ころもがわのさく

衣川柵

岩手県奥州市

別名 : 並木衣川館、並木屋敷
旧国名 : 陸奥

投稿する
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

しんちゃん

並木屋敷と小松館 (2024/01/05 訪問)

衣川柵は安倍氏の支配の時代は並木屋敷と呼ばれていました。蛇行する衣川の柵は天然の堀となり並木屋敷の時代には柵は築かれていなかったようです。私は戦国時代以外にはあまり興味が無く、あったとしても南北朝や源平、幕末などの動乱の時期などに限られます。
もう少し、歴史の興味の幅を広げてみようかなと思います。同じ城館跡でも、蝦夷の支配者の時代と、中央から攻めてきた武士の時代とでは呼び名が違っているようです。
康平6年(1063)~永保3年(1083)までの20年間は安倍氏に代わって清原三代が奥六郡を支配しており、これ以来衣川柵と称されるようになったようです。阿弖流為と違って、安倍氏は蝦夷の血を引く人々を支配した一族だと思うので、そこは「歴史探偵」などでも正確に放送して欲しいと思います。
並木屋敷の先、川の近くにも小松館の跡があります。康平5年(1062)8月、磐井郡の小松柵にて源頼義と清原武則の連合軍を破った、安倍貞任の叔父、僧良照の居館であったと伝えられます。川向うから敵が来襲するとすれば並木屋敷を守る位置にあります。戦国時代には葛西氏の家臣、破石氏が居館を構えていましたが、天正18年(1590)の奥羽仕置で葛西氏と共に滅亡してしまったそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

衣川柵初登城 (2024/05/23 訪問)

 接待館を終えて、前の道を西に約800mで衣川柵案内板に着きます。衣川柵初登城です。

 駐車場:無し、交通量は少なく案内板前に幅寄せして一時路駐。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 衣川柵と聞くと安倍貞任と源義家の騎馬による歌合せ古代の武士の戦いは優雅だったのでしょうか?小学生の頃の日本史絵本が甦ってきます。
 事前に案内板だけと聞き及んでいましたので案内板と周辺、少し北奥を眺めて終了。

 案内板によると
 永承元年(1045年)安倍頼時が当時一帯に本拠を構えた、康平5年(1062年)9月安倍貞任撤退まで18年間安倍氏の政庁であった。その翌年の康平6年(1063年)から永保3年(1083年)までの20年間は安倍氏に替って奥六郡を支配した清原氏三代の政庁もしくは居館であったと言われる。
 

+ 続きを読む

にのまる

伝・並木屋敷跡。長者原廃寺跡も行きました。 (2022/11/27 訪問)

接待館から徒歩10分くらい。「並木屋敷(伝)」の説明板がありました。
抑えておきたかった場所なので、“伝”であっても、目に見える遺構がなくても満足度は高かったです。(写真①~③)

このあと長者原廃寺跡に行きました。(写真④~⑦)歩いて10分くらいです。
“遺構がなくても満足”の前言撤回するわけではないですが、目に見える遺構や復元された姿を目に出来るのはとてもありがたいし幸せです。
現地説明板に〈源頼朝も目にしたかった礎石群〉とありました。
「頼朝も城柵好きの礎石マニアだったか(゚д゚)!」
と急に親近感を感じ、帰宅後、吾妻鏡の現代語訳(吉川弘文館)を借りてみました。
文治5年(1189)9月27日の頁。
“草に覆われ礎石の場所もわからず……”
頼朝さんも藪漕ぎしたのかな( *´艸`)

ここまで歩いてきたので平泉駅まで戻るのがすごく面倒で、やっぱりレンタサイクル借りればよかったかなぁと思いつつ中尊寺から平泉駅までのバス便を検索してみたら一ノ関行きだったのでそのまま新幹線で帰れました。なんかよかったです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

並木屋敷 (2020/09/19 訪問)

 畑となっていて遺構はありません。並木屋敷の案内板があります。

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 古代城柵
天守構造 なし
築城主 安倍頼時
築城年 永承元年(1046)頃
主な城主 安倍氏、清原氏
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 岩手県奥州市衣川並木前
問い合わせ先 奥州市衣川総合支所農林商工観光課
問い合わせ先電話番号 0197-52-3111