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チェブ

受験シーズン!頑張って! (2019/01/05 訪問)

秀吉さんが北条征伐でやっつけてしまった「初沢城」に行きました。
この「初沢城」ハイキングコースになっています。
始めに言ってしまいますが、遺構、分かりませんでした。
曲輪、掘切、土橋が見られるらしいのですが、自然地形にも見えるし遺構にも見える!
初心者には難しい「初沢城」です。
しかし、登城口を見つけるのは分かりやすかったです。
「みころも公園」の入口に立つと黄金の「みころも霊堂」という塔があります。
前進すると右側に視線を感じます。
見ると5㍍位の巨大菅原 道真公の銅像にロックオンされてしまいます。
道真公の右手に案内板があり登城口です。
受験シーズンです。菅原 道真公、みんなのお願いを叶えてあげて下さいね!

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イオ

元・登山部の感慨 (2019/01/13 訪問)

12月から土日もほとんど休みなしで、しばらく城めぐりにも行けずにいましたが、ようやく半日休みが取れたので、近場の城に行ってきました。

高校時代、登山部だった当時の私にとって、金剛山の登山道沿いの千早城(千早神社)は馴染みの場所で、約30年ぶりに訪れてもところどころに見覚えのある景色が見られましたし、千早神社の参道や金剛山の登山道などの改変を受けて、遺構はほとんど見られないものの、それでも縄張図と見比べながら歩くと曲輪の形状が残っているのが確認でき、高校当時とはまた違う意味で楽しく歩くことができました。

それにしても、当時は千早神社なんて金剛山のほんの入り口ぐらいの感覚だったのに、今や最初の石段を登るだけで息が切れてしまうとは…。

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モト

曲輪と囲む土塁が見れました。 (2018/12/11 訪問)

遺構は小さくて跡地の曲輪は公園になっていますが、そこがすぐ曲輪跡だとわかる雰囲気がありました。
福性寺のすぐ脇ですので、お寺の駐車場に停めました。

曲輪跡のそこは土塁で囲まれていています。
この土塁は曲輪をしっかり囲んでいる様がわかるので外から、中から見ても良い雰囲気でした。
中に入る虎口もあり、小さいながら城跡を充分に味わえました。
曲輪跡には案内板もあり軽く歴史も学べました。

隣の福性寺の紅葉がきれいでした。
訪れた日はもう満開の時期は過ぎた感じでしたが、きれいな赤い葉っぱが地面を埋めているところを見ることができました。

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じゅんじん

直虎ゆかりのお城 (2018/12/17 訪問)

気賀の隣にあります。神社となっており街道の抑えですね

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じゅんじん

広島遠征最後のお城 (2019/01/14 訪問)

小学生より憧れの福山城へ。新幹線のホームから見えるお城に萌え。伏見櫓・筋金御門の重厚さ、意外にスマートだった天守。鏡櫓では古写真の説明を聴けました。地元が水野の故郷なのでつながりのある福山城は感慨深かったです。

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山口駿河守幻夢斎

諏訪原城跡

国指定史跡、続日本100名城の諏訪原城跡。

新しく駐車場もできましたが、JR金谷駅から徒歩15分から20分ほどで行けます。市指定史跡の石畳の坂道を登りますが、雨の日は、めちゃくちゃ滑るので、ご注意ください。

城跡には、3度目の訪問ですが、今まででいちばん整備が進み、きれいな状態で見ることができました。

やっぱり素晴らしいものは素晴らしいです!

本数は激少ですが、バスもあります。雨の日はバス、またはタクシーでの訪問のほうがベターかと思われます。

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山口駿河守幻夢斎

小山城跡

今年最初のお城巡りで、今まで行きたかったけど、なかなか行けなかったこちらへも登城しました。

JR藤枝駅からバスで、30分くらいだったか、片岡北バス停下車。路線は相良線です。

バス停からは、徒歩7分くらいで、登城口へ。葛籠折れのスロープで、楽々山上へ。

目の前には空堀。さらに主郭内部に、やや加工された三日月堀が。ちょっとこれはと思いますが、山林内部に、最大の見どころである三重掘が見られます。

さらに堀切もあり、規模はそれほど大きくないものの、見ごたえがある城跡でした。

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夏の雪だるま

南部七戸藩の居城 (2016/05/06 訪問)

