案内板によりますと、この城は安倍貞任の築城で、牛三頭を生き埋めにして鎮護したと伝わります・・って本当か?
鎌倉時代には、この地方の国主葛西氏七党の一人・江刺氏の一族である口内氏が居住していたが、天正18年 葛西氏が滅亡したため当地を去って行きました。その後は伊達藩の要害の一つとなっています。
元禄8年(1695)伊達家一門格の中島利成が2,524石で入ってからは明治まで定着しています。口内川の左岸の丘陵の上に築かれており、頂部に本丸があり、腰曲輪も備わっています。東南側の二の丸外側には水堀がめぐらしてあったとされ、北東側の丘陵続きは空堀で区切ってあったようです。大橋跡にかかる橋を渡って城址に向かい、詰御門跡・曲輪・本丸門跡を通って本丸に至りました。
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