投稿が前後してしまいましたが、こちらが1回目の訪問です。
確か、災害級の暑さが続く日の中で、曇って気温があまり上がらなかった日だった記憶があります。
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2020/03/15 23:56
忍城 (2018/07/26 訪問)
投稿が前後してしまいましたが、こちらが1回目の訪問です。
確か、災害級の暑さが続く日の中で、曇って気温があまり上がらなかった日だった記憶があります。
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2020/03/15 23:51
小田原城 (2018/07/08 訪問)
投稿が前後してしまいましたが、こちらが1回目の訪問です。
なぜ夏にばかり訪問するのでしょう σ(^_^;)
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2020/03/15 23:05
2020/03/15 22:13
“円郭式”のお城に初登城\(^o^)/ (2020/03/15 訪問)
登城口はいくつかありますが、
駐車場から主郭までは大体20分ぐらいでたどり着きます。
それから、登城口には柵があり、夜は電流が流れるそうですよ‥💦
遺構がたくさん残っていて面白かったです。
主郭の周りをぐるりと一周できるお城に行くのは初めてで感動しました。
しかも、その帯曲輪に土塁があって防御力を高めています。
堀切がしっかり残っているのも素晴らしいですね。
踏査しててよく見るのは、半分埋まってしまっているのか、防御にならないような浅いのが多いですからね。
切岸も保存状態がいいですよ!
あと、主郭がとても広かったのが印象的でした。
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2020/03/15 22:05
桜の名所でもある100名城 (2020/03/07 訪問)
京成佐倉駅から徒歩で20分。
歴史民俗博物館を目指します。
コロナの影響でこの日は博物館は休館、公園になっている城址も人は少なかったです。
博物館の建っているところは椎木曲輪、角馬出の空堀が隣接します。
一の門から本丸、寒桜が咲いていました。
空堀や土塁、関東の土の城を満喫できる素敵な城でした。
スタンプは大手門側の佐倉城址公園管理センター、天守の復元模型もありました。
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2020/03/15 21:40
豊川沿いって本当にスゴイです! (2019/02/17 訪問)
1505年、豊川の一色城主牧野古白により今橋城が築かれ、二連木城の戸田氏に対抗していた模様。
後々もっと大きな勢力(今川、武田、徳川)の争奪戦、度重なる城主の交代を経る。
今は鉄(くろがね)櫓と石垣が見所だが、石垣の多くの刻印は江戸時代の松平時代のもののようだ。鉄櫓北側、千貫櫓付近に集中して分布している。
多くの投稿にあるように城域は広大であり、戦前は陸軍の施設として利用され、主に満州方面へ展開していた部隊の拠点だったらしい。このため人口も増えたが空襲にも遭った。
城は今や史跡だが戦のためのもの。忘れてはならない歴史があり、ここへ来て改めて思った。
因みに登城日はポケモンGOのイベントがあったようで多くの人々がスマホと戦っていた(笑)
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2020/03/15 21:20
駿府城も御城印販売! (2020/03/15 訪問)
日本100名城の駿府城でも御城印が出ましたが、少し変わったものが。
(右)は和紙の御城印300円也。
(左)は静岡産のヒノキ500円也。
そういえば名古屋の末盛城は古地図入りなど、城によって個性があると集め甲斐もありますね。
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2020/03/15 21:08
商店街の中に石碑 (2020/03/15 訪問)
遺構は消滅しています。
商店街の中に石碑がありました。
駐車場はありません。
多治見国長というのは正中の変(後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕事件)の失敗で殺された人物なのですね。岐阜の武将がこのような事件にかかわっていたというのは初めて知りました。
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2020/03/15 20:47
鹿野城 (2020/02/23 訪問)
【鹿野城】
<駐車場他>稲荷神社前・本丸東側観光駐車場
<交通手段>車
<見所>堀・石垣・天守台跡
<感想>この城は築城年は不明であるが因幡の国人領主志加奴氏(鹿野氏)が築城したといわれている。秀吉時代に尼子家旧臣の亀井茲矩が秀吉に仕えこの地を統治し、関ヶ原の戦いでは東軍に属して加増されて3万8千石の領主として鹿野藩領主となった。この時近世城郭に改修されたらしい。 1617年茲矩の嫡子政矩は津和野藩へ転封され 鹿野藩は鳥取藩に吸収され、のち城は破却された。
城跡は麓に本丸跡・二の丸跡があり堀で囲んでいて、本丸跡は鹿野中学校校庭、二の丸跡には鹿野中学校校舎が建っている。南側背後の山は山頂に天守台があり、曲がりくねった登山道のカーブ所に曲輪がそれぞれある。曲輪には名称板がなく珍しい名称の曲輪があったらしいが、どれがどれかはちょっとわからなかったが、礎石建物跡の石が見られた曲輪もあった。
