3年前にも行きましたが、以前はなかった、小さな忍者モニュメント・顔ハメ付きの説明板が設置されていて面白かったです。
併せて行った周辺の喰代城・吉田氏城等では、どこも整備されていませんでしたが、ここは良く整備されていて夏場でも見学し易かったです。
主郭は広く、南側と北側には虎口があり、郭を囲む北東側の土塁は分厚く、主郭の東側には長大な堀切があります。
伊賀の城の中では、縄張りは広く、さすが伊賀三大上忍ともいわれるだけある居城だと思いました。
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2020/09/21 22:52
伊賀忍者リーダー格の百地氏の城 (2020/09/20 訪問)
3年前にも行きましたが、以前はなかった、小さな忍者モニュメント・顔ハメ付きの説明板が設置されていて面白かったです。
併せて行った周辺の喰代城・吉田氏城等では、どこも整備されていませんでしたが、ここは良く整備されていて夏場でも見学し易かったです。
主郭は広く、南側と北側には虎口があり、郭を囲む北東側の土塁は分厚く、主郭の東側には長大な堀切があります。
伊賀の城の中では、縄張りは広く、さすが伊賀三大上忍ともいわれるだけある居城だと思いました。
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2020/09/21 22:51
2020/09/21 22:40
2020/09/21 22:33
2020/09/21 22:21
並木屋敷 (2020/09/19 訪問)
畑となっていて遺構はありません。並木屋敷の案内板があります。
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2020/09/21 22:15
藤原基衡の妻 (2020/09/19 訪問)
藤原基衡の妻が旅人を接待したり、施しを与えた場所であったため接待館と呼ばれるようになったということです。
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2020/09/21 22:10
2020/09/21 22:06
一緒に足利義輝邸跡も確認。 (2020/09/21 訪問)
石柱が残っているだけで、遺構はありません。
ただ、偶然にも室町幕府13代将軍の足利義輝が殺された場所に遭遇。
9月20日放送の「大河ドラマ 麒麟がくる」で義輝(向井理)が殺されて、次の日にやってくるとはすごい偶然です。
まあ、そちらも遺構は残っていないのですが、二条古城を訪れる予定の方は是非こちらもチェックしてください。
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2020/09/21 22:02
奥州市役所 (2020/09/19 訪問)
奥州市役所に案内板、冠木門、姥杉があります。
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2020/09/21 21:58
2020/09/21 21:46
2020/09/21 21:36
2020/09/21 21:26
2020/09/21 21:22
金ヶ崎要害 (2020/09/18 訪問)
坂上田村麻呂が築いたという伝承があります。江戸時代には伊達藩の要害として存在していました。JR金ヶ崎駅から徒歩10分くらいで城址に行くことができます。北上川の断崖に築かれた城で、川の浸食により築城当時から形状が変わって行ったようです。堀や土塁を見ることができます。
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2020/09/21 21:12
2020/09/21 20:57
和賀氏の初期の城 (2020/09/18 訪問)
和賀氏の初期の城址と考えられていて主郭跡には神社があり、鳥居の横に案内板があります。堀跡を見ることができます。
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2020/09/21 20:43
坂本城址公園 (2020/09/20 訪問)
坂本城址公園を訪問しました。
坂本城は織田信長の命により明智光秀が築いた城です。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと考えられています。堀は琵琶湖につながっており、城内から直接船に乗り込めるようになっていました。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ、城である」と記しています。現在は坂本城址公園として整備されており、琵琶湖の渇水時には、湖中に残る石垣を見ることができます。また近くには明智一族の墓と伝えられている明智塚があります。
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2020/09/21 20:40
西教寺 (2020/09/20 訪問)
西教寺を訪問しました。
びわ湖大津光秀大博覧会が開催されています。
坂本城の御城印を購入しました。
西教寺は明智一族の菩提寺になっています。
聖徳太子により創建され真盛が再興した寺院。天台真盛宗総本山。
戒律・念仏の道場として、1日も絶えることなく念仏が唱えられている。
比叡山焼き討ちで焼失した後明智光秀が復興したことから、明智一族の墓が残っている。境内には、総欅造りの本堂(重要文化財)や伏見桃山城の宮殿を移築した客殿がある。
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2020/09/21 20:17
丸岡城(餘部城) (2020/09/20 訪問)
京都大河ドラマ館にて丸岡城跡が近くにあるを知ってすぐ訪問しました。
西岸寺にうかがい御城印を3種類購入しました。
お彼岸法要でお客様が多数いらっしゃいました。
丹波丸岡城は八上城主・波多野氏に従った福井因幡守貞政が城主をつとめた城です。織田信長の命を受け丹波攻略に乗り出した明智光秀は1577年(天正5年)に降伏を勧告しますが、福井氏はこれを拒んだため、翌年光秀によって攻められ、福井氏一族は滅亡しました。その後、光秀が拠点として使用したとも伝えられており、江戸時代の1654年(承応3年)に廃城となりました。現在城址は西岸寺の境内となっており、城址碑と案内板が建てられています。
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2020/09/21 20:08
聚楽第(京都市考古資料館) (2020/09/20 訪問)
京都市考古資料館を訪問しました。入館料は無料です。
「聚楽第」の御城印を購入しました。
付近を散策し、「聚楽第」の石碑を確認しました。
聚楽城は関白になった豊臣秀吉によって、平安京大内裏(平安宮)跡に建てられた政庁兼邸宅です。一般には「聚楽第」と呼ばれることが多いです。秀吉は関白職を甥の秀次に譲った際に聚楽第も譲り渡していますが、実子である秀頼が生まれると、いわゆる「秀次事件」によって秀次を高野山に追放し切腹させ、聚楽第を破却しました。完成からわずか8年後のことです。聚楽第の建造物の多くは伏見城(指月伏見城)へ移築されたとされています。また、西本願寺の飛雲閣など聚楽第から移築されたと伝わる建造物も少なくありませんが、いずれも詳細は不明です。いまのところ聚楽第の遺構と認められている建造物は唯一、大徳寺の唐門だけです。現在は石碑が残るくらいですが、跡地を歩くとその規模の大きさを実感することができます。跡地には黒田官兵衛(孝高)や上杉景勝、千利休などの屋敷跡を示す石碑が建てられています。
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