青森県七戸町の七戸城です。七戸城は七戸町の西側に接する台地の東端にあり、市街地を隔てて七戸川が流れています。南北朝時代、北畠氏の家臣工藤氏がこの地に居館を構え、その後、南部政長の居城となり、南部氏の津軽侵攻の拠点であったとされます。城は、七戸川支流作田川左岸の標高40mの丘陵に築かれ本丸、二ノ丸、北館、下館、宝泉館、西舘、角館からなり東西400mって南北350mの規模と言われています。七戸城は1456年蛎崎の乱の時、 下北半島の蛎崎氏に攻められ落城、その後の1483年南部氏の御家騒動に巻き込まれ再度落城しています。城の南は作田川を自然の堀とし、前面と東西は要害ですが、背面は空堀だけのため、そこが弱点であったとされます。1591年の九戸の乱の時、七戸南部氏は九戸氏に味方したため、七戸城も攻撃を受け落城、七戸南部氏は断絶、城は廃城となりましたが、変節を経て1819年1万1千石で南部信鄰が七戸南部氏を継ぎ大名となりますが、城はなく本丸に代官陣屋が置かれ明治維新を迎えてます。現在城は、二の丸下の東門が再建され、本丸に七戸神明宮、二の丸などが柏葉公園になり水堀・空堀などが残る町民の憩いの場となっています。

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夏の雪だるま

南部八戸藩の居城 (2016/05/06 訪問)

青森県八戸市の八戸城です。八戸市では百名城の根城が有名ですが、八戸城は、江戸時代に新たにできた八戸藩の居城です。馬淵川・新井田川の形成した沖積平野に突き出した洪積台地の先端部を利用して築城されています。城は1334年八戸に根城を築いた陸奥国司北畠顕家の国代南部師行の孫の信助が築いた仲舘が始まりとされています。戦国末期に三戸南部信直が豊臣秀吉から南部七郡の領主として認められ、その子利直が1627年根城の八戸南部氏を遠野に移し、八戸を直轄地とし二重の堀を廻らした当城と城下町を新たに普請しています。しかし、1664年盛岡に移った南部氏の当主重直が世継ぎを定めないまま没し、徳川幕府の将軍家綱が次弟重信に盛岡八万石を、末弟直房に八戸二万石を与え八戸藩が誕生。後に本格的な整備を行っています。明治維新後、廃城となり1878年城跡に三八神社が創建され今にいたります。現在、三八城神社や三八城公園となっている所が本丸で周囲を土塁と堀で囲み東西150m南北200mの規模だったとされます。八戸市役所やおがみ神社のあたりが二ノ丸で、その周囲に三郭があったとされ、三八城とは三戸郡八戸城との意味だそうです。城跡は市街地となっているため遺構はほとんど残っていませんが、市役所駐車場向かい側に県文化財指定の八戸城角御殿表門が残っています。

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夏の雪だるま

津軽氏に抵抗した浪岡氏最後の臣下の城 (2016/05/06 訪問)

青森県五所川原市の高楯城です。飯詰城とも呼ばれ津軽為信の津軽統一の最後の戦いが行われた朝日氏の居城です。津軽平野の北東部の標高60mの丘陵に築かれ、北に糠塚川を天然の堀とし、南側も沢が堀をなし、本丸、二ノ丸、三之丸を有し東西400m南北150mの規模と言われます。本丸の城址石碑裏面の記述によると1091年藤崎城主の安藤氏がこの場所に玄武砦を築きその後高楯柵と呼ばれるようになったとされます。1335年安藤氏を頼ってきた南朝方の藤原藤房にこの城を与え藤原氏は周囲に出城を築き高楯城と改称し、のち朝日氏と名乗ってます。第13代朝日行安の時、浪岡城の北畠氏の臣下でしたが津軽為信の津軽統一の中、1578年北畠氏は滅ぼされますが、朝日氏は屈することなく最後まで津軽氏に抗戦すること十余年、1588年ついに力尽き城に火をかけ主従三百余名が自刃したとされます。城は飯詰集落の妙龍寺裏手にあり、寺の右側の小道を行くと風雪により読み取れなくなった城説明板があります。その上の台地が二ノ丸で天守閣風の集会所的な建物があり、その奥の台地が本丸で、鳥居の先の台地に城址石碑が立っています。最近、戦国時代の城を訪れ本丸にたどり着いた時、石碑や本丸などの標柱があると、ほっとするとともに感動を覚えます。

