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崩壊著しい城 (2016/08/26 訪問)

茨城県笠間市の笠間城です。城は1200年代この地域にあった寺同士の争いに援軍を求められた宇都宮氏が甥の塩谷氏を派遣、争いを治めこの地に城を築いたのが始まりとされます。以来、塩谷氏は笠間氏を名乗りこの地方に勢力を張り、戦国時代、笠間氏は主家宇都宮氏に反目、小田原北条氏に味方したため、豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡しています。その後、宇都宮氏の改易により蒲生氏が3万石で入封、近世城郭に改修したとされますが、その後、城主はめまぐるしく替わり、1622年から1645年には忠臣蔵で有名な浅野氏が5万石余で城主となり、のちに赤穂へ転封してます。その関係で麓の山麓公園に大石内蔵助像と駐車場下に大石邸跡があります。最後の領主は1747年牧野氏が8万石で城主となり明治維新まで続いています。城は近世城郭ではめずらしい山城で、佐城山山頂の天守曲輪や大手道に石垣が使われ、天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸の外複数の帯曲輪を配した、堅固な城とされ、山麓に藩主の下屋敷が政庁として置かれていました。また、近くの真浄寺には本丸にあった八幡台櫓が移設され残っています。今回は麓の公営稲荷駐車場ではなく、中腹の千人溜駐車場から登城し15分程の城跡へ向かいました。何度か倒木が道をふさぐ中、道を登ると、笠間城大手門跡の石碑と石垣が見え、さらに登り広場のような所から左手に入ると、城看板と笠間城址碑があります。その奥の天守台跡に佐志能神社がありますが石垣にロープが張られ、崩壊の恐れがあり立入禁止となっていました。今後風雨等による崩壊が危惧されます。

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のぼうの城 (2016/08/27 訪問)

埼玉県行田市の関東七名城の一つ小説や映画の「のぼうの城」で有名となった忍城です。15世紀後半成田氏により築城されたとされます。1559年上杉謙信が関東に侵攻すると成田氏は謙信に従い1561年の謙信による北条氏の居城小田原城攻めにも参加、しかし、攻略できず謙信が撤退すると成田氏は離反、これに対して謙信は1574年忍城を包囲しますが、城は持ちこたえています。その後、成田氏は北条氏に従い、1590年秀吉の小田原征伐では、忍城は石田三成、大谷吉継、真田昌幸等3万余の軍勢に包囲されます。成田氏当主長氏は小田原城に籠城していたため、忍城は長氏の娘甲斐姫と一族が農民などを含め3千名が籠城。三成は、忍城が沼地など湿地帯に囲まれた堅城のため、28kmの堤を築き水攻めを決行。しかし、城方は夜半に堤を破壊決壊させ、大水が三成軍を襲い被害を与えたとされます。しかし、籠城1ケ月小田原城が開城したため、忍城も降伏開城しています。成田氏は領地没収となりますが、甲斐姫が秀吉の側室となったことから那須烏山2万石の大名となっています。関東に徳川家康が移封となると、忍城には家康の四男松平忠吉が10万石で城主となり、その後、1639年老中阿部氏が城主となると整備拡張が行われ、1823年には奥平松平氏が城主となり明治維新まで続いています。城は、北の利根川と南の荒川に挟まれた沼地と湿地帯に点在する島を曲輪とし曲輪間を橋で結んだ堅城で、現在は、沼地が埋め立てられ市街地化していますが、本丸跡に模擬御三階櫓が建てられ、一部土塁や堀が残り、高麗門と藩校進修館の門が移築されています。

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戦国城郭の傑作 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された埼玉県嵐山町の杉山城です。いつ頃築城されたか定かではありませんが、杉山城は桝形虎口や馬出部などを複合的に持つ高度な築城技術から小田原北条氏の築城と思われていましたが、発掘調査により15世紀末から16世紀前半に河越城を拠点とする扇谷上杉氏に対抗するため、鉢形城を拠点とする山内上杉氏が中間のこの地に築いたと考えられます。城は東武東上線武蔵嵐山駅北西2.5㎞の市野川と粕川の間の丘陵に築かれ、鎌倉街道を見下ろす山頂に本郭、東・南・北側に二の郭・三の郭を配し、東西200m南北300mの規模ながら、大規模な横堀の連続折れ、複合的な虎口など、戦国城郭の傑作と高い評価を得ているようです。城は玉ノ岡中学に隣接し、麓にある積善寺では好意で車を置かせてくれるのでここから登ることができ、登り口にパンフレット箱があり、登城の参考になります。

