ももちたんばじょう

百地丹波城

三重県伊賀市

別名 : 百地砦、百地丹波屋敷
旧国名 : 伊賀

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南側虎口より主郭をのぞむ
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しんしんちゃん

有名だけどミステリアスな百地丹波の城。 (2023/06/25 訪問)

百地丹波は服部氏族から分かれた伊賀三大上忍の一家で
他には服部半蔵(千賀地)、藤林長門守がいるようです。この三家
服部家以外は名前もはっきりせず、ミステリアスな所が忍者の上忍らしくて
良いですね。
百地丹波城はもちろん、百地丹波の城(砦)で構造も城郭らしく
しっかり造ってあるようです。
せっかくですので、おっちゃんさんの掲載していただいた縄張りで
紹介させていただくと(ありがとうございます)、郭Cが主郭で周囲を高い土塁で囲い
北と南に虎口を設けてあります。
東に二の郭となるB郭があり、その間に堀切がありますが主郭の東側に
虎口のような切欠きがあり、そこから直接B郭に行くことが出来ます。
B郭から先にA郭があり、そこにも土塁が残っています。
主郭の南に式部塚があり、その間にも堀切があるようですが
どうにも紫式部と百地丹波が結びつきません。
イメージが違いすぎるんですよね‥正直自分の中に忍者に対して雅な
イメージがまったくありません。(失礼)
清竜寺が郭Dとなっているので、ここは普段の生活に使っていたのでしょう。
郭Dの南に池があって、その南に台地があるので、ここは物見に
使っていたのではないでしょうか。
屋敷の近くに池があるのが上忍らしいですね。
冗談抜きで良い井戸を巡って殺し合うぐらいの人達らしいので。
(甲賀流忍術屋に関する資料より推測(私見あり))

補足‥主郭北側の土塁の向こうはコンクリの絶壁です。こういうの
   危ないから嫌いだな‥。

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おっちゃん

百地氏城跡縄張図 (2018/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

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カズサン

伊賀未踏の城廻りⅥ 伊賀忍者百地丹波の城郭 (2021/04/11 訪問)

 伊賀丸山城を終えて北東へ約6、7km程の百地丹波城を目指す、駐車場は無さそうなので伊賀コリドールロードと県道56号線が西に曲がる交差点にナビを定めて走行。(情報とガイドは城郭放浪記さん)

 路駐場所:N34°44'22" E136°12'58"の地点、ナビで定めた場所でした路肩三角コーナー、県道56号線と伊賀コリドールロードとの交差点、百地丹波城の有る青雲寺の北西約200m程。

 概要案内:久米川南の西に突き出た丘陵に連郭式4曲輪、北に久米川の外堀利用、南に丸形池、沼状なのか濠、谷筋で護られ、各曲輪は堀切で防いでる。
 案内板の縄張図では郭D:青雲寺、館か?、郭C:本郭、西と東に分かれてる、郭B:2の郭、郭A:少し離れてる高所
 青雲寺西の堀切から入るが細くて狭い切通、鹿児島のシラス台地の切通、清色城を思い出す、青雲寺に入り参拝、案内チラシを頂く、トイレも利用、青雲寺の堀切越しの西には百地家の墓所、東崖の上に郭C本郭、南に回って南虎口より入る、本郭は南を除いて土塁、東側が高土塁、北東に虎口有り、北の高土塁の東は堀切、東へ郭Bちょっと入郭が分からない。
 式部塚への土塁を確認し同曲輪に狭い堀切道で曲輪防御の様。
 こじんまりしてるが良く出来た城郭です。

 歴史:室町時代に百地丹波泰光によって築かれた、街道を見下ろし丘陵に立地してる、天正7年(1579年)第1次天正伊賀の乱は鬼癭峠の戦いで喰代村から百地丹波、百地田中氏が織田信雄を迎え撃った。天正9年(1581年)第2次天正伊賀の乱には百地丹波は名張の柏原城に立て籠もった、以後立ち去り不明とか?名前を変えて隠棲したとか?色々言われてます。(青雲寺案内チラシ抜粋)

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pascal

伊賀忍者の首領は百地丹波守だけだった? (2018/10/03 訪問)

伊賀の上忍(首領)三家のひとつ、百地丹波守の居城です。

 伊賀忍者は文書を残さないので、史実は不明な部分が殆どなのですが、百地丹波の城だろうと言われています。
駐車場は永保寺の参拝用をお借りします。
本堂の右手に城址看板があるので、石仏が並ぶ小径を5分ほど散歩して城址に辿り着きました。

 城は主郭を中心に幾つかの副郭が守る、伊賀の城ではレベルの高い縄張りです。
おそらく、隣接する寺院や墓地も防御の一翼をになっていたのでしょうね。
 主郭は300坪の方形で、三方を高い土塁で囲まれています。
段差のある西側は土塁が低くなって、城域が見渡せる様になっており、実用重視です。
虎口は南北に2箇所ですが、南虎口が大手の様に見えます。
郭内には若干高くなった住居跡の土盛りも遺っていて、より当時の様子が想像できます。
 
 説明看板は3枚掲げられていますが、意外に突っ込んだ記述内容に深く興味を惹かれます。
上忍三家とは、服部、藤林、そして百地家なのですが、
服部家は半蔵保長という名が出て来るものの、半蔵正成が徳川に仕官して以降振るわず、実質は分家の百地家が面倒見ていた…という話は他で聴きました。
此処には、もうひとつの『藤林長門守も、過去帳からどうやら百地丹波と同一人物らしい』と書かれてあります。

 忍者が次々に名を変え、別人に成りすますのは有り得る事と思いますが、百地丹波守は織田信長に独りで立ち向かった…となると、がぜんその人物像に興味が湧いてきます。
天正伊賀の乱では、最後の柏原城で降伏開城後に忽然と姿を消した百地丹波守。
何処で誰になって何をしたのでしょうね?
史実は不明ゆえ、なおさら浪漫を掻き立てられる城です。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 百地氏
築城年 室町時代
主な城主 百地氏
遺構 曲輪、土塁、堀切
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県伊賀市喰代字城谷
問い合わせ先 伊賀流忍者博物館
問い合わせ先電話番号 0595-23-0311