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夏の雪だるま

南部八戸市の居城 (2015/08/23 訪問)

青森県八戸市にある百名城の一つ根城です。南北朝時代、南朝方の陸奥国司北畠顕家の国代として入部した南部師行が建武元年1334年馬淵川右岸標高20mの平坦部に築城した城で、5つの郭からなっています。八戸南部氏は南朝方として最後まで活躍しましたことで有名です。その後、同族の三戸南部氏の勢力が強くなり三戸南部氏が南部氏筆頭となりましたが、八戸南部氏は有力な一族として三戸南部氏を支え、その後、江戸時代初期1627年、遠野へ移封を命ぜられ遠野南部氏となっています。その後根城は破却されましたが、盛岡藩3代南部氏藩主が病没して分割成立した八戸藩2万石の城は別の場所に新たに城を築いています。根城は東西500m南北450mの規模を有していたとされ、北側は馬淵川の断崖、西側は沢、東と南は堀で囲まれた平城とされます。城は現在、復元され史跡広場となり、隣接には八戸市博物館があります。

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夏の雪だるま

戦国南部氏の居城 (2015/09/11 訪問)

青森県三戸町にある南部氏の戦国期の本城の三戸城です。三戸盆地の中央、馬淵川と熊原川の合流点の標高90m急峻な斜面の独立丘陵に永禄年間1558~69年に三戸南部晴政が築城した要塞堅固な山城です。城は、丘陵頂部に長さ1200m幅400mの規模で、本丸、二ノ丸、家臣屋敷を配した要害です。南部氏は最盛期に青森県・岩手県北部・秋田県鹿角郡・仙北郡まで勢力下に置き「三日月の丸くなるほど南部領(三日月の時に南部領に入ると毎日歩いても満月になるまで領内を抜けられない)」と言われるほどの広大な勢力圏をもっていました。しかし、戦国末期の津軽氏の独立や秋田安東氏の鹿角侵略などや、晴政亡き後の跡目争いによる一族九戸氏の南部当主信直への反乱による豊臣秀吉の天下統一最後の戦い九戸城の戦いにつながります。九戸の乱鎮圧後、三戸城は南部氏が居城を九戸城、そして盛岡城を築き移ったため、三戸には城代・代官が置かれ、明治維新を迎えてます。城は現在、城山公園として整備され、二ノ丸に模擬天守閣が建てられ、資料館として利用されています。

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夏の雪だるま

名門浪岡御所の居城 (2015/10/11 訪問)

弘前城から北東16㎞にある青森県青森市の浪岡城です。南北朝時代、南朝方として奥羽の兵を率い京都で北朝方の足利尊氏と戦って活躍した北畠顕家の子孫が15世紀中頃に築城したとされますが、それ以前から館として使用されていたものを城郭に拡張したもののようです。1578年津軽為信は浪岡城の有力武将であり当主顕村の叔父の北畠顕範兵の留守を狙い、忍びを城内に潜入させ攪乱させるとともに、ならず者に騒ぎを起こさせ城下を混乱させ、その間に兵2300で城を包囲、そのため内応するものも現れたため、当主顕村は降伏し、自刃したとされます。城はその後、北方にある南部方の油川城攻撃の拠点として利用されたあと、1590年代には廃城となったとされます。
城は津軽平野の北側、浪岡川と正平津川の合流部北岸の標高10mに築かれた平城で、南北600m東西1200mの大きな規模を有し、幅10~20m深さ5mの堀と土塁にで囲まれた八つの曲輪により構成されていたと言われます。廃城後の江戸時代には、津軽藩の代官所などが置かれていたとされます。現在は、史跡公園として整備され南東側の隣接した場所にビジターセンターがあり、城の歴史等の展示物やパンフレットがあります。

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夏の雪だるま

南部氏の津軽郡代の居城 (2015/10/11 訪問)

