二連木城は三河湾を押えた戸田氏が田原から三河平野進出を目指して築いた城です。戸田氏は田原の本家と分家の二連木戸田氏に分かれ、田原の戸田氏が今川義元に滅ぼされた後に今川氏・徳川氏(松平)に使えました。
城址は大口公園になっていて主郭の周囲には土塁が残っています。北西部は地形の改編が有る可能性が有り、再現されたものの可能性があります。東の豊橋二連木老人福祉センターが二郭跡と見られ北側に土塁の一部が残っています。また主郭と二郭の間の堀は通路として転用されています。
元亀2年(1571)武田信玄が三河に侵攻して来た際に、武田軍の吉田城攻略に備えて酒井忠次が二連木城に入っています。二連木城は元々は戸田氏が牧野氏の吉田城攻略に使用したりしましたが、後に吉田城の支城の役割を果たすようになっていたようです。
家康が、からくも吉田城に入ったので忠次も吉田城に戻ろうとしますが、武田軍の攻撃を受け多くの犠牲を出してしまったようです。
家康と忠次が吉田城に籠って守りを固めたため、信玄も無理に攻めずに甲斐に引き返しています。この翌年、信玄は3万(諸説あり)の兵を率いて青崩峠より侵攻し、三方ヶ原の戦いに至ります。
天正3年(1575)に武田勝頼が三河に侵攻をしてきたときも付近を放火し(落城とも)、吉田城を包囲しています。こののち武田軍は長篠城攻略に乗り出し設楽ヶ原の決戦に至ります。
※内容を一部修正しました。
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