天守台は小さく、ここも礎石が見られて石垣も一部残っている。麓の本丸跡の北東側法面は階段状の石垣、東側にある薬研堀周辺が当時の雰囲気が残り見応えある。石垣遺構が小玉石のような箇所や比較的大きくて角のある箇所、様々あり面白かった。
<満足度>◆◆◆
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2020/03/15 18:56
本で見ました (2020/03/15 訪問)
千葉の沼地にある台地に造られた大規模な城です。
建物はないですが遺構が残っています。
『歴史作家の城巡り』を読んで訪れました。
きちんと整備されていますが時節柄からか人は殆ど居ませんでした。
近くのアウトレットにはたくさんお車が停まっていましたが‥‥
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2020/03/15 18:00
織田家代々の陣屋跡。 (2020/03/07 訪問)
この日は午後から急遽空き時間ができたのでなんとなく、これまた黒井城と同じく20年来訪れていなかった丹波國は柏原を再訪することに。
柏原八幡神社や織田家廟所(明治の廃仏毀釈で廃寺となった柏原藩主菩提寺跡)などを訪れた後、旧大手筋を通って柏原藩の陣屋跡を訪れました。
柏原藩は慶長三年(1598)に織田信長の弟である信包が三万六千石で入封して三代信勝の代まで続きましたが無嗣断絶となってしまい、その後は幕府の天領となりました。
しかし元禄八年(1695)、大和宇陀松山より織田信雄の血筋である織田信休が(お家騒動の咎により二万八千石から二万石に減封のうえ)移封されて以来、代々二万石を領し明治維新を迎え、そして由緒ある織田家の血脈を現代までつなぎました。
藩邸の創設は正徳四年(1714)。上記の経緯で移封されたので当然のように財政難。さらに幕府から陣屋建造の許可がなかなか下りず、ようやく許されたのが入封からなんと約18年後の正徳三年(1713)だったそうです。
ところが、文政元年(1818)に失火によって陣屋門を残して全焼。その後、文政三年(1820)になんとか再建されたのが現存する御殿となります。
現存する御殿は表御殿の一部で、玄関、式台、御使者の間、同次の間、書院上段の間、同次の間御使者の間、同次の間、長柄の間からなり、全体規模の約5分の1が明治の取り壊しをも免れて残っています。
内部撮影が出来ないのは残念ですが、千鳥破風と唐破風を組み合せた檜皮葺の玄関も織田家の風格を示す立派なものです。
創設当初から残る陣屋の正門であった長屋門や敷地内に平面整備された台所跡や御用所跡、井戸跡も見所です。
また町内に移築されて現存している『太鼓やぐら』は見逃せません。元々は大手門脇に建っていたそうで、町内の監視の他に番所としての機能もあったようです。
町内には当時の町割りがよく残っていたり、柏原八幡神社や『木の根橋』など見所が多いので、半日コースから十分堪能出来ますよ。
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2020/03/15 17:24
2020/03/15 17:09
2020/03/15 16:39
水城
底辺の幅80m、上辺でも幅25mに及ぶ巨大な防壁が7世紀に造られた。こんなものを造らずにはいられなかった当時の危機感みたいなものって、いったいどれだけものすごかったのだろう。
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2020/03/15 16:10
2020/03/15 04:04
2020/03/15 02:00
西条高校 (2020/03/08 訪問)
西条陣屋跡の大半が西条高校です。
大手門が学校正門。
水堀は広く、石垣があれば陣屋というより平城レベルです。
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2020/03/15 01:53
土居構 (2020/03/08 訪問)
今も住んでる方がいます。
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2020/03/14 21:14
甲州流築城技術の傑作 (2020/03/14 訪問)
城に入った第一印象が、古宮城と諏訪原城を足してニで割ったような素晴らしい城だと。
古宮城築城が1571年、諏訪原城築城は1573年。小長谷城が今川から武田方になったのが1568年で廃城が1582年。小長谷氏は南北朝時代の徳山城主土岐氏の一族との事。私の想像だが、古井戸の存在からも居城はこの位置に古くからあったとは思うが、今の形になったのは、諏訪原城築城後に武田方による新築だと思う。理由は、南北朝時代築城でこの段々曲輪は無いのではなかろうかと思うからだ。さて、縄張りだが、今はP &G海洋センターになってしまっているが、前面道路を大堀切として北城・南城とし、段々曲輪と連続堀切は古宮城そっくりであり、小長谷城の弱点である南東の縄張りは、諏訪原城の南曲輪東馬出し付近にそっくりである。
ズバリ見所は、本丸東側の連続大空堀と、東南の丸馬出しと珍しい角馬出しの重ね馬出しだ。城の保存状態も良く、城内には木々もそれなりにあるが、一本一本が太く神々しい。北城や大堀切が残っていたら、この駿遠境目の重要拠点、諏訪原城級の国指定に値したと思う。
千頭まで来るに大変ではあるが、大満足だ。
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2020/03/14 20:25
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