弘前城から南東約11㎞にあり青森県弘前市の大仏ケ鼻城(石川城)です。いつ頃築城された定かでありませんが、鎌倉時代には、この地の地頭曽我氏が在城したとされます。その後、津軽は南部氏が制圧、津軽郡代として南部高信が1533年この城を居城に津軽を治めたとされます。1571年南部氏に従っていた津軽為信は郡代を守るためと称し、近くの古舘堀越城を修復整備、城の検分と完成の祝いと称し高信家臣を招待、宴を開きもてなし油断させ、その夜突然、大仏ケ鼻城を僅か80名余を先陣とし総勢5百弱の兵で急襲落城させてます。高信は自刃(一説には南部に逃れたとも)。南部氏はその時期、当主晴政と娘婿の信直との対立や晴政亡き後、信直と一族九戸氏との間に相続争いが続いたため津軽に介入することができず、津軽氏はその間に、南部方の津軽諸城を次々に攻略し十数年で津軽統一を果たしています。城は、津軽平野の南西部に位置する平川左岸の丘陵の標高97mに築かれた平山城で、本丸、二ノ丸、三之丸を配し東西230m南北270mの規模を有していたとされます。自然の地形を利用した要害のため遺構はほとんど残っていませんが、城は現在大仏公園として市民の憩いの場となっています。

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夏の雪だるま

津軽藩初期の居城 (2015/10/11 訪問)

弘前城から南東約7㎞にある青森県弘前市の堀越城です。1336年この地方の地頭であった曽我氏により築かれたとされますが、南北朝時代末期に南部氏に滅ぼされ南部氏の支配地となり荒廃していたものを、大浦(津軽)為信が津軽郡代南部高信の石川城を守るためと称し石川城から南東約4㎞のこの古城を改修し兵を入れ、1571年突然堀越城から兵を繰り出し石川城を急襲し落城させてます。その後、各地の津軽諸城を攻め落とし津軽支配を進め、豊臣秀吉から津軽を所領安堵され、堀越城を拡大整備、居城を1594年大浦城から堀越城へ移しています。城は、平川左岸に築かれた平城で本丸、二之丸、三之丸を有し東西400m南北400m程の規模で土塁と堀で囲まれていたと言われます。しかし、津軽為信が関ヶ原の戦いに参陣中、家臣の尾崎・多田・板垣氏が謀反を起こし、堀越城を攻撃・占領する事件や、1602年為信が預かっていた3歳になる長男信建の子供大熊に怪我をさせたことにより信建が子供の返却を求め父と対立、その際使者にたった家臣天童氏の不手際を責め天童氏を処刑。これに起こった天童一族に僅か数名で堀越城本丸まで切り込まれたことなどから、堀越城の防備に不安を持ち弘前城を新たに築城、1609年居城にしたといわれます。その後、堀越城は一国一城令により廃城になったとされます。現在城は、史跡公園として整備するため平成24年から工事を行っていて完成は平成31年だそうです。城址は本丸が熊野神社となっており、その周辺を土塁や堀などを整備しているようで、完成後が楽しみです。

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夏の雪だるま

津軽藩の居城 (2015/10/11 訪問)

青森県弘前市にある百名城の一つ弘前城です。弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、江戸時代に建造された天守や櫓などが現存しています。天守石垣が膨らみ修復が必要なことから、2015年一般参加の曳家作業により天守の移動が行われ、2016年から本格的な修復工事が始まり完成は2025年の予定です。
津軽藩初代為信が1603年に築城開始し2代藩主信枚が1611年に完成させています。城は、津軽平野の中央部岩木川右岸の標高15mの段丘に本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭からなる平山城で、城域は東西612m、南北947mに及びました。5万石弱の石高に対して非常に立派なものとなっています。
城は現在、ほぼ全域が弘前公園となっており、東北地方で江戸時代の唯一現存する天守閣など、これだけの遺稿が残っているのは全国的にも珍しく国の史跡に指定されています。
津軽は元々南部領でしたが、南部氏に従っていた大浦城主津軽為信は南部氏津軽郡代南部高信が城主を務める大仏ケ鼻城(石川城)を1571年突如兵を刳り出し攻撃、油断していた南部高信の大仏ケ鼻城は落城、城主高信は討ち死にしています。
当時、南部氏は当主晴政と婿養子の信直の間で実子晴継が生まれたことから跡目相続の対立が起こり、その後、晴政や跡を継いだ実子の晴継が病死し、信直が南部当主となりますが、これに不満をもつ一族の九戸氏らとの争いが続いたため動けず、この間に南部方の城を次々と為信は攻略、一城主から為信は津軽統一を果たすとともに、豊臣秀吉より朱印状を受け独立を果たしております。このため、津軽氏と南部氏の間には遺恨が残ることとなります。
1808年津軽藩は、実収は変わらないものの格式を上げるため石高の高直しにより10万石となり、南部藩8万石より格上となったことから、津軽藩を臣下筋と考え格下と思っていた南部藩士の反感を買うこととなり、南部藩士らの津軽藩主暗殺計画が立てられます。しかし、密告により津軽藩は参勤交代のルートを変更し藩主暗殺が未遂となる騒動も起こっています。