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北条氏の北関東支配の拠点 (2016/08/27 訪問)

埼玉県寄居町の百名城の一つ鉢形城です。山内上杉氏の家宰長尾景信が1473年古河公方との戦いで陣没、山内上杉氏は景信の弟忠景を家宰としたことから、景信の嫡子景春が反発、1476年鉢形城を築き反乱を起こしたとされます。景春は山内上杉軍を大いに破り武蔵国から山内上杉氏を上野国に追いやりますが、これを見た扇谷上杉氏の家宰太田道灌は武蔵攻略の好機とみて鉢形城を攻撃、攻め落としています。その後小田原北条氏の川越城の夜戦などにより武蔵は北条氏が制圧、鉢形城は北関東支配の拠点として整備拡張され、北条氏康の四男氏邦が城主として入り、その後の武田信玄や上杉謙信の鉢形城攻撃にも耐えています。1590年秀吉の小田原征伐では前田利家・上杉景勝等の北国軍3万5千の大軍に包囲され、北条兵3千が1か月の籠城戦を戦ったのち降伏開城しています。城主であった氏邦は前田利家の助命懇願で一命を許され、戦後、前田家で過ごし57歳で亡くなり、人望の高さから葬儀には多くの人々が参列したとされます。徳川氏が関東に移封すると成瀬氏等が代官になり統治しています。城は荒川と深沢川に挟まれた断崖上に築かれ本曲輪、二の曲輪、三の曲輪の外複数の曲輪を配し東西600m南北700mの規模を有していたとされます。城跡は現在鉢形城公園として整備され、遺構として堀や土塁が残り、馬出・石積み土塁、四脚門などが復元され、また鉢形城歴史館が建設されています。

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上杉・北条氏攻防の城 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された埼玉県嵐山町の菅谷館です。いつ頃築かれたかは定かではありませんが、鎌倉時代有力御下人畠山重忠の館が置かれたのは始まりとされます。源頼朝亡き後、重忠は北条氏と対立、滅ぼされたとされます。その後、館は南北朝時代や山内・扇谷上杉家の争い、上杉氏と北条氏の戦いにより随時増改修されていったとみられます。1546年川越の夜戦以降は北条氏によって城代が置かれましたが、豊臣秀吉の北条攻め後、廃城となってと思われます。館は東武東上線武蔵嵐山駅南西1㎞の都幾川と槻川の合流部北台地に築かれ、台地南側は川により侵食された崖となっており、東西は谷があり、本郭、二ノ郭、三ノ郭、西ノ郭、南郭の5つの郭が配され、東西・南北400m程の規模とされます。現在館跡は国史跡に指定され三ノ郭には県立嵐山史跡の博物館が建てられ、二ノ郭には畠山重忠公像が置かれ土塁や堀などの遺構を見ることができます。

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関東七名城 (2016/08/27 訪問)

