石川五右衛門や霧隠才蔵の師として物語に登場する百地三太夫と混同されるが三太夫は架空の人物。でも百地丹波は伊賀三大上忍の一人に数えられるほどなのでいわばホンモノ。その居城はさすがに土塁がでかくて高かった。
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2025/12/29 21:57
2023/07/08 14:21
有名だけどミステリアスな百地丹波の城。 (2023/06/25 訪問)
百地丹波は服部氏族から分かれた伊賀三大上忍の一家で
他には服部半蔵(千賀地)、藤林長門守がいるようです。この三家
服部家以外は名前もはっきりせず、ミステリアスな所が忍者の上忍らしくて
良いですね。
百地丹波城はもちろん、百地丹波の城(砦)で構造も城郭らしく
しっかり造ってあるようです。
せっかくですので、おっちゃんさんの掲載していただいた縄張りで
紹介させていただくと(ありがとうございます)、郭Cが主郭で周囲を高い土塁で囲い
北と南に虎口を設けてあります。
東に二の郭となるB郭があり、その間に堀切がありますが主郭の東側に
虎口のような切欠きがあり、そこから直接B郭に行くことが出来ます。
B郭から先にA郭があり、そこにも土塁が残っています。
主郭の南に式部塚があり、その間にも堀切があるようですが
どうにも紫式部と百地丹波が結びつきません。
イメージが違いすぎるんですよね‥正直自分の中に忍者に対して雅な
イメージがまったくありません。(失礼)
清竜寺が郭Dとなっているので、ここは普段の生活に使っていたのでしょう。
郭Dの南に池があって、その南に台地があるので、ここは物見に
使っていたのではないでしょうか。
屋敷の近くに池があるのが上忍らしいですね。
冗談抜きで良い井戸を巡って殺し合うぐらいの人達らしいので。
(甲賀流忍術屋に関する資料より推測(私見あり))
補足‥主郭北側の土塁の向こうはコンクリの絶壁です。こういうの
危ないから嫌いだな‥。
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2022/09/05 12:13
2021/04/22 15:29
伊賀未踏の城廻りⅥ 伊賀忍者百地丹波の城郭 (2021/04/11 訪問)
伊賀丸山城を終えて北東へ約6、7km程の百地丹波城を目指す、駐車場は無さそうなので伊賀コリドールロードと県道56号線が西に曲がる交差点にナビを定めて走行。(情報とガイドは城郭放浪記さん)
路駐場所:N34°44'22" E136°12'58"の地点、ナビで定めた場所でした路肩三角コーナー、県道56号線と伊賀コリドールロードとの交差点、百地丹波城の有る青雲寺の北西約200m程。
概要案内:久米川南の西に突き出た丘陵に連郭式4曲輪、北に久米川の外堀利用、南に丸形池、沼状なのか濠、谷筋で護られ、各曲輪は堀切で防いでる。
案内板の縄張図では郭D:青雲寺、館か?、郭C:本郭、西と東に分かれてる、郭B:2の郭、郭A:少し離れてる高所
青雲寺西の堀切から入るが細くて狭い切通、鹿児島のシラス台地の切通、清色城を思い出す、青雲寺に入り参拝、案内チラシを頂く、トイレも利用、青雲寺の堀切越しの西には百地家の墓所、東崖の上に郭C本郭、南に回って南虎口より入る、本郭は南を除いて土塁、東側が高土塁、北東に虎口有り、北の高土塁の東は堀切、東へ郭Bちょっと入郭が分からない。
式部塚への土塁を確認し同曲輪に狭い堀切道で曲輪防御の様。
こじんまりしてるが良く出来た城郭です。
歴史:室町時代に百地丹波泰光によって築かれた、街道を見下ろし丘陵に立地してる、天正7年(1579年)第1次天正伊賀の乱は鬼癭峠の戦いで喰代村から百地丹波、百地田中氏が織田信雄を迎え撃った。天正9年(1581年)第2次天正伊賀の乱には百地丹波は名張の柏原城に立て籠もった、以後立ち去り不明とか?名前を変えて隠棲したとか?色々言われてます。(青雲寺案内チラシ抜粋)
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| 分類・構造 | 丘城 |
|---|---|
| 築城主 | 百地氏 |
| 築城年 | 室町時代 |
| 主な城主 | 百地氏 |
| 遺構 | 曲輪、土塁、堀切 |
| 再建造物 | 石碑、説明板 |
| 住所 | 三重県伊賀市喰代字城谷 |
| 問い合わせ先 | 伊賀流忍者博物館 |
| 問い合わせ先電話番号 | 0595-23-0311 |