延宝年中(1673~81)に仙台藩が幕府に提出した「仙臺領古城書上」の記事では 「稲葉村 平 古川城 東西七十間 南北四十九間 城主古川刑部少輔持忠。天文年中註罰。天正之比古川弾正居住。木村彌市右衛門居住。伊勢守子。」とある。また安永四年(1775)に書かれた稲葉村の「風土記御用書出」写しの記事では 「古城 一古館 竪五拾間 横七拾間 右ハ本丸と申伝候 四方掘相廻 二・三ノ丸・外郭等引続有之候事」とあり、以下二之構屋敷、西館、外郭、土櫓、馬場先、大手先の記述が続く。城主についてはほぼ古城書上に準ずるが、大崎・葛西一揆の終息後木村氏が改易され政宗の領地となると鈴木和泉守が城主となる。その後鈴木氏が桃生郡深谷に領地替えとなり古川城は廃城。古館は御蔵入畑に惣堀は苗代や田畑に開発されたと言う。
城は大崎平野の中心に位置し、古館(本丸)の外周を惣堀で囲み、外郭、二ノ構(二ノ丸)、西館(三ノ丸)で守られた規模の大きい平城であったと考えられる。現在古館は大崎市古川第一小学校・外郭は古川中学校の校地となり他の郭も市街地化され跡形をとどめない。城址の東側を流れる緒絶川と、同城の搦手門を移築したと伝わる鈴木氏の菩提寺瑞川寺の山門にわずかに往時をしのぶばかり。
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