坂本城に代わる琵琶湖水運の拠点として、豊臣秀吉の命により浅野長吉(長政)が築いた城で、関ケ原の戦いに際しては、東軍についた城主・京極高次が大津城に籠城して立花宗茂ら西軍精鋭の足止めを果たし、東軍の勝利に貢献しました。その後、大津は水運の拠点であって防衛には不向きなことから、徳川家康により城としての機能を膳所城に移して廃城となりましたが、建物の部材は膳所城に、天守は「落ちなかった城」の縁起を担いで彦根城に移築されました。
市街化によって遺構はほぼ消滅しており、本丸跡に石碑があるくらい……かと思いきや、石碑や説明板に併設された「大津城縄張推定復元図」を参照しながら城域をぶらぶら歩いてみると、意外にいろいろと痕跡を見つけることができました。
石碑から南南東に徒歩6分の朝日生命大津ビルの南東角(三の丸東側外堀)には模擬石垣や石碑、説明板が、模擬石垣から西に徒歩3分行くと中堀跡を埋め立てて開かれた旧中堀町の標柱が、旧中堀町から南に徒歩2分の大津祭曳山展示館の裏手には外堀跡のものとされる石垣が、大津祭曳山展示館から北西に徒歩10分行くと外堀の名残の百々川が、百々川から東に徒歩4分の川口公園は川口堀と呼ばれた中堀跡を埋め立てた公園で、公園北側の県道沿いに説明板があります。
ところで、この日は明智光秀ゆかりの史跡をめぐるのが主な目的でしたが、大津城から東南東に徒歩15分の琵琶湖文化館前には「明智左馬之助湖水渡ところ」の石碑があります。山崎の戦いでの明智光秀の敗報を受けて安土城から坂本城に向かった明智左馬之助(秀満)でしたが、堀秀政に行く手を阻まれたため、打出浜から馬に乗ったまま琵琶湖を渡って坂本城に入ったとする伝説に基づくもので、唐崎神社の霊松(打出浜から北に約4.4km)を目標にしたとも、柳が崎(打出浜から北北西に約2.4km)に上陸して松に馬を繋ぎとめたとも言われています。
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