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夏の雪だるま

津軽氏の出世城 (2015/10/11 訪問)

弘前城から西へ約5㎞にある青森県弘前市の大浦城です。1502年大浦(津軽)光信により築かれたとされます。15世紀初頭から安東氏が治めていた津軽を南部氏が侵略、安東氏の津軽奪還を防ぐため南部氏の命により大浦氏は日本海側の鯵ヶ沢町に種里城を築き1491年入部。その後、大浦氏が津軽平野に勢力を拡大する拠点として子の大浦盛信を大浦城に配しています。城は岩木山の南東の麓の後長根川右岸に本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、西ノ郭、南郭を配した平城として築かれ土塁と堀で囲まれ東西500m南北250mの規模と言われています。大浦氏5代為信が本拠を堀越城に移すと城代が置かれ、その後一国一城令により弘前城が築かれるとき大浦城の建物を弘前城に運び廃城となっています。その後、弘前城の詰城として本丸、二ノ丸、西ノ丸が残され、西ノ丸には火薬庫などが建てられたとされます。現在は、津軽中学校の敷地となっており遺構はほとんど残っておらず城址石碑と説明板により大浦城址とわかるのみです。

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三河のかづ

形原城 (2019/01/14 訪問)

入り口は案内板がありわかりやすいです。三河湾を臨むことができます。稲荷社があり周りはきれいに保たれています。

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todo94

吉野ヶ里歴史公園開園前に (2019/01/13 訪問)

吉野ヶ里歴史公園開園前に時間調整のため立ち寄りました。堤土塁跡歴史公園として整備されていますが、灌漑施設説、太宰府などの防衛施設説、古代道路説などがあり結論は出ていないとのこと。ここを攻城数としてカウントして良いものかどうか、悩むところです。

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まっつん

中世の高松! (2019/01/14 訪問)

高松城→屋島城と巡って、まだ日暮れまでに時間があったので十河城跡へ行こうと思い立ち、下調べも何もせずに突撃しました!
十河城は現在は称念寺というお寺になっていました。
説明板によれば、寺があるのは本丸跡で、西に池、東は断崖、南に大手があったとのこと。
確かに西側には池があります。堀の跡なんでしょうね。
南側の大手はよくわかりませんでしたが、本丸が小高い丘の上に築かれていたのはよくわかりました。
東側には駐車させてもらったスペースがあり、断崖といわれてみれば確かに段差がある地形です。そこから高松の街並みも見渡せました。
北側だけ確認せずに帰りましたが、後で知ったのですが、本丸の北側に堀や土橋の跡があったり十河氏のお墓があったりするそうで、あぁ失敗したな・・・と思いました。
まぁ、また徳島城に訪れる時なんかに改めて立ち寄ってみようと思います。
城主は「鬼十河」と恐れられ戦場で活躍した猛将・十河一存や、その跡を継いで土佐の長宗我部元親と激闘を繰り広げた十河存保が有名。今は小高い丘陵の上にお寺と田畑がある場所なのですが、1582(天正10)年の十河城の戦いでは、長宗我部元親軍3万6000に取り囲まれながらも持ち堪えて一度は退かせたというのだから、ここを一体どうやって守り切ったんだろうかと思いました。すごいなぁ。

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