ふぎゅうじょう

浮牛城

岩手県北上市

別名 : 上口内要害
旧国名 : 陸奥

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本丸・帯曲輪切岸を東側二の丸より眺める
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カズサン

安倍貞任築城伝承のある浮牛城 (2022/05/28 訪問)

 長年探し求めていた陸奥不動堂城がぎりょうさん投稿の鶴頭城が不動堂城であり西館とも呼称されてる事を知り、昨年より今春の城廻りに岩手宮城を当て込んで居ましたが、武漢コロナウイルス新株7波の広がり、連休初めと当て込んで居ましたがカーナビの内臓電池の膨らみ故障で断念、カーナビが入手出来ましたので早速先週末から3泊4日で、浮牛城、不動堂城、桑折城、大衡城、大窪城を目指して高速道北上約800km程、前沢SAで車中泊し北上釣子ICを降り浮牛城を目指し初登城しました。
 登城触発はぎりょうさん投稿に由ります、車は古城盛衰記さん情報の駐車エリヤを利用、登城探訪は余湖図コレクションさんの情報縄張図による。
 
 駐車したエリアが大手門跡桝形の内部でした、そこから丘陵が控え、切岸、本丸が殿と構え一気に胸キュンです、本丸、広い帯曲輪の下が二の丸跡本丸を南、東、北が囲ってる、畑、あぐり夢くちないの施設に成って居る、本丸、帯曲輪は公園と成って居る、しかし夏草が茂り踏み込むには躊躇する、遊歩道らしき所は草刈りされて居り、梵字池、浮牛城解説板、石碑、標柱は望遠を使い撮影、搦手道も草刈りされて居て北側の帯曲輪に降りる、帯曲輪の北が北からの山稜を堀込んだ空堀跡草木が茂り良く分からいが凹みが有りうすうす分かる、北側二の丸が公園広場、あぐり夢くちない施設に繋がっている、駐車可能の様子。
 戻って口内川の橋が大橋跡の標柱、南から東に水堀が残っているが葦類で茂っている、土曜日日曜日晴れの予想で高速を飛ばして訪ねたのですが40分探訪した頃にわか雨で撤収。
 帰りに気が付きましたが入り込む角の在る口内郵便局の南前に六区?公民館が有り駐車可能かも?

 800km程飛ばしてきた甲斐が有りました、本丸切岸、広い帯曲輪切岸が素晴らしい残りです、安倍貞任の伝承にも興奮ものです、大堀切空堀は草木ではっきりとは確認出来ませんが秋枯れの年末か春先の草が茂る前が見応えの在る時期かと思います。
 夏草と安倍貞任で芭蕉の句「夏草や 兵どもが 夢の跡」を安倍貞任にも捧げても良いのではと思ってしまう。

 歴史的な面は「ぎりょうさん」の投稿を見て頂ければ深い知識で十分に書き込まれています。
 ぎりょうさん有難うございました、今後も期待して拝見させて頂きます。

 この後宮城県不動堂城(鶴頭城・西館・鶴館)を目指し約100km程南下します。

 

 

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ぎりょう

旧仙台藩の要害を訪ねて 上口内要害 (2021/09/12 訪問)

旧仙台藩に於いては元和の一国一城令の後も、城とそれに付随する城下町の機能を持った「要害」と呼ばれる地域の拠点となる施設が21ヶ所あった。中世城郭を再利用したものがほとんどであり、その配置は他藩と接する南北の境と、奥羽仕置き後に一揆の起きた葛西氏・大崎氏の旧領を押さえる意図があったと思われる。
これまで旧仙台藩内にある城跡(要害として使用された場所を含め)を数々訪問して投稿してきた。長引くコロナ禍で遠出のできない今、改めて21要害を訪れてみようと考えた。その第一回目として旧仙台藩最北の藩境に配置された上口内(かみくちない)要害を訪れた。
上口内要害は仙台藩と南部藩を結ぶ脇街道を押さえる役割を担っていたと考えられ、藩政時代の口内領主は瀬上氏、小梁川氏、藤田氏、田手氏、古内氏と変わり、最後は中島氏(一族1880石)で明治維新を迎えた。
築城者は安倍貞任との伝もあるようだが、戦国時代は葛西氏家臣の口内氏が居住したが奥州仕置き後に仙台藩領となり要害に格付けされた。
城址は口内の街並みの北側に位置し、口内川に架かる橋を渡った先が大手門跡となり、その先を左に登れば本丸・腰曲輪方面、正面に向うと二曲輪跡となる。明治五年の調査をまとめた富原文庫蔵「陸軍省城絵図」によれば、本丸は南北三十一間、東西四十四間、二曲輪は南北五十三間、東西八十五間と記載され、本丸の切岸とそれを取り巻く腰曲輪、城の南側から東側を囲む水堀、北側から西側を囲む空堀、門、当時存在した屋敷・土蔵・小屋などの建物群も描かれている。
現況は二曲輪は農地や民家となり、水掘も埋立られてかつての面影は失われているものの、本丸と腰曲輪は良く保存されている。また空堀は北西部は残っているらしいが雑草が生い茂っており確認できなかった。
東北自動車道北上・金成ICから県道14号・国道107号経由19分(16.2km)
城址専用駐車場は無く、口内郵便局向いの集会場か、あぐり夢くちない駐車場に停めさせていただくと便利。

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上口内要害 (2020/09/18 訪問)

 安倍貞任が築城したとも伝えられる城址です。江戸時代にも伊達氏の上口内要害として残っています。公園として整備され歩きやすく、案内表示板もあります。ただ空堀跡は藪になっていてよくわかりません。かなり形状が残っているように思えたので、横からの侵入を試みましたが、藪がひどく断念しました。

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夏の雪だるま

伊達藩領北の浮牛要害 (2016/06/04 訪問)

岩手県北上市の浮牛城です。いつ頃築城されたかは定かではむありませんが、安倍貞任が築城したとされます。鎌倉時代になり葛西氏七党の一人、岩谷堂城の江刺氏の子口内氏が戦国時代居城したとされます。しかし、葛西氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず改易。口内氏も城を去り、その後伊達領となり南部領との境目の城として要害と称し伊達家家臣が在城。1695年には中島氏が城主となり明治維新まで続いています。城はJR北上駅の東約8km、岩谷堂城の北12km程の口内川北岸にあり独立丘陵頂部に本丸、東南側に二の丸、二ノ丸周囲には水堀が廻らされ、北東側は空堀が廻らされ、北側は断崖となっています。口内川両岸には家臣屋敷を配し中島氏は2524石の知行地でした。現在本丸は浮牛城農村公園として整備され二ノ丸跡・堀跡などに立札が設置されています。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 安倍貞任?
築城年 不明
主な城主 江刺氏、瀬上氏、小梁川氏、藤田氏、田手氏、古内氏、中島氏
遺構 曲輪
再建造物 碑、説明板
住所 岩手県北上市口内町松坂