埼玉県川越市の関東七名城の一つ川越城です。1456年太田道灌が古河公方の古河城に対抗する拠点として築城したのが始まりとされます。1524年北条氏綱に本拠江戸城を奪われた扇谷上杉氏が川越城を本拠とします。1537年北条氏綱が川越城を攻略、北条為昌を城主とします。1541年氏綱が亡くなり氏康が当主となると扇谷上杉氏・山内上杉氏と古河公方・今川氏が手を結び北条攻めを開始。1545年7月今川氏が駿河北条領を攻撃。そして9月、扇谷上杉氏は、山内上杉氏と古河公方と連合軍8万の大軍で川越城奪還に出ます。川越城には北条綱成が3千の兵で籠城、城方はよく守り長期戦となります。10月氏康は今川氏に駿河の領地を明け渡し和平を結び武蔵に兵力を集中。1546年4月長期対陣により油断していた包囲軍を北条氏康が8千の兵で夜襲。日本三大奇襲戦の一つ「河越夜戦」です。氏康は包囲軍を散々打ち破り北条氏の武蔵攻略が進むこととなり、関東の大大名北条氏の誕生となります。豊臣秀吉の小田原征伐では、川越城は前田軍に包囲され開城。新たに領主となった徳川家康は酒井忠重を城主としています。江戸時代に入ると近世城郭に改修されています。1638年城は火災により全焼、翌年老中松平信綱が城主となると川越城は新たに築き直されています。以降領主は次々変わりますが1867年松井松平氏が8万石余で領主となり明治維新を迎えています。城は武蔵野台地の北東部に造られ、本丸、二の丸、三の丸と複数の曲輪を有し、土塁と水堀で囲まれた東西800m南北600mの規模とされます。天守の代わりに三層の富士見櫓があったとされます。現在、城跡は大部分が市街地となっていますが、日本に2つしか残っていない本丸御殿が現存しています。その他、本丸御殿南側に富士櫓跡、本丸御殿と市役所の間に中ノ門堀跡があります。7時半頃訪れたため本丸御殿・中ノ門堀跡とも見ることができませんでした。また、大手門跡に立つ市役所に太田道灌公像があり、その先の蔵造りの町並みに1654年頃に造られ大火のたびに再建された時の鐘「鐘撞堂」がありますが、これも訪れた時は、耐震工事中でシートに覆われ見られませんでしたが、現在は上部は見えるようになったみたいです。

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水城 (2016/08/27 訪問)

埼玉県さいたま市の岩槻城です。15世紀中頃太田道真・道灌親子や忍城城主となる成田氏が築いたとなどの諸説があります。岩槻城は城主である太田氏と武蔵攻略を狙う小田原北条氏との間で、激しい攻防があり、1525年北条方のものとなり、1531年太田氏が奪還しています。扇谷上杉氏や山内上杉氏が滅亡・衰退すると太田氏は越後上杉氏と結び謙信の関東出兵を先導しています。しかし次第に北条氏に圧迫され北条氏方となり、1567年太田氏当主氏資が上総の三船山の戦いで戦死すると、北条氏直の弟氏房が太田氏を継いで城主となっています。豊臣秀吉の北条征伐では豊臣軍2万に攻められた岩槻城は2千の兵で籠城、2日間の攻防の末降伏落城してます。徳川家康が関東に入封すると家臣高力氏が2万石で入城。その後老中幕閣が相次いで城主となり1756年大岡氏が2万石で城主となり明治維新を迎えています。城は元荒川の南西側の沼地に本丸、二の丸、三の丸、その他曲輪の主要部を配置した平城で城を築城する際、沼に白鳥が舞い降りたので別名白鳥城とも呼ばれています。北側の沼地の対岸の元荒川との間に新正寺曲輪、南側の沼地の対岸に新曲輪、鍛冶曲輪、東は元荒川、西側の沼地の対岸には武家屋敷や城下町があり、その周囲は土塁と堀の総構となっていました。現在城地は沼が埋めたてられ市街地となり、新曲輪部分が岩槻城址公園として整備され土塁や堀障子などが残り、民家に移築されていた黒門、裏門などの城門が公園内に移築されています。

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北条征伐発端の城 (2017/05/01 訪問)

今年続百名城に選定された群馬県みなかみ町の名胡桃城です。いつ頃築城されたか定かではありませんが、沼田城の支城として15世紀後半に沼田氏により築かれた伝えられます。1579年武田氏家臣真田昌幸は、北条方の沼田城攻撃のための前身基地とするため名胡桃城を改修、沼田城を攻略。しかし、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏に与えられ、北条氏は目障りな名胡桃城を攻撃落城させたため、秀吉の北条征伐の発端となっています。北条氏が滅亡すると沼田城は真田氏に与えられ、名胡桃城は廃城となっています。城は沼田城の北西5㎞程の利根川の右岸に築かれ、北・東・西に深い沢があり、深い沢に挟まれた北側からささ郭、本郭、二郭、三郭、外郭が配され、西側の沢を挟んで般若郭が配された、東西200m南北450m程の規模の天然の要害となっています。現地は開発がほとんどされず郭などの配置が残っており、国道17号沿いの般若郭に駐車場、外郭西に案内所があります。(2017.5.1